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第1章 その2


 一応は王国と名のつくアクアレイアだが、その政体は王政というよりむしろ貴族共和政に近い。立法を担う大評議会と行政を担う元老院が二本の柱、国家存亡の危機に関わる重大事項は王族を含めた十人委員会で決定する。

 この日招集されたのは王国の主要貴族が名を連ねる二百名の元老院だった。防衛隊も報告義務を果たすようにと呼び出しを受けている。


(正面から帰宅するのは久々だな)


 ブラッドリーに伴われ、ルディアはレーギア宮の正門をくぐった。衛兵詰所と短い通路を通りすぎ、石を敷き詰めた広い中庭を見渡せば、王女の苦労など知りもせず回廊を彩る列柱アーチがつんと取り澄ましている。変わりなさそうで結構なことだ。

 中庭から二階へ続く大階段を上った先も以前とまったく同じだった。提督の後に続き、絵画や彫像の飾られた廊下を慣れた足取りで歩いていく。


「失礼します! イーグレット陛下、元老院議員の諸兄、王都防衛隊を連れて参りました」


 提督のノックした元老院の間には議員の制服である黒いローブに身を包んだお歴々が待ち構えていた。階段上の座席から一斉に視線を向けられる。報告者の立つ中央の壇のすぐ手前には十人委員会の面々がずらりと陣取っているのが見えた。

 第一席には我らが君主、イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイア。第二席には所在なさそうな偽王女――つまりブルーノ。ほかにはグレディ家の冴えない現当主クリスタル、医学の誉れ高きストーン家の当主ドミニク、天才画家コナーの父であるニコラス老、国営造船所の総責任者エイハブ、銀行家のドジソン、敏腕外交官カイル、王立大学学長クララ、超保守のトリスタン老といった顔ぶれだ。

 王族以外は任期一年の委員だが、アクアレイアの権力中枢を担う人間であるのには間違いない。噂ではクリスタル・グレディよりも元提督でユリシーズの父であるシーシュフォス・リリエンソールのほうが票を集めていたらしいが、彼は息子の不祥事を理由に辞退したそうだった。シーシュフォスは自他ともに厳しい男だし、とても表に出てくる気になれなかったのだろう。


「さて諸君、天帝に賜った親書、聖預言者からの証書を読み上げたばかりだが、次は実際にバオゾを見て回った彼らに話を聞こうと思う」


 おもむろに立ち上がり、イーグレットが列席の貴族たちに呼びかけた。

 声も出さずに議員らは頷く。ブラッドリーに促され、防衛隊は大部屋の中央へと進んだ。

 ルディアの持たせた報告書を手にアルフレッドが壇上へ登る。憧れの伯父の前だからか、人生初の晴れ舞台だからか、騎士の背中は緊張気味だ。


「では僭越ながら、王都防衛隊隊長アルフレッド・ハートフィールドがご報告いたします」


 ゴホンと一つ咳払いをし、アルフレッドは手元の文書に目を落とした。高い天井に描かれた優美なる波の乙女が見下ろす中、粛々とした青年の声がこだまする。

 まず騎士はドナ・ヴラシィの街で見聞したこと――男手が連れ去られ、港がいかに荒れ放題だったかを伝えた。それからバオゾで会ったリーバイについて、新しく建設中だった海峡の関所について、ほとんど使われていなかった天帝宮について、更にはアニークの現状や祝祭の宴について言及する。なすべき報告を終えた後には防衛隊としての見解を述べるのも忘れなかった。


「ジーアンは騎馬軍の忠誠を確たるものにしておくため、敢えて海上進出せずにいるのではないかと思います。ですが船の利便性や港の生み出す富に無関心とも思えません。天帝は自国内で海軍を育てにくいなら国外の軍力と結ぼうと考えてハイランバオスを我々の側に残したのではないでしょうか?」


 アルフレッドの発言に元老院の間がどよめく。聞こえてくるのは「そんな、まさか!」「楽観的すぎやしないか?」という疑いの声だった。


「それにどうもヘウンバオスは東パトリア皇妃と裏で繋がっているようです。アニーク姫を人質にしたのが幼い皇子を帝位に据えるためであれば、おそらく皇妃を操っての間接支配を考えているのでしょう。なら東パトリア帝国と縁の深いアクアレイアを傘下に加えようとしてもおかしくはないのでは?」

「ふむ、なるほど。ほかの商人たちからも皇妃と天帝の接近については聞いておる。近くノウァパトリアでひと波乱起きるやもしれんな」


 十人委員会の面々はひそひそと密談を始めた。事前に仕入れた情報と照らし合わせて予測の正確さを検証しているらしい。

 しばらくすると彼らは自分の席に戻り、イーグレットだけが元老院議員の席を振り返った。


「ほかに彼に質問のある者はいないか?」


 しばしの間、挙手は途切れることなく続いた。問いの大半は「本当に我々がジーアン軍の攻撃を受ける可能性はないのか?」と確認するもので、残虐非道な騎馬軍に対する恐怖心が窺えた。


「ドナにもヴラシィにも大きな船は見当たりませんでした。技術者は根こそぎ連行され、仮に資材があったとしても船舶を建造できる状態ではないかなと。バオゾの港も閑散としていましたし、現時点でジーアンにまともな軍船はないはずです。船に積まれた騎馬兵が乗り込んでくると心配は無用かと」


 アルフレッドは一つ一つの質問に丁寧に対応する。だが不安げな議員たちはなかなかざわめきを止めなかった。


「ふうむ、ジーアンはいずれ相見えるパトリア古王国を見越してアクアレイアを中立地帯に仕立てておきたいのやもしれんのう」


 と、十人委員会の老賢人ニコラスが呟く。垂れ下がった山羊髭を撫でつける彼の隣でほかの委員らも頷いた。


「その可能性は高いな。いずれにしても、これでようやく大規模商船団を編成できそうではないか」

「ああ、自前の船を持つ気がねえなら怖かねえ! 陸上防備は念のために傭兵を増やしとくので十分だろ」


 外交官カイルと国営造船所の総監督エイハブ。影響力の強い二人の言葉には恐れをなしていた議員たちも励まされたらしかった。一人また一人と聖預言者との契約決議を求める者が増えていく。会議の結果は見ずともわかった。


「ありがとう。では諸君らは退出を」


 速やかに大会議室を出るようにイーグレットに促され、アルフレッドが壇を下りる。

 そのときだった。一礼した騎士をしわがれた声が引き留めたのは。


「最後に一つだけいいかね?」


 コナーとよく似た鋭い目が赤髪の騎士に向けられる。

 ニコラスが発したのはルディアには苦い問いだった。それはある男の進退を――否、生死を決めてしまうひと言だったから。


「天帝に、アクアレイア商人に皇女を害させる気はあったと思うかね?」


 その場は水を打ったように静まり返った。

 老賢人が尋ねたのは国王暗殺未遂犯の自白にどの程度信憑性があったのかということだ。

 ユリシーズの証言がでたらめだったことはルディアが一番よく知っている。あのときは方便を用いてしおらしくしているのが最も賢い手段だった。誰から見てもハイランバオスがアクアレイアの完全な味方となった今、無意味な嘘になってしまったが。


「……ヘウンバオスがどう考えていたかはわかりかねますが、少なくとも俺は、バオゾではアクアレイア商人はおろか、カーリス商人も西パトリア人も見かけませんでした」


 騎士が口にしたのは至極正しい答えだった。余計な憶測は一切交えず、端的な事実だけを打ち明ける。

 それなのにどうして胸が苦しくなるのだろう。アルフレッドにユリシーズを庇ってほしかったわけでもないのに。

 長らく王国を苦しめてきた通商問題にやっと片が付きそうで、死刑囚に同情が集まる展開はもはや起こり得ないように思えた。リリエンソール家の息子であっても犯した罪は償わねばならないのだ。


(……一度くらい会って話しておくべきか?)


 ユリシーズが最期のときを迎える前に、ブルーノと姿を入れ替えて。ほんの短い間だけでも。


(だがなんと声をかけるつもりだ?)


 生を繋ぐ望みもなくなった彼に、マルゴーの男と結ばれた身で、一体なんと。

 それに身体を移し替えたら身ごもった子が死産になってしまうかもしれない。きっとやめておいたほうがいい。


(私を恨んでいるか? なんて、問うだけ不毛だ……)


 会議の続きをするからと退出を急かされてルディアたちは元老院の間を後にした。背後から聞こえた声によれば「チャド王子がいればマルゴー兵は意外に大人しい」らしい。長期に渡って大人数の傭兵を雇い入れても問題なかろうという話だった。

 商船団を出せばどうしても王都の兵が減る。その不足を補う役目を果たしてくれているとしたら、チャド王子様々だ。


(なんだ、王家は安泰じゃないか)


 笑おうとしたが頬は引きつったままだった。感傷に乱される心などいらないのに。早くすべてを振り切ってしまいたい。







 翌日、調印の儀は詰めかけた民衆の見守る国民広場で行われた。

 祭りめいた異様な熱気にルディアはくらりと立ちくらむ。

 セレモニーはごくシンプルなものだった。聖預言者により正式に王国商船の立ち寄り自由が宣言されただけ。それでも集まった人々からは地が揺れるほどの大歓声が沸き起こった。


「イーグレット陛下! イーグレット陛下!」

「アクアレイア王、万歳!」


 父を讃える声はレガッタ優勝時の比ではない。それどころかハイランバオスや天帝コールまで起きたほどだ。

 喜色満面の商人たちは右に左に大わらわで出航準備に取りかかった。十一月には風雨の穏やかな航海シーズンが終わってしまう。年内に商売を再開したいなら二週間後にはアクアレイアを出ていなければならなかった。砂糖の産地のクプルム島か黄金の砂漠エスケンデリヤで冬を越すべく、貴族も平民も誰もが必死な様子だった。

 忙しない雑踏にルディアは耳を澄ませる。誰かがユリシーズの名前を出して「あの騎士様、適当に言い逃れしてただけじゃねえか」と言った。

 民衆は常に率直だ。

 監獄塔でもてなされていた謀反人が大鐘楼の貴人独房に移されたのは数日後のことだった。




 ******




 来たれ、我が軽舸(けいか)に 誰が汝の明日在ることを知らん

 青春は麗し されど川のごとく過ぎ去る

 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを


 触れよ、我が唇に 誰が汝の明日在ることを知らん

 青春は短し されど星のごとく輝く

 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを


 そんな古い抒情歌を口ずさんでしまうほど今日のレイモンドはご機嫌だった。一連のハイランバオス接待が王国に貢献したとかで、なんと防衛隊の配置換えが決まったからだ。アンバーがヴラシィに発つまではこれまで通りの護衛任務だが、その後はルディア姫付きの宮廷勤務となるそうである。

 躍進も躍進、大躍進だ。給与がいくらに跳ね上がるか想像しただけでヨダレが出る。ああ、防衛隊に入って良かった。これで貧乏ともおさらばだ!


「おいレイモンド、さっきからやかましいぞ」


 鋭い声が飛んできたのは豪華な寝室の奥からだった。「旅立つ前にルディア姫にも挨拶を」との名目でハイランバオス役のアンバー、付き人のアイリーン、防衛隊のいつものメンバーがブルーノのもとに集まっているのだ。

 ルディアは代役に二ヶ月半の報告を受けているところで雑音が耳障りだったらしい。ささやかな鼻歌より妊婦の腹に楽しげに話しかけているモモのほうがよほど邪魔な気がするのだが。


「ふむ。まあ、国営造船所の火事以外取り立てて何事もなかったようだな」

「は、はい。あとこれ、ぼぼ、僕が参加した会議の議事録です」

「わかった、目を通しておく。ちゃんと教えた通りの暗号法で記したか?」

「はっ、はい! もちろんです!」


 緊張で目を回すブルーノを皆でやれやれと取り囲む。姿形は違えども、この噛み噛み具合はまさしく気弱な幼馴染だった。

 安楽椅子でゆらゆら揺れる大きな腹部に目をやってレイモンドは「大変だなー」とひとりごちる。無報酬で出産の身代わりなんて自分なら絶対ごめんだ。産褥で死ぬ女だって大勢いるのに怖すぎる。


(つーかそれ以前にこいつチャド王子とヤッたんだよな……。ほんとすげーよ……。すげーとしか言いようがねえ……)


 あまり深く考えてはいけないとわかっていても、頭は勝手に「こんなだったのかな、あんなだったのかな」とその場面を思い描く。

 男が女に成り代わってなどグロテスク以外の何物でもない。よくぞ一晩耐え抜いたなと感心さえした。


(こいつ怒るどころか謝ってたもんなー。姫様に悪いことしちゃったって)


 ブルーノがルディアを特別視しているのは前々から知っていた。単なる王室ファンの域を越えて王女を慕っているとまでは考えていなかったが。


(アルもブルーノもなんだって自分が盾になってまで主君を守ろうと思えるのかねー? 俺、こいつらの考え方にはついていけそうにねーや)


 こめかみを掻きつつレイモンドはルディアの様子を盗み見る。バイタリティ溢れる次代の女王は暗号形式の報告書を確認しもってブルーノに今後の指示を与えていた。

 確かに悪くない上司だ。功績は認めて報酬で返してくれる。レイモンドとてできる限りはルディアの意に添おうと思う。

 だがそれだけだ。命をかけてどうこうするほどの情熱はない。

 モモは軍人肌の女だし、バジルはモモに逆らわないから防衛隊は万一の場合、最優先でルディアの安全を確保する方針で動くのだろう。たとえ仲間を犠牲にしてもだ。

 レイモンドと話の合いそうな者はいなかった。危険を感じたら一人でさっさと逃げたほうがいいかもなと思う。金稼ぎの手段でしかない仕事のために死ぬなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。


「あ、あの、ところで姫様、ユリシーズ元中尉の件はどうしましょう……?」


 と、出し抜けにブルーノが傍らのルディアに問いかけた。絞り出された細い声に見る間に空気が凍りつく。

 うわ、こいつよく聞けたなとレイモンドは息を飲んだ。あの男の名前だけはモモでさえ口に出そうとしなかったのに。


「さ、さ、差し出がましい真似ではありますが、あの、もし伝言などあれば、ぼぼ、僕が」


 ルディアの返事も待たないでブルーノは続けた。青ざめた額からはどっと汗が噴き出している。見守るだけのレイモンドにもじわり緊張が伝染した。


「…………」


 王女の沈黙が酷く気まずい。誰も二の句を告げられない。

 大丈夫かとレイモンドはついルディアの横顔を盗み見た。だが予想に反し、彼女はごく平静であった。


「伝えるべき言葉などない。もういいんだ、あの男のことは」


 思わずうわっと目を瞠る。ルディアがユリシーズを見放そうとしていることがありありと感じられて。

 それは冷酷とは違う冷たさだった。言うなれば、多数を生かすために少数を見殺しにする君主の理知的な冷たさだった。

 状況次第では自分たちも同じ天秤にかけられるのだ。そう考えるとますますルディアに殉じる気持ちは失せてくる。

 このお姫様は見限ると決めたら本当に見限るに違いない。あまり真剣に仕えないようにしなければ。


「本当にそれでいいの? ユリシーズが処刑されちゃったら何も言えなくなるんだよ?」


 モモの問いにもルディアはかたくなに首を振った。振り返らないともう決断したのだろう。宣言通り、彼女は二度と捨てた恋を拾うまい。


「……せめて最後まで不自由なく過ごせるようにしてやってほしい。私からはそれだけだ」


 慈悲深いのだか非情なのだか。

 どちらにせよ彼女はどこまでもアクアレイアの王女なのだという気がした。







 帰り道はレイモンド一人だった。任務中でも休暇は順に回ってくる。非番の午後は自由の身だ。安っぽい乗合ゴンドラに揺られながらレイモンドは我が家を目指した。

 顔を上げれば小綺麗な家の窓辺で秋の花が咲いている。小運河を吹き抜ける風はすっかり肌寒くなっていた。

 昼過ぎなのに辺りは既に薄暗い。王都には高い建物が密集しているので間に挟まれた細い水路まで光が入ってこないのだ。メインストリートである大運河から遠のくにつれて太陽の加護は弱まった。

 レイモンドの家は狭い運河の突き当たり、庶民階級のひしめき暮らす一画にある。いわゆるスラムとは違い、不便さゆえに安いだけの土地だ。

 大都市にしては珍しく、アクアレイアには貧民街というものがない。バオゾでもノウァパトリアでも城壁の外は物乞いたちのあばら家で埋まっていたが、この国では掘立小屋さえ見ることもなかった。

 路上生活者にはやりにくい街だ。広場や路地はしばしば高潮で浸水するし、船がなければそもそも街まで辿り着けない。国民なら家を失くしても救貧院が保護するから浮浪者はそれだけで余所者と知られてしまう。

 聞いた話、スラムを作って居座るような人間はほとんどが流れ者だそうだ。豊かな都市のおこぼれにあずかろうと周辺の食い詰めた農村から人が集まってくるらしい。

 アクアレイアは特別な理由なしにはその種の手合いを受け入れない国だった。旅行客や商人は出身によらず常に大歓迎だから、金を落とさぬ輩に用はないというわけだ。

 逆に国民を破産や病気から守る制度はどこまでも手厚い。「アクアレイア人」と「それ以外」を色分けしているのが誰の目にも明らかなほど。


「レイモンド、まっすぐ家に帰るのかい? 暇なら一杯やらねえか?」


 呼びかけられてレイモンドはハッと我に返る。声の主を振り仰げば顔馴染のゴンドラ漕ぎが片手で杯を傾ける仕草をしていた。


「えーっ? おっちゃんと飲んだら絶対一杯じゃ済まねーじゃん! ほかにも客がいるんだし、たまには真面目に仕事しろって」

「なんだなんだ、生意気言うようになりやがって! お前さんに舟の漕ぎ方を教えてやったのは誰だと思ってんだ?」


 恩着せがましい恩人にレイモンドはいやいやと首を振る。

 この間王都に凱旋して以来、この手の誘いは嫌というほど受けていた。今をときめく防衛隊ならさぞ金回りがいいだろうと皆たかってくるのである。


「だっておっちゃんの顔に『奢らせてやる』って書いてんだもん。そりゃ遠慮したくもなるぜ」

「何ィ? クソッ! 見抜かれていたか!」


 壮年のゴンドラ漕ぎは悔しげに地団太を踏む。年に見合わぬその姿が滑稽でレイモンドはけらけら笑った。


「悪ィけど今日は惰眠を貪るって決めてんだ。おっちゃんとはまた今度な!」


 軽い口調で断ってポケットに右手を突っ込む。じきに最寄りの停泊所だから小銭を出しておこうとしたのだ。

 そのときだった。不意に指先に触れた冷たさにレイモンドは息を止めた。


「――」


 ほかよりひと回り大きな銀貨。ルディアがくれた記念コインだ。コレクターに売ればいい値がつくとか言って。

 硬い感触をもてあそびつつレイモンドは秘かに嘆息した。

 わからない。どうしてこんな重い気分を引きずったままでいるのだか。


(あークソ、今の今までいつも通りだったのに!)


 モヤモヤの原因は不明だが、きっかけはわかっていた。仲良しごっこをする気はない、何より大切な王国のためなら防衛隊とて切り捨てる。そうルディアに言いきられるまでこの苦々しさは胸になかった。

 あのときからだ。命までくれてやる気はないぞと反感めいた思いを持つようになったのは。


(うーん。姫様とは仲良くやっていけそうだと思ったのになー)


 自慢ではないが相手が大物であるほど打ち解けるのは得意である。不思議と先方に気に入ってもらえるのだ。お前は随分あけすけに物を言う男だな、と。

 金と権力を持つ者はお世辞も悪口もきっと聞き飽きているのだろう。素顔を晒せる相手さえ己の損得とは無関係な部外者に限られる。

 子供の頃からレイモンドの立ち位置はそこだった。誰とでも親しい代わりに誰にも本気で肩入れしない。処世術なんて言葉を知るずっと前からそうやって生きてきた。


(やっぱりちょっと腹立ってんのかな。皆が皆そこまでアクアレイアを思えるわけじゃねーぞって)


 船賃を払って岸辺に降りる。「割り勘でいいからこの次は飲もうな!」と叫ぶ親方に手を振って暗がりの路地を曲がった。

 別にこの国を恨んではいない。レイモンドに笑いかけてくる人たちが嫌いなわけでも。ただ我が身を捧げるほどの義理はないなと感じるだけで。


「ただいまー」


 湿気漂う一階の扉を開くと食堂の手伝いをしていた弟妹たちが「おかえり、兄ちゃん!」と顔を上げた。

 皿洗いもそこそこに群がってくるちびたちは誰もレイモンドに似ていない。長男の自分だけが種違いで、純粋なアクアレイア人ではないのだ。


「兄ちゃん、防衛隊すごいな!?」

「聞いたわよ! ついに宮仕えになるんですって? ちょっと衣装を新調したほうがいいんじゃない!?」

「まるで上級市民様だよねえ。いやー、世の中何が起こるかわかりませんな!」

「俺もコネで入隊させてほしいよー!」

「わっはっは、羨ましかろう! こんな素晴らしい兄を持てて幸せだと誇るがいい!」


 さほど背の高くない弟たちを順番に撫で回す。いつも通りの光景を母と祖母がカウンター越しに微笑ましそうに見つめていた。

 家族は好きだ。家に帰ると安心する。

 レイモンドにも故郷を守りたい気持ちはある。だがそれがどうしても愛国心と結びつかない。


「今日もあんま客入り良くなさそうだな? ちゃんと商売になってんの?」

「あはは……。でもやっと定期商船団が再開になるし!」

「また船乗りが寄ってくれるようになりゃガッポガッポだぜ!」

「あたしらが食べてくだけなら小麦の配給があるからさあ」

「まあ、なんとかね」

「そっか。そんならいいんだけどな」


 レイモンドは複雑な胸中を隠して頷いた。

 多分その配給は弟妹たちが「アクアレイア人」だから受けられるものなのだ。これが国籍取得前の己なら、どれほど飢えても政府は救いの手など差し伸べてくれなかったに違いない。


(ま、今じゃ俺もれっきとした王国民だし、なんの心配もしてねーけど!)


 レイモンドが念願の「アクアレイア人」になったのは十五歳のときだった。居住年数が十五年を超えること、一括で五十万ウェルスを支払うこと。条件をクリアするのに我ながら苦労したと思う。

 稼げる仕事はどこも外国人お断りだったし、レイモンドには小学校の席さえ与えられていなかったのだ。読み書きも算術もできない者にまともな働き口があるはずない。アクアレイアは商売人の王国で、その程度は誰しもできて当然だった。

 運が良かった。アルフレッドに出会わなければ己は今頃家族に養われるだけの穀潰しになっていた。


 ――学校じゃ見ない顔だが、この辺りに住んでいるのか?


 幼い頃の記憶が懐かしく甦る。初めにアルフレッドがそう声をかけてきて、レイモンドがハーフと知るや翌日にはもうブルーノを連れてきた。二人とも、アクアレイア人の作る輪からは微妙にはみ出た子供だった。

 将来のためだとアルフレッドはたくさんの本を読ませてくれた。ブルーノも帳簿のつけ方から何から懇切丁寧に教えてくれた。

 それからだ。世界が外に広がったのは。

 恩があるとすれば幼馴染とごく少数の親切な大人だけである。アクアレイアという国家に返すものなど何もない。


(俺も皆と同じように命張れたら良かったけど……)


 そこが生粋のアクアレイア人とそうでない者の差なのだろう。レイモンドは改めて自分が高い給金に惹かれただけの傭兵もどきであることを自覚した。


(無理なもんは無理だよな)


 金はいい。あればあるほど安心できる。ひょっとすると命綱みたいに感じているのかもしれない。

 それに金は万人に平等だ。どこの誰が使おうと、一ウェルスは一ウェルスに違いないのだ。





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