第2章 その1
零れた溜め息が存外重く、現状の苦しさを思い知る。監獄まで届く大歓声に包まれてガレー船団が帰還して以降、世の趨勢はユリシーズに不利な方向へと傾いていた。
ハイランバオスがアクアレイアの間接支配を諦めたなどまだ信じられない。交易路を塞ぐことで徐々にだが確実に王国の力を削いできた帝国が今になってどうして態度を翻したのか。
ジーアンが現王家の存続を認めることは絶対にない。そう踏んだからこそ己も危険な賭けに出たのに。
嘆いても仕方がないのは百も承知だ。だが嘆く以外することがないのも事実である。ユリシーズは顔を歪めて終の棲家を見渡した。
独房は最初に放り込まれた地下牢とも今までにいた監獄塔とも趣を異にしている。分厚い扉の物々しさと窓に嵌められた鉄格子を除いては貴族の住いそのものだ。贅沢な調度品、冷気から囚人を守る絨毯、貴重な写本が山と積まれた書き物机。至れり尽くせりの待遇に却って焦りを募らされる。
牢獄の割に広く低く設けられた窓の外を眺めれば、脱獄不可能な重罪人用の一室に閉じ込められているのはすぐ知れた。監獄塔でさえ最上階は五階だったのに、ここは地上十七階だ。高さからして逃がす気がない。
自分で壊した大鐘楼に収容されるとは思わず、皮肉な巡り合わせに唇を噛む。眩暈がするほど地面は遠い。保釈の希望はもっとだった。
(私はこのまま終わるのか……)
紺碧のアレイア海を見下ろしてユリシーズは強く指先を握り込んだ。
喜び勇んで大商船団が旅立ったのは今月初め。暦はじきに一四四〇年最後の月を迎えようとしている。
レドリーとディランは先の航海で軍規に反した罰として謹慎中らしく、面会に訪れる様子はなかった。牢を移された時点で死刑は確定済みだろう。あとはそれがいつ執行されるかだけだった。
新年まで持ち越すような案件ではない。なら己が生きていられるのは――。
(ついに彼女は来ないままだったな)
聡明な眼差しを、緩やかにうねる長い髪を思い出す。この手に掴み、留めることのできなかった美しい波。
失意の海に深く沈んで何も考えられなくなると、彼女の声や微笑みばかりが甦った。
まだ愛しているのだろうか。それとも憎さで忘れがたいのか。どちらにせよ果たせぬ思いである以上、重く圧しかかるだけだったが。
「――」
と、そのとき、ユリシーズは水平線に複数の船影がよぎったのに気がついた。
陣形を組んだ巡視隊なら違和感を抱きはしなかったろう。だが現れた船団はそんな可愛らしいものではなかった。一隻、二隻、三隻とユリシーズが数える間に続々と仲間を増やし、たちまち三十隻超の大ガレー船団となって周辺の海を埋めてしまう。しかもその帆先はすべてアクアレイアに向けられていた。
(なんだ? どこの連中だ?)
所属旗がないのに眉をひそめると同時、天井からけたたましい鐘の音が鳴り響く。耳を塞いでいなければ鼓膜が破れそうなほどの。
大鐘楼は灯台と監視塔を兼ねる軍事施設だ。有事の際には都に警鐘を鳴らす役割を担っている。この激しい鐘の突き方はただごとではなさそうだった。
(まさか攻撃を受けているのか?)
鉄格子に張りついてユリシーズは沖合に目を走らせた。大船団の陰に隠れてよく見えないが、交戦中と思しき王国船がある。さらにその後ろからは勝負を諦めて撤退に転じた二隻のパトロール船が逃げ出してきていた。
(駄目だ。あの速度では)
非情にも二隻の退路は敵船に塞がれる。逃げ場を失くした船の甲板には矢の雨が降り注いだ。
見張り兵も同じ光景を見ているのだろう。頭上で響く鐘の音が急速に激しさを増していく。
海軍本隊が救援に現れたのはその直後だ。列を成し、果敢に声を張り上げて彼らは同胞のもとへ急いだ。
だが逃げられたのは結局一隻のみだった。ほかの二隻は敵船に囲まれ、船体に穴を開けられ、沈没は時間の問題に見えた。海に投げ出された人間を助けるのは難しそうだ。いや、それどころかこのままでは本隊のほうも危うい。
商船団の護送にブラッドリーを就かせたくらいだ。大ガレー船団による襲撃を想定した戦力がアクアレイアに残されているとは思えなかった。ここは一度退いたほうが賢明である。
(王国船は一、二、三……たった七隻か。七隻では港の防衛で手一杯だな)
指揮官もユリシーズと同じ考えだったらしい。無理に敵陣に突っ込むことはせず、敵が湾内に入り込まぬよう砂洲の切れ目の海門付近を固めている。
災難に遭った巡視船がアレイア海から王国湾へ逃げ込むや、鉄の鎖を積んだ小舟が海門に漕ぎ出した。両岸に鎖を渡して船を通せなくするつもりなのだ。
自分たちまで締め出されてはならないと、一度は飛び出した救援船が次々に引き返してくる。さすがにこれを追ってくる愚かな敵はいなかった。
(たとえ封鎖を突破できても、ああ入口が狭くては一隻ずつしか湾に入れないからな。袋叩きにされるとわかっていて飛び込んでくる馬鹿はいまい)
かくして戦況は膠着状態に陥った。一時間、二時間と砂洲を挟んでひたすら睨み合いが続く。見守るユリシーズの胸に次第に苛立ちが募り始めた。
(指揮官は何をやっている? 守らねばならん海門は一つだけではないだろう。アクアレイア湾の出入口はほかに二つもあるのだぞ。さっさとそちらにも手を回さねば――)
「……!?」
三度目の鐘が轟いたのは日没の少し前だった。南を見ろと怒号が響く。
あいにくと南方はユリシーズの独房からは確認できない方角だった。しかし何が起きたかは釣鐘を守る兵の絶叫が教えてくれる。
「漁村の砦の旗が! クルージャが落ちたぞ!」
陥落したのは王国最南端の岬を守る小規模な城砦だった。
気まぐれな海賊の襲撃ではない。軍人の勘がそう告げる。
(こちらは陽動だったか……!)
物量を投じた大胆な欺きにごくりと息を飲み込んだ。主力が釘づけになっているうちに、こうもあっさり拠点の一つを奪われるとは。
なすべきことは終わったと言わんばかりに敵船団は南方に引き揚げていく。手に入れた砦で彼らが船を休ませることは想像にかたくなかった。十隻足らずのガレー船ではそう簡単にクルージャ砦を取り戻せないことも。
(一体どこの――いや、誰に手引きされた連中だ?)
ぞくぞくとユリシーズの背に震えが走る。知らぬ間に暗い瞳は爛々たる光を取り戻していた。
(もしかすると、私の運はまだ尽きていないかもしれないぞ)
せり上がる笑みを噛み殺す。
大鐘楼には慌ただしい声と足音が響いていた。
******
どうやら奇襲は成功したようだ。見上げた砦の主塔から王国旗が降ろされたのを確かめて、ガレー船上のリーバイはほっと胸を撫で下ろした。
最初の山であるコリフォ島はカーリス共和都市の協力ですんなり越えられた。アクアレイアの前衛基地から急を告ぐ快速船が出ていたら、警戒を強めさせ、攻めあぐねる結果となっていただろう。
クルージャ砦を制圧できたのは大きい。ここは王国湾に浮かぶ幾多の島々と違い、パトリア古王国領と地続きの大陸側の岬なのだ。一度押さえ込まれれば奪い返すには兵を上陸させるしかない。海軍頼みのアクアレイア人には難しい注文だろう。たとえ名のある傭兵団を雇えても、これだけのガレー船団が相手では海戦になど到底出られぬはずだった。
「リーバイ! 残党に気をつけいよ!」
と、岬の奥の軍港に入ろうとしたリーバイにしゃがれ声の忠告が飛んでくる。歩廊の矢間に目を上げれば上陸部隊の指揮を任せたランドン・アロースミスが厳しい顔を覗かせていた。
白い髪と深いしわ、痩せた肉体は老人のそれである。だが彼の眼光はこちらの身がすくむほど鋭い。かつてはヴラシィ共和国の名高い猛将であったというのも頷ける。
重鎮の助言に従い、リーバイは弩を構えて甲板から軍港内を見回した。
入江を囲む堅牢な石壁に響く剣戟の音はない。舗装された船着場にも人影はなく、日陰の港はごく静かなものだった。
「おい、リーバイ! あれ!」
肩を叩かれてリーバイは振り返る。示されるまま西を向けば二隻の王国船が映った。乗員数はこちらの半分にも満たなさそうな、かなり小型のガレー船である。王国湾へと逃げ込む彼らにドナの男たちが沸いた。
「たった二隻だ、本隊と合流する前にやっちまおう!」
「リーバイ、号令をかけてくれ!」
勇み足に乗せられて思わず指令を出しかける。だが老将の怒鳴り声が軽率な兵を引き留めた。
「馬鹿者、奴らの潟へ入るんじゃない! 聖王がなぜアクアレイアに負けたか忘れよったのか!」
言われてハッと思い出す。アクアレイアがパトリア古王国から独立しようとした際に、聖王の軍勢に泡を吹かせた戦術を。
水上都市の湾は浅い。満潮時には悠々と船を進められても干潮時には水位が下がって通れなくなる場所が多々ある。逃げるふりをして背中を追わせ、敵船を座礁させ、前にも後ろにもいけなくなったところに火矢を射かけて一隻ずつ撃破したのだ。ここの初代国王は。
夕刻が近づき、潮は一気に引き始めていた。深追いしていたら危ないところだった。
「……まずは拠点を固めるぞ。焦らずに、じっくり腰を据えてやろう」
ランドンに頭を下げ、リーバイは周囲の男たちにそう指示した。反対意見が出るはずもなく、旗艦は軍港のどっしりした桟橋に寄せられる。
アクアレイア軍船は忌々しげに後退していった。同時に彼らは小舟を出してそこらの木杭を抜いて回る。
湾内の通行可能ルートを示す標識だ。あれを取り上げられてしまってはもうよそ者に正しい航路を見いだす術はない。
王都を難攻不落にするのがこの水の障壁だった。守りに入ったアクアレイアを打ち崩すのは容易でない。特にレーギア宮や国営造船所のある本島は潟湖のほぼ中央に位置し、長弓の矢さえ届きそうになかった。
だがいいのだ。内陣に切り込まなくとも勝つ方法はある。その下準備もほぼ済んだ。
「リーバイ、もう降りて大丈夫だ! アクアレイア兵は全員追い出したぜ! 残ってんのは逃げ遅れた負傷兵くらいだ!」
と、クルージャ攻略組だった数人が嬉しそうにガレー船へ駆け寄ってくる。ぼろぼろの彼らの姿を目にしたら自然と感謝の気持ちが溢れた。最低限の武器と人員だけで、皆本当によくやってくれた。
コリフォ島基地と同じくこのクルージャの要塞も内部で軍港と繋がっている。念のため戦闘員は船に配したままにしてリーバイは急ぎ橋板を渡った。
向かった先はランドンの陣取る主塔である。螺旋階段を駆け上がり、老将と無事の再会を果たすとランドンはまるで息子の相手でもするようにリーバイの短髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「よくやった! よくやったぞ! おぬしらが上手く引きつけてくれたおかげでこっちには一人の援軍も来んかったわい!」
「そいつは良かった。怪我人はどうした?」
「一箇所に集めて心得のある者に看させとる。捕虜のほうはまだ手つかずじゃ」
「世話をしてやる余裕はないな。解放するのが良さそうか」
「うむ、わしもそう思う。でなければこっちの兵がほだされよる」
リーバイはランドンと頷き合う。バオゾを発つ際「全員覚悟を決めろ」とは言ったが何人が初志を貫けるかはわからなかった。戦わねばならぬ相手は憎きジーアン兵でなく、かつての仲間のアクアレイア人なのだ。いつ誰が「こんな戦いをしてもいいのか?」と言い出してもおかしくなかった。
「そっちはどうじゃった? チェイス坊やが張り切っておったろ」
「ああ、警邏中だった三隻のうち二隻は沈めた。これでアクアレイアの軍船は俺たちの半分以下になったはずだ」
先刻の光景が甦り、リーバイはわずかに表情を曇らせた。
逃げ出したアクアレイア船の前に立ち塞がったとき、対峙した敵兵は皆一様に戸惑っていた。なぜドナやヴラシィの男たちが戻っているのか。そしてなぜ自分たちに攻撃を加えてくるのかと。
リーバイでさえ一瞬追撃を躊躇した。アクアレイアを落とさなければ未来に続く道はないとわかっていたのに。チェイス・ファウラーが――若者グループを取りまとめるあの青年が矢を放ってくれたおかげで我に返れたのだ。
今一度心臓に刻み直した。どんな誹りを受けても今回は非情に徹すると。
「おぬしは皆の大将じゃ。つらい思いもするじゃろうが、すべて一人で背負うと思うな。ヴラシィもドナも、今は一心同体じゃぞ」
老将の温かい言葉に唇を引き結ぶ。
クルージャ岬のさらに南へ船を回していたチェイスが城砦に戻ってきたのはそれから数十分後のことだった。
「リーバイさん、ランドンさん! ピルス川まで様子見てきたよ!」
軍議室で主だった者と今後について話し合っていたリーバイは快活な青年の声に顔を上げた。
チェイスはリーバイと同じドナ出身で、見るからに今どきの若者だ。初めは彼の浮ついた雰囲気に不安も少なくなかったが、今ではランドンに次ぐ心強い同志である。
戦火に巻かれ、頬から首にこびりついた火傷の痕はいつ見ても痛ましかった。女が放っておかない容姿だから余計そう思うのかもしれない。ジーアン軍から恋人を逃がすため、わざと負った傷なのだと本人は自慢にしていたが。
「おお、チェイス! どうじゃった? 天帝の言っていたことは本当じゃったか?」
「うん。もう補給物資が届いてた! それにお客さんも!」
青年の連れてきた客人に軍議室がざわめく。
緑と青を基調とするチュニックに鳥の尾羽根をあしらった黒帽子。それだけならぎょっとするほどの出で立ちではないが、客人の顔は無機質なアイマスクで隠されていた。わずかに覗く唇に微笑を浮かべているだけで、挨拶どころか名乗りもせず、正体を明かす気がないのが窺える。
「我々があなた方を支援するのは決して公的な決定ではありません。たまたま我が国の軍備の一部がピルス川に流されて、たまたまあなた方の手元に届いた――そういう体でお願いします」
秘密の約束にリーバイは息を飲む。ちらと仲間に目配せしてから「わかった」と頷いた。
男か女かもわからぬ使者は恭しく一礼する。優雅な手つきでその足元の木箱を示され、リーバイはやや身構えた。
「兵糧や装備とはまた別の軍資金です。お困りの際にお使いください」
それだけ告げると客人は早々に立ち去った。最後まで態度を崩さず悠然と。
「…………」
残されたリーバイたちはしばし声も出なかった。確かにヘウンバオスからはカーリス共和都市以外の援助もあると聞いていたが。
「……まさか本気で聖王がアクアレイア潰しに乗ってくるとはな……」
パトリア古王国領からクルージャ岬の南方を経てアレイア海に注ぐ豊かな川。『乙女の髪』とも呼ばれているこのピルス川がリーバイたちの生命線だ。
補給路さえ確保できれば何ヶ月でも要塞に居座れる。地の利は王国にあるとしても、持久戦ならリーバイたちに分があった。長々と交易に出られなかったアクアレイアは満身創痍も同然なのだから。
「後には退けない。やるからには絶対勝つぞ。勝って故郷に帰るんだ!」
リーバイは急ごしらえの指揮官たちに呼びかけた。返される眼差しは暗くも熱く燃えている。
――これが二ヶ月超に及ぶ、アクアレイアとの戦いの幕開けであった。




