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第1章 その3

 事態が一変するときはすべてが急速に変わるものだ。

 ガレー船団の帰還からおよそ半月、アクアレイア人の笑顔は見違えて明るくなっていた。

 変わったのは街の空気だけではない。傭兵団に対する彼らの態度もだ。

 居残り組の契約終了が近づいて、公国への帰り支度を進めていたグレッグがレーギア宮に呼び出されたのは今朝のこと。「新しく契約を取り交わしたい」と王国政府が示してきたのは思いがけない好待遇だった。

 本日十一月一日より三ヶ月、マルゴー正規兵ではなくグレッグ傭兵団として王都の警備に当たってほしい。そう依頼され、目を落とした契約書には驚きの報酬額が記されていた。

 アクアレイアはなんと平時で百万ウェルス、戦闘が発生すれば追加で五十万ウェルス出すという。想定外の高額雇用にサインをする手が震えてしまうほどだった。


「なっ? 俺についてきて良かっただろ? 海賊どもの身代金は手に入るし、稼ぎはどんどん良くなるし、有能すぎて自分が怖いくらいだぜ!」


 グレッグは鼻高々に仲間に詳細を報告する。が、しかし、王宮の正門を出てすぐの広場で待っていた彼らから期待した称賛は寄せられなかった。右隣では呆れ顔の青年剣士ルース・ヤングが、左隣では冷めた目つきの見習い少年ドブ・ヴァレンタインが、気の合うことで同時に盛大に嘆息する。


「……旦那さあ、用事が済んだらとっととマルゴーに帰るんだーって言ってたよな?」

「アクアレイア人は信用ならねえ、こんなところにいたら性悪がうつっちまう、なーんて大騒ぎしてたのは誰だよ?」


 過去の発言を持ち出され、グレッグはうっと喉を詰まらせた。「いや、その、前はちょびっと誤解してたんだよ」と言えばまたもぴったりの呼吸で「ったくすぐにほだされちまうんだから!」とどやされる。


「まあ今回はいいよ、今回は旦那でなくてもオッケーする条件だ。けどいつも旦那の尻拭いさせられてるのは俺だってこと忘れないでくれよ?」

「ルースさん、例の身代金って今誰が管理してんの? まさかこのオッサンに持たせたままにしてないよな?」

「安心しな、ドブ少年。旦那はホイホイそこらの孤児モドキやら病人モドキにバラまいちまうから、全部取り上げてやったよ」

「あー良かった。頭も財布もゆるゆるだもんな、このオッサン」

「バオゾには二人してついて行けなくて心配し通しだったよなあ!」

「ほんとほんと! 俺たちがいりゃ悪徳商法に引っかかるなんて醜態晒さずに済んだろうに、なあルースさん!」


 好き放題に貶しまくる二人に「オイ」と怒りの鉄拳を落とす。

 長年グレッグ傭兵団の副団長を務めるルースは長い髪一本乱すことなく回避したが、一年前に拾ったばかりの生意気坊主は「いでッ!」と脳天を押さえて座り込んだ。


「ルース! お前がついてこれなかったのはアクアレイアの気候が合わないで寝込んでたせいだろが!」

「旦那ァ、そりゃあ俺が病にまで惚れ込まれる色男ってだけの話さ」

「ドブ! お前はスリでその日暮らしだったのを俺が団に引き入れてやったんだぞ!」

「へへ、そいつは感謝してるって」


 のらりくらりと叱責をかわされ、もはや怒鳴る気も失せる。グレッグが脱力したのを見て二人はまたすぐ両脇に寄ってきた。


「けど一つ言っとくと、今度のべらぼうな契約金は俺たちが王都でお行儀良く過ごしてた成果なんだからな?」

「そうそう、チャド王子直々に揉め事は避けてくれって頼まれてさ。ちなみにオッサンは行き帰りの船でくだらねー喧嘩なんてしてないよな?」


 質問には答えずグレッグは渋い表情で腕を組み、広場の先の海を見やった。「あの船団が出てったら傭兵団も次の任務開始だな!」と強引に話題を逸らす。

 大運河に面する国民広場は今年最後の商船団の見送りでごった返していた。集まった人々は自分の買った積載枠に何を載せたの、ノウァパトリアでは何を買ってきてもらうだの、無邪気に盛り上がっている。嬉しげな彼らを見ていると正規兵としてバオゾまで出向いた己もなんだか誇らしい気分だった。


「おっ、見ろよ。今税関岬から出てきたのが旗艦ってやつだ! ブラッドリーとハイランバオスが乗ってるから間違いねえ!」


 グレッグはアレイア海へ漕ぎ出さんとする船に見知った人間を見つけて指を差す。けれど示した方角を見やったのはルースの整った顔だけで、ドブのほうはなぜか周囲の人垣なんぞに目をやっていた。その三白眼がいやに真剣なものだから、手癖の悪い部下の多いグレッグはつい疑いを向けてしまう。


「……どしたんだ? お前まさかスリのカモ探してんじゃないだろな?」

「うわっ! ち、違う違う! 小銭が落ちてた気がしただけだよ!」


 慌てて首を振るドブにルースが「本当は可愛い子でもいたんだろ?」と笑いかけた。毎度滞在先で浮名を流さねば気の済まない美剣士に少年は「もう!」と顔を真っ赤にする。


「隠さなくていいんだぞー、お前くらいの年なら興味あって当然だ!」

「だからそういうのじゃないってば!」


 ドブはマルゴー人らしい茶色の髪を振り乱す。本気で気分を害したようで、小柄な少年は精いっぱい声を荒らげた。


「万年欲求不満男のルースさんと一緒にすんなよな!」

「ま、万年欲求不満男ォ!?」

「だっはっは! だーっはっは!」


 あんまりな言い様にグレッグは腹を抱えて大笑いする。ついさっき指差した船の上で一つの魔法が解けたことにも気づかずに。

 沖へと遠ざかる旗艦の甲板では凍りついた聖預言者が呆然とグレッグたちを見やっていた。







 ――今すぐに船を止めて!

 ――私を広場へ戻してちょうだい!


 叫びかけた言葉をアンバーはかろうじて飲み込む。信じがたい巡り合わせにただただ肩を震わせた。


(こんな姿であの子になんて名乗るつもり?)


 自問がなんとか激情に蓋をする。わななく指は無意識に心臓を掴んでいた。

 これから重大な使命を帯びてヴラシィを目指すところだったのに、ルディアに「頼む」と言われたのに、どうして今こんなところで出会うのか。


「アイリーン……」


 小さな声で付き人を呼ぶ。だがそれはとてもではないが「ハイランバオス」の喉から出てきた声だとは思えなかった。アイリーンにも即座に異変が伝わるほどの、出してはならない己の声。


「ど、どうなさったんですか?」


 ヴラシィでの新生活に付き添ってくれる予定の彼女はアンバーと同じ旗艦の船尾に立っていた。乗組員は誰も彼も旅立ちの旗を振るのに懸命だ。波を掻く漕ぎ手も含め、こちらを振り向く者はいない。

 うねる王国旗に紛れ、アンバーはおののきながら囁いた。


「どうしよう。生きてるなんて思わなかったのに……。息子が……、ドブが、あそこにいるのよ……!」


 霞みゆく国民広場を指で差す。

 聖預言者から母に戻るのは一瞬だった。

 舞台の幕は開いたまま演目だけが終わりを告げる。

 仮面の剥がれた哀れな役者をステージに縛りつけて。




 ******




 わざわざ名指しで呼びつけてきたということは、あの男もそろそろ動き出すつもりなのだろう。草原にも似た王者の庭に目当ての幕屋を見つけるとコナーは「どうも」と入口の布を捲った。


「住処を奥の宮に移せ」


 開口一番ヘウンバオスはそう命じる。お前に拒否権はないと言わんばかりの傲岸さで。


「ほう。奥というと後宮ですかな? まさか宦官として仕えよとご命令で?」


 おどけて問うと天帝は素っ気なく首を振った。


「お前は臣下ではなく客人だ。ノウァパトリアには皇帝のための女の園があるらしいが、私が集めているのは美貌より頭脳でな。職人でも学者でも有識者はひとまとめに囲ってある。今日からそこの仲間入りをしろ」


 なるほどと合点する。それで今までいるはずの虜囚と出くわさなかったのか。


「お前専用のアトリエとやらも造らせた。荷物はすべて兵に運ばせる。案内をやるからすぐに――」

「おや、それはいけません。私の持ち物は取扱い要注意なのです。引っ越しの荷運びは私が私の手でやらせていただきますよ」


 命令に注文をつけるとヘウンバオスはむっと眉間にしわを寄せた。だが強引に突っぱねてはこない。認める代わりに「今日中にやれ」と条件を加えただけだった。


「しばらく私を表に出さないおつもりで?」

「…………」


 問いかけには沈黙と不穏な笑みが返される。答えをはぐらかそうとした天帝に先んじてコナーは一枚手札を晒した。


「アクアレイアへの攻撃なら咎めるつもりはありませんよ。私は祖国のためを思って天帝宮に残ったわけではありませんから」


 意表を突かれた風もなくヘウンバオスは頬杖をついた。長椅子に上げた膝にもたれ、明敏な緋色の瞳で睨んでくる。


「嘘をつけ。ならばなぜ祝宴の最後にアクアレイア人どもに合図した?」

「合図? ああ、ウィンクのことですか。あれはアクアレイア人にではなく、あの中にいたとある人物にサインを送っていただけです。どうやらすべて予定通りに運びそうだと」


 平常は彫像のごとき額にまた深くしわが寄る。

 この男は意外に若い顔をするのだ。神のふりなどしていても地を踏みしめて生きている。

 くつくつと笑うコナーにヘウンバオスは手元の菓子皿の胡桃(くるみ)を投げつけた。難なくそれをキャッチして胸ポケットに収めてしまう。

 胡桃の花言葉は知性・謀略・知恵・野心――いかにもこの場に相応しいではないか。


「ある人物とは誰か聞いても答える気はないのだろうな?」

「ええ、ですがあなたのご想像に違わぬ方だと思いますよ。私は彼に味方する気もありませんがね」


 天帝は三度しかめ面を見せた後、諦めた素振りでどさりと座り直した。

 根掘り葉掘り尋問しないのは力に自信があるからだろう。その強い自負心が彼に謎解きを楽しむ余裕を与えている。


「……まあいい。お前が傍観を決め込む間は無害と見なしてやることにしよう。とりあえずさっさと宮殿を引き払え。私はあそこでやることがあるのだ」

「仰せのままに」


 ケープの端を指で摘まみ、コナーは優雅に辞去を告げた。

 踵を返し、颯爽と幕屋を後にする。沈黙を保っていた数名の将たちが天帝に何やらぼそぼそ耳打ちするのを尻目にして。




 ******




 常ならぬ物音に気づき、アニークはオレンジの茂る中庭で顔を上げた。

 二重アーチの回廊の奥、吹き抜けになった階段の間でドスンバタンと誰かが忙しく動き回る気配がする。

 天帝宮の住人は己ともう一人だけだ。何をやっているのだろうと気になってこそりと足を忍ばせた。

 柱の陰から覗いてみれば、珍しく腕まくりしたコナーが画材や写本や薬品を所狭しと並べている。中央の交差階段には結構な量の荷物が積み上がっており、驚いたアニークは慌てて画家に駆け寄った。


「先生! まさかアクアレイアへ帰っておしまいなの?」

「おや、アニーク姫。本日もご機嫌麗しゅう」


 夕闇の訪れとともに宮殿はおどろおどろしい雰囲気を醸しつつあった。掃除を日課にするようになって城の荒れ方はましになったが、こんなところに一人取り残されるのはごめんである。

 が、アニークの祈りもむなしくコナーは今夜出て行く予定だと明かした。


「実は天帝陛下に場所を移れと言われましてね。帰国するわけではないのですが、アニーク姫にお会いするのは難しくなるかなと」

「ヘウンバオスに? あの男、とことん私に孤独を味わわせたいのね……!」


 アルフレッドたちがいなくなった後、勇気を出して話しかけてからコナーはアニークの友人になってくれた。それをまた取り上げられるのかと思うと腹が立って仕方ない。

 だが抗議をしても無駄なのはわかっていた。今はただ生き抜く以外にできることなど何もないのだ。


「……ねえ先生、あなたに頼み事をしてもいいかしら?」


 やや逡巡し、アニークは左耳のピアスを外した。完全な球形をした最高級のパトリア石を使用した、シンプルで贅沢な一品だ。包む布もないままにコナーの手にそれを託す。


「こちらをどのようにいたせばいいので?」

「王都防衛隊の隊長、アルフレッド・ハートフィールドに渡してほしいの。色々世話をしてもらったお礼がしたいのだけど、当分は無理そうだから……」


 本心を悟られないように言葉を濁す。礼がしたい気持ちに嘘はないけれど、それだけでもなかったから。

 夢から覚めた後の二ヶ月はアニークに現実を突きつけた。まったくなんにもできないよりは少しできるくらいのほうが思い知る無力感は大きいのだ。

 恵まれた環境にありながら今まで何をしていたのだろう? 何を見て、何を聞いて、何を学んできたのだろう。打ちひしがれそうになったとき、思い出すのはいつでもアルフレッドだった。そうして今度は淋しさにくじけそうになる。

 私は毎日彼の名前を呼ぶけれど、彼が私を思い出すことはあるかしら?

 問いの答えは出なかった。だからせめて記憶を呼び起こせそうなものを彼に持っていてほしかった。

 小さいものなら邪魔になるまい。宝飾品なら売ることもできる。捨てられたとしても構わないのだ。こんなのはただの自己満足だから。


「では花でも添えてお渡ししましょう。リクエストはございますか?」


 快く承ってくれたコナーに「ありがとう」と礼を述べる。


「そうね。じゃあアネモネとか、何か赤い花をお願い」


 アニークの頼みに画家は穏やかに微笑んだ。







 それから一時間もすると、月明かりの天帝宮にアニークは再び一人になってしまった。ぽつんと果樹の間に座り、ぽっかり開いた天井から覗く夜空を仰ぎ見る。

 こうして星を眺めているとあの夜に戻れる気がした。

 耳には軽やかな楽の音が甦る。握った手の温もりもまだ残っている。錯覚と言われればそれまでだけれど。

 ――静寂が乱れたのはウトウトと眠りに落ちかけた矢先だった。

 複数の不規則な足音。一部屋ずつ扉を開けて回る気配。賊でも入り込んだかとアニークは慌てて飛び起きた。オレンジの木に足をかけ、本能的に身を隠す。

 だが枝葉に隠れてやり過ごそうとしたことが却って災いを招いてしまった。揺れ動く影に気づいた誰かが中庭に踏み込んできたのだ。


「アニークだ。捕らえろ」


 冷酷な声には聞き覚えがあった。威圧的で、侮蔑的で、人を人とも思わない――天帝ヘウンバオス。

 どうしてこの男がと思う間に取り囲まれる。武骨な兵に腕を引かれ、枝から地面に強く叩きつけられた。


「あうっ……!」


 盛り上がった根っこに背中をぶつけたらしい。痛みで呼吸ができなくなる。手首を掴まれ、逃げることもかなわずに、恐怖だけがせり上がった。

 いや。なんなの。なんなのこれは。

 今までずっと放置しておくだけだったのに――。


「やれ」


 何をするのか打ち合わせ済みの短い命令。

 押さえつけられ、馬乗りで喉を絞められ、アニークは懸命にもがいた。

 手を伸ばす。救い出してくれる誰かを求めて。


(アルフレッド……!)


 意識は間もなくぷつりと途切れた。

 見えたと思った騎士の姿は幻だった。




 ******




 ヴラシィに着いて一週間、寝台を降りられない日が続いている。

 どうしても普段の落ち着きを取り戻せない。このままではいけないと頭では理解していても。


「はあ……」


 岬を守る古い砦の一室でアンバーは重い息をついた。

 部屋中に己の嘆息が充満しているような気がする。金細工の調度品も、色彩豊かな絨毯も、今はただ灰色にしか見えなかった。

 商港を切り盛りし、いずれこの地の男たちを呼び戻せとのルディアの指令を思い出す。今のままでは何もできない。ルディアに拾われた者として、信頼に応えなければならないのに。


(ひと目だけでもあの子に会いたい。元気に暮らしているのか知りたい……)


 ブラッドリー率いる大船団が南下するのを見届けて、十一月が半ばを過ぎてもアンバーは聖預言者に戻れそうな気がしなかった。体調を崩していると嘘をつき、なるべく誰にも会わずにいるが、ずっと伏せているわけにもいくまい。


(早く気持ちを切り替えなくちゃ……)


 折を見て王都に戻りましょうとアイリーンは励ましてくれていた。とは言え今この街に船は余っていないから、船団の戻る春まではじっと待つしかないのだけれど。


「あのう、ハイランバオス様、ラオタオ様がお見舞いに来られたんですが……」


 と、控えめな声とノックの音が石造りの寝所に響いた。アイリーンに潮風の入る窓を閉めてもらい、アンバーは「どうぞ」と客人を招き入れる。


(嫌だわ、こんなときに)


 ふと見た右手は汗ばんでいた。らしくもなく緊張している。今までずっと、天帝の前でだって自然体のハイランバオスでいられたのに。


「あーあー、ハイちゃんまだ本調子じゃなさそうだねー」


 寝てて寝ててという身振りにアンバーは長椅子型のベッドへ戻った。せめて起き上がっていようと浅く腰かけ、伏し目がちに「すみません」と謝罪する。

 ヴラシィに到着して以来、ラオタオとはまともに会っていなかった。迂闊に喋ってボロを出すのが怖かったのだ。

 しかし先のことを考えれば避けてばかりもいられない。アレイア海東岸では何をするにも彼の同意がいるのだから。


「梨食べるー? ハイちゃんのためにもぎもぎしてきたからさー」

「ええ、ありがとうございます」


 腰のナイフを抜いたラオタオはアイリーンに持たせた皿から瑞々しい果実を掴み取り、器用に皮を剥き始めた。

 病人への気遣いからか今日の彼は変に静かだ。いささか不気味に感じるほどに。


「ハイちゃんさあ、本当に元気ないよねえ。アクアレイアでなんかあった?」

「旅の疲れが出ただけだと思います。大丈夫ですよ」

「それならいいんだけどさー、俺もちょっと気になっちゃって」

「心配をおかけしてすみません。私としても早く仕事を始めたいのですが」

「まあねー、そのためにわざわざヴラシィまで来たんだもんねー。でもいくら周りに信者がいないからって手ェ抜きすぎじゃないかと思うよ? バオゾでは笑っちゃうくらいハイちゃんの真似できてたじゃん。それともまた別の誰かと入れ替わったの?」


 ――何を言われたのかわからずに一瞬頭が真っ白になる。

 咄嗟の判断というよりは本能的な危機感でアンバーは腰の鞭を掴んだ。

 だがこちらが身構えるよりも早く、狐の腕はアイリーンを背後から捕らえて痩せぎすの喉に鋭い刃を突き立てる。


「……っ!?」


 彼女の手から滑り落ちた皿は足元で砕け散った。ラオタオは美味そうに梨を頬張りつつ「動かないでねー」と笑う。


「ラ、ラ、ラオタオ様これは……っ!?」

「うん? なんだと思う?」


 楽しげに目を細めたまま狐は答えようとしない。扉の陰に潜んでいた二人の屈強なジーアン兵が押し入ってきたのは直後だった。

 状況もわからず、ろくな抵抗もできぬままアンバーは縄で縛られる。ちらと見やったアイリーンもラオタオに抱きつかれる格好で依然拘束されていた。


「アイリーンちゃんはさあ、ハイちゃんのこと大好きだったよねえ?」

「えっ!? あの、きゅきゅきゅ急になんの話を」

「隠さなくていいよー、どうせバレバレだったんだし」

「バッ……いえ! そ、そんなことはいいので離してください!」


 可哀想に、非力な彼女はまるで操り人形だ。ラオタオに万歳させられたり、柔軟体操をさせられたり、泡を吹いて目を白黒させている。


「ハイちゃんに多大な恩があってー、ハイちゃんのこと崇拝すらしてる君はー、きっと本物のハイちゃんの味方になってくれるよねえ?」


 アンバーも、アイリーンも、あまりの台詞に絶句した。

 本物のハイランバオスとはなんだ? まさかあの聖預言者がどこかで生きているというのか?


(そんな馬鹿な。この肉体は間違いなくハイランバオスのもののはず)


 別の誰かと入れ替わったのかとラオタオは尋ねた。脳蟲の生態に通じた人間でなければまず出てこない言葉である。そのうえ彼は本物のハイランバオスが存在すると言ったのだ。


(まさか最初から知っていた? 彼も、ひょっとして天帝も――)


 アクアレイアが危ない。直感がそう告げた。

 あの美しい巣を欲しているのはグレース・グレディだけではなかったのだ。


「……ッ」


 アンバーは逃げ出そうと試みた。けれどすぐ粗野な腕に引き戻される。

 狐は楽しげに笑っていた。残虐な遊びを思いついた幼い子供の顔をして。




 ******




 コリフォ島海軍基地の司令官トレヴァー・オーウェンは王国に迫る未曽有の危機に猫の毛ほどもまだ勘付いていなかった。おっとりした学者気質の性格が平和な島暮らしに助長され、商船団が次の島に向かって出航した後は「これでアクアレイアも安泰だな」とすっかり油断しきっていたのだ。

 冬の海は荒れがちだが十二月にはエスケンデリヤ組もクプルム組も目的地に着くだろう。春にはもっとたくさんの商船がこの島へやって来る。そうしたら己の任期も満了で、愛しい妻子の待つ本国に帰る予定になっていた。

 ああ、早く可愛いジャクリーンを抱きしめたい。一人娘はすっかり男嫌いに育ったが、父親の自分にだけは愛らしい笑顔を見せてくれるのだ。

 早く春が来ればいい。富を積んだ幾多の船がアレイア海に戻る春が――。


「た、大変ですトレヴァー大佐! 船が! ものすごい数の船がアレイア海に迫っています!」


 早すぎる空想の実現にトレヴァーはぶふっと吹き出した。

 報告に駆け込んできたのは鐘楼からの伝令だった。息を整える間も惜しみ、青ざめた兵は五十隻以上の所属不明船が北上している旨を述べる。


「ごっ五十隻ィ!? 海賊にしては多すぎるな。旗は掲げていないのか?」

「は、はい。どの国の旗も。基地の守りは固めさせておりますが、いかんせん数に差がありすぎます。大佐、いかがいたしましょう?」


 問われてトレヴァーは低く唸る。

 コリフォ島基地にはガレー軍船が五隻、小型の快速船が一隻常備されているのみだ。島は要塞化されているので軍港への侵入さえ阻止できれば安全だが、だからと言って素直に見送るわけにもいかない。


「と、とにかく本国に連絡だ! 商船団を護衛するのにアクアレイアの軍船は最低限しか残っていない! 警戒を強めるように伝えるんだ!」


 的確な指示は、だがしかし一歩だけ遅かった。

 大急ぎで向かった鐘楼の頂でトレヴァーが見たものは、大船団に囲まれつつあるコリフォ島と、何隻もの快速船に回り込まれ、逃げきれずに沈みゆく自国の快速船だった。

 統率された船団の動きは素人のそれではない。指揮しているのは少なくとも海軍の士官クラスである。悟った瞬間、トレヴァーの痩せた身体は総毛立った。

 この大軍の狙いはなんだ? まさかコリフォ島を陥落させるつもりではあるまいな?


(冗談じゃない! 娘の花嫁姿を見るまで私は死なないぞ!)


 多勢に無勢では迎え撃つわけにもいかず、胃の痛くなる睨み合いはたっぷり一昼夜続いた。

 明らかに敵対意思のある大船団。しかもどこの何者なのかもわからない。

 新たな動きがあったのは翌日の昼過ぎだ。コリフォ島にたいした戦力なしと見るや、十数隻の船を残して彼らは堂々アレイア海に侵入していった。

 何もできないトレヴァーたちを嘲笑うかのごとく。





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