第1章 その1
船団は列を成し、秋めく海をひた走る。帆に順風を受けているのに漕ぎ手を休ませることもせず。
急ぐ理由は知れていた。一刻も早く祖国に吉報を届けるためだ。ジーアンがアクアレイア商船の寄港を承認したということ。これで念願の東方交易再開の見通しが立ったということ。どちらもアクアレイアの民衆が待ちに待っていた知らせである。
意気揚々と王都を目指す水夫たちに気づかれないようレドリーは嘆息した。小さく陰鬱なそれを聞いたのは隣で船縁に寄りかかったディランのみである。友人は何やらつぶさに書きつけていた日記帳から顔を上げ、心配そうにこちらを仰いだ。
「どうなさいました? ご気分でもお悪いんですか?」
優しい気遣いに首を振る。身体は元気だ。うんざりするほど。
気がかりなのはもっと別のことだった。ジーアンと良好な関係を築けそうなことは自国にとって大きな前進だとは思うが。
「……熱心に何書いてたんだ? 今日食べた昼飯か?」
頭の中の懸念を振り払おうとしてレドリーは話題を変えた。一瞬ディランが物言いたげにしたけれど、曖昧に笑って追及をかわす。
「言えないのかよ。あっ! さてはまた難解なポエムでも作ってたな?」
「いいえ、外れです。天候と一日の出来事、それと財布の残高を記録していただけですよ」
詩にはインスピレーションが不可欠なんですから、と文学青年らしい返答をよこす友人にレドリーは小さく笑った。誰もそこまで聞いていないのに「毎日同じ船の上では刺激的な素材にも出会えません」と詩人は唇を尖らせる。
「なんだっけ、前にお前が作ってた詩。おお、波の乙女よ! みたいなやつ。あれコナー先生には見せたのか? ストーン家ってファーマー家とも仲良いんだろ?」
ご機嫌を取ってやろうと話を振るとディランは少女然とした花のかんばせをついと上げた。誇らしげに微笑んで、彼はいかにも明るく語る。
「『乙女と死せる旅人』ですか? ええ、僭越ながら批評をいただきましたよ。興味深い詩だとお褒めに預かりました」
「うへえ、マジか。俺には意味不明な出来だったけど、わかる人にはわかるのかなー」
いつもと同じ調子で会話できていることに安堵する。それでも内心の不安はディランに伝わっていたろうが。
「良かったらお聞かせしましょうか? ――おお、美しく清らかな乙女よ! アレイアの女神アンディーンよ!」
唐突に始まった独唱にレドリーはぎょっと目を剥いた。ふっくらとした瞼を伏せ、右腕を高く掲げ、詩人は詩を諳んじる。
「私の心はお前を求めて歌っている! おお、お前の母はすべての命の母! 大海こそあらゆる者の原初の故郷!」
ディランはディランなりに塞ぐこちらを元気づけようとしてくれたらしい。が、その方法は一般的な励ましからは少々、いや、相当ずれていた。高らかに美声を響かせる友人に慌ててレドリーは首を振る。
「ちょ、馬鹿! いいって! 恥ずかしいからよしてくれ!」
「波の乙女よ、もうじきお前をある旅人が訪ねるだろう! けれどお前は彼に温かな寝床を用意しない! 冷水を浴びせ、悪夢に惑わせ、絶望の淵へと誘い込むのだ!」
「こら、聞けディラン! 皆こっちガン見してるだろ!」
「ああ、乙女よ! お前が胸に抱くのは小さな死! 天上よりなお尊き死だ! そして再生の芽に水をやるのはこの私! おお、なんという至福の瞬間か! これこそ長く待ち望んでいたカタルシス――」
「カタルシス、じゃねえよ! 口閉じろっつってんだよ!」
レドリーはディランの後頭部を張り飛ばすと軍医を羽交い絞めにした。普段は大人しい部類なのに、盛り上がると人が変わるのはなぜなのだろう。
「あいたたた……。ここからがいいところなのに、無粋な方ですねえ」
「俺が止めなきゃ俺の親父が止めにきてたぞ! お前また鞭で打たれたいのか?」
「うーん。フフフ、まあ時には痛みを感じるのも詩作の上では悪くないですよ?」
がっくりと肩を落とし、にこやかに笑む友人を解放する。これだから芸術家なんていう生き物は。
「なーに寸劇やってんだよ。暇なら俺たちとカードでもするか?」
と、面白がって遠巻きに見ていた海軍兵士の一団から別の友人が声をかけてくる。それもいいなと答えかけてレドリーはハッと口を閉ざした。わいわいと賭博に興じる輪の中にマルゴー兵が混ざっているのに気がついて。
「……いや、俺はいいわ。今あんまり金持ってなくてさ」
「そうか? なんだったらいくらか貸すぜ?」
「また今度な。ちょっと気分じゃねえんだ」
それ以上強くは誘わず、友人は退屈を持て余している面々のところへ戻っていった。最初は野蛮な山猿と馬鹿にしていたくせに、馴染めば馴染むものだ。とは言えレドリーもグレッグたちを毛嫌いしているわけではないが。
行きと帰りで船上の雰囲気は随分と様変わりしていた。マルゴー兵はさほどアクアレイア人につんけんしなくなったし、逆もまた然りである。おそらくは傭兵団長の単純な性格のおかげだろう。
隣国と親睦を深めるのは別にいい。レドリーは反マルゴー派の人間ではないし、陸上防備に傭兵が必要なこともわかっている。問題はそこではなくて――。
「何かありましたか? 少し騒がしかったようですが」
船室の奥から顔を出した聖預言者をレドリーは鼻持ちならない気分で睨んだ。目を鋭くする己と違い、甲板にいたほかの兵士らは一斉に彼に群がっていく。まるで焼き菓子を見つけた蟻だ。
「いえいえ、何もございませんよ! 聖預言者殿!」
「心得のある者が詩を披露していただけで、騒ぎというほどのことでは!」
今やハイランバオス人気は不動のものとなっていた。あの聖預言者の許しを得た船だけがドナ・ヴラシィに錨を下ろせるのだから当然だ。
公然と媚を売る人間の中にはユリシーズの釈放運動に加わっている者もいてレドリーの心を暗く曇らせた。
アクアレイアに帰ったらこれと同じことが起きるのではなかろうか。民衆はユリシーズではなくハイランバオスに味方するのではなかろうか。「ジーアンがグレディ家による新政権を欲していたなど嘘だったではないか」と言って。
「……………」
青ざめるレドリーの肩にぽんとディランの手が置かれた。振り向けば友人は静かに首を横に振る。
「……難しい立場になるでしょうね。このままアクアレイアとジーアンに蜜月が訪れるようなら」
誰の話かなど確かめるまでもない。悪い想像ばかりしてしまい、レドリーは眉を歪めた。
「もうほんの数日で王都です。せめてそれまで気持ちを休めていてください」
そう言うとディランはポケットから陶器の小瓶を取り出した。蓋を開ければ乾燥ラベンダーの花がめいっぱい詰め込まれている。どうやら軍医から処方箋のつもりらしい。
「枕元に置いておけばぐっすり眠れますよ」
「……貰っとく。ありがとな」
礼を告げ、レドリーは小瓶を懐に収めた。ユリシーズほど長い付き合いではないけれど、ディランもまたいい友人だ。
いずれは政治の世界へ入るストーン家の彼とは違い、幼馴染とはいつまでもどこまでも一緒なのだと思っていた。リリエンソール家もウォード家も二代に渡って海軍で生涯現役を貫いてきた家だから。
(ユリシーズ……)
彼は一体どうなるのだろう。ただ脅されただけなのに、罪を償えと迫られるのか。
(そんなのは間違ってる……!)
無意識に握りしめていた拳が震える。食いしばった歯は痛いほどだ。
たとえハイランバオスが王国に富をもたらす存在だとしても、レドリーには聖預言者を信用できそうになかった。
奴はパトリアの神々を滅ぼすという天帝ヘウンバオスの弟だ。温和な笑顔の裏側で何を企んでいることか。
(そうだ。俺だけはずっとユリシーズを信じるぞ……!)
幼馴染を言葉一つで切り捨てた、無慈悲なあの姫のようにはなるまい。
船縁から海を見つめ、レドリーは一人秘かに決意を固めた。
******
「ああっ……! すごい、今動いたよ! あなたにもわかったかい?」
はしゃぎ声で喜びを示す男にぎこちない笑みを浮かべ、「ええ、まあ、自分のお腹のことですから」と控えめに返す。第一子の誕生が待ち遠しくて仕方ないらしい貴公子は興奮気味に頬ずりを続けた。
「素晴らしいな、こんな風に生命の躍動をじかに感じられるなんて! 我々が授かったのは男の子だろうか、それとも女の子だろうか?」
「そ、そうですね。元気がいいので男の子かも……」
「うむうむ、男の子でも女の子でも健康なのが一番だ! あなたも身体に気をつけて、無理をしてはいけないよ。生まれてくる赤ん坊と私たち三人で幸福な家庭を築くのだからね、ルディア!」
口の端からハハ……と乾いた笑いが漏れる。王女と入れ替わって早八ヶ月、ブルーノはもはや疲れることにすら疲れていた。
――何がどうしてこうなったのか。初めはただ迫る危機から主君を救おうとしただけだったのに。
二月に結婚、三月に妊娠、四月と五月は酷い悪阻に苦しんで、六月に本物の姫と和解した。しかし「出産はお前がしろ」と命じられ、元の身体に戻れないまま現在に至っている。
日に日に大きくなる腹部には恐怖しか感じなかった。脳蟲とはいえ男として育ってきた己に本当に子供など産めるのだろうか。お産の苦痛は母性なしには耐えられないものと聞く。代理出産などやって赤子に万一のことがあったら、いやそれよりも母体に何かあった場合どうすればいいのだろう? 恐ろしい。何もかもが恐ろしい。
「……っ」
キリキリと痛む胃を擦り、ブルーノは幸せそうにお腹に頬をくっつけている夫を腕で遠ざけた。
「おっと、すまない。しつこかったね」
安楽椅子から離れてチャドが立ち上がる。親愛に満ちた眼差しを向けられたが、正直あまり彼の糸目を見つめ返したくなかった。
この男も、豪奢に過ぎる寝室も、己を取り巻くすべてが今は胃に重い。帰りたくて泣きそうだ。家に戻っても居場所なんてないけれど。
「姫様、顔色がお悪いですが大丈夫ですか?」
と、心配そうに傍らから王室侍女のジャクリーンが覗き込んでくる。
落ち着いた臙脂色のドレスに身を包んだ彼女は昔から城に務めている者ではなく、最近召し上げられた上流貴族の娘である。入れ替わりを悟られぬように元のルディアを知らない彼女が側付きに選び直されたのだ。
ジャクリーンは明るく優しく可憐な働き者だった。年も近く、さほど気兼ねせずに済むし、誠心誠意尽くしてくれてありがたいことこのうえない。ただし一つだけ困った性分の持ち主であるが。
「ジャクリーン、妻に何か飲み物を用意してくれるかい?」
「かしこまりました、チャド様」
パタパタとジャクリーンが出て行くと、毛氈が敷かれた寝室はチャドと己の二人きりになる。そっと手を握られて、うっと吐き気がこみ上げた。
彼に触れられると全身鳥肌が立ってしまう。ルディアのために愛想良くしていなければと思うのに。
「くれぐれも無理は禁物だよ。この国では私のできることなんてたかが知れているけれど、全身全霊であなたを守りたいと思う気持ちは本物だ」
「あ、ありがとうございます。もったいないお言葉ですわ」
「初めは国のための結婚だったがね。今は祖国よりもずっと……」
「チャ、チャド様? あの、ちょっと」
やんわりと肩を掴まれ、椅子ごと抱かれ、逃れる間もなく唇を奪われる。
――これだから宮廷の男なんて。公爵の息子なんて。
せり上がる不快感をなんとか受け流し、ブルーノは背もたれに倒れ込んだ。初夜に比べれば出産のほうがましかもしれない。今度はルディアの依頼だから罪悪感に苦しむ必要もないわけだし。
そう、すべては償いなのだ。勝手な親切で乙女の純潔を汚してしまったことに対する。
チャドと婚約する以前、ルディアはリリエンソール家の長男と恋仲であったという。好きでもない男の子供を産むなんて覚悟があっても相当な苦行に違いない。不本意な形でルディアの結婚生活を台無しにしたのは事実なのだ。少々痛い思いをするくらい甘んじて受け入れなければならなかった。甘んじて受け入れなければ――。
「……ブルーなのかい?」
「えっ!?」
「いや、気分が……、マタニティブルーというやつなのかい? 実は君はまだ跡継ぎなど望んでいないとか……」
一瞬本名を呼ばれたのかと焦った。引きつった笑顔で首を振り、ブルーノは「いえ、その、私もどんな子が生まれてくるのか楽しみです!」と取り繕う。
するとチャドは張りつめていた表情を緩めた。安堵に背を押されたか、王子は恭しく跪き、緩やかに波打つ海色の髪を指にすくう。そうしてそこにも唇をそっと押し当てた。
「子供が生まれれば我々も本物の夫婦に近づけよう。あなたの愛情を勝ち得るために、私は私のできることをしてくるよ」
飲み物を運んできたジャクリーンに「妻を頼むよ」と命じるとチャドは寝所を出ていった。おそらく今日もマルゴー兵の宿泊先を訪問して回るのだろう。グレッグ傭兵団の居残り組が王都で悪さを働かぬよう彼はいつも目を光らせてくれている。それに不審火の起きた造船所のことも気にかけてくれていた。
強引と誠実を交互に示すのは人の心を惑わすのになんて有効なのだろう。
――ああ、これだから宮廷の男なんて。公爵の息子なんて。
「はあ……チャド様の立ち居振る舞いって本当に素敵です。あれでお顔立ちがもう少し華やかなら言うことないんですけれど……」
「ジャクリーン? ま、まさかまた覗いてたんじゃ……」
「いやだ、姫様! 覗きだなんて! いい雰囲気でいらしたから中に入るのがためらわれただけですわ!」
ウフフと楽しそうにはしゃぐ彼女には溜め息しか出てこない。
ジャクリーンは気立ての良い娘だが、少女時代は人形遊びに熱中していたと思しきタイプで、こうして時々ブルーノやチャドに夢見る瞳を向けてくる。特に同じ青い髪を持つ「ルディア姫」のファン歴は長いらしく、長い髪を日がな一日太陽に晒し、王女の髪色に近づけるという驚異の努力もしていたそうだ。
「私、姫様のお子様は絶対姫様に似てほしいですわ。女の子なら絶世の美女に育つでしょうし、男の子でもゴツくなったりムサくなったりしないで爽やかな貴公子になると思うんです」
「そ、そう? 私はもう五体満足で生まれてくれればなんでもいいけど……」
ブルーノはぐったりしつつ膨れた腹に手を置いた。本当に、どうしてこんなことになったのだろう。
己が普通の人間ではない自覚はあった。平凡な人生を歩めないだろう予感も。王国を去った姉の代わりにモリスから脳蟲のことは聞いていたから。
――ああ、こんなおかしな生き物だって人に知られたらどうしよう。きっとばれたら殺される。気味が悪いと石をぶつけられるんだ。
渦巻く不安を拭いきれず、子供の頃からいつも挙動不審だった。心の支えはルディアだけ。あの美しい姫もまた同じ異形なのだと思えば耐えられた。
(自分の正体を知った今、あの人だって困惑してるはず。ひとりぼっちの夜は泣いておられるかもしれない……)
まるで双子の妹みたいに慕わしいプリンセス。彼女の力になりたいなら一度や二度の出産くらい乗り越えてみせなくては。
ブルーノは安楽椅子の陰でぎゅっと手を握り込んだ。
もう少しで十月だ。送迎団もそろそろ帰ってくるだろう。もしもルディアの頬が涙に濡れていたら、そのときは己が彼女を励まさなくては。
胸の奥、一途な誓いを立て直す。ブルーノの思いとは裏腹に王女は元気そのものだったが。
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ワハハと笑い出しそうになるのを堪え、ルディアは旗艦の甲板に短いマントをなびかせた。
なんと快い秋晴れだろう。国民広場まで出迎えにきた民の姿がよく見える。
さあ、とくとその目に焼きつけるがいい。王国史に残るであろう凱旋を!
我々は、アクアレイアは、再び通商の自由を勝ち取ったのだ!
「うおおー! ガレー船団が帰ってきたぞー!」
「なんか行きより数増えてないか!?」
「荷揚げだ荷揚げ!」
「うはは、しばらく忙しくなりそうだな!」
歓喜の声が王都を包む。商港のある税関岬や商館の並ぶ大運河は既に積荷を待ちきれぬ者たちのゴンドラでごった返しになっていた。
「急げ、急げ! 倉庫に運べ!」
誇らしい気分でルディアは騒がしい光景を眺める。今後またドナやヴラシィに停泊できるようになったと知ったら彼らはどんな反応を示すだろう。拍手はたちまち二倍にも三倍にも膨れ上がるに違いない。
パトリア聖暦一四四〇年十月十三日。七月末に王都を発った送迎団は一隻も欠けることなく――もっと言えば、この二年ノウァパトリアから帰りそこねていた多数の商船を引き連れてアクアレイアに戻ってきた。
ワイン河岸も香辛料河岸もほどなく交易品で埋まるだろう。噂を聞きつけた近隣諸国の商人どもはすっ飛んでくるはずだ。王国が海運都市のあるべき姿を取り戻すまで、あとほんの一歩である。
(一時はどうなることかと思ったが、これで少しは落ち着けそうだな)
ルディアたちの乗った旗艦はしんがりで入港した。本来なら寄り道などせず国営造船所に向かうべきなのだが、今日だけは特別だ。ブラッドリーの指令でガレー船は大運河の河口に面する国民広場に横付けされる。
「ブラッドリー!」
群衆の真ん中でイーグレットがこちらを見上げた。その唇にはこれ以上なく嬉しげな笑みが浮かんでいる。
(お父様……!)
やりましたと飛びつきたくて仕方なかったが他人の身体ではそうもいかない。ルディアにできるのは聖預言者の手を取って岸に降り立つくらいだった。
アンバーも心得たもので、危なげなく橋板を渡るとすぐに国王に手を振ってみせる。親しげなその振舞いはあれよと言う間に衆目を惹きつけた。
「ごきげんよう、イーグレット陛下! おかげさまでとても楽しい船旅でしたよ!」
「おお、ハイランバオス殿。そう言っていただけて何よりです。こうして再びアクアレイアにお戻りくださったこと、感謝いたします」
両者は握手を取り交わす。旅立つ前と変わらず見える友好的な態度に民衆はほっと息をついた。ひとまず安堵したのは父も同じようである。わずか緩んだ表情がこれからどんなことになるか、早くも楽しみで仕方なかった。
「ふふ、しかし今回は長居しませんよ。私はすぐにもヴラシィに住まうことになりそうですから」
「ほう、ヴラシィにですか? 一体またどうして?」
イーグレットの疑問にアンバーはにこりと笑む。
「実は私、アレイア海東岸の商港管理者に任命されたのです。詳しくは我が君からの親書をご覧いただけますか?」
そう言って彼女は傍らのアルフレッドに丸めた羊皮紙を差し出させた。書状を受け取ったイーグレットは挨拶もそこそこにジーアン織の紐を解く。
「これは……。おお、これはもしや……!」
公の場では滅多に感情を出さぬ父だが、このときばかりは灰色の瞳も輝いた。
ルディアたち防衛隊はそこに何が書かれているかとっくに把握済みである。親書にはハイランバオスがアレイア海の調停役となったことや、彼の認可した船なら国籍を問わずドナにもヴラシィにも寄港できることなど、王国にとって十分すぎる進展が記されている。
「アクアレイアあってのアレイア海ですし、もちろん認可させていただきます。元老院で検討してもらい、明日にでもこちらに調印していただけますね?」
今度はルディアが証書を差し出す番だった。こちらには不自然でない程度にアクアレイアに有利な条件を盛り込んで、寄港・荷揚げ・食糧調達・人員調達が可能な旨をしたためてある。
破格の待遇にイーグレットは驚きを禁じ得ないようだった。
「ハイランバオス殿、これは……」
「これくらい当然ですよ。しばらくはあなた方の良質な船に頼らねばならないでしょうから」
微笑むアンバーに父は先程よりずっと熱烈な握手で応じる。
このやり取りが民衆に好感触を伝えたらしい。聖預言者に向けられる眼差しは以前の疫病神扱いとは雲泥の差になっていた。
「ハイランバオス殿をレーギア宮へお連れしろ! 長旅の後だから、ゆっくり休んでいただけるようにな!」
王が右手を高くかざすと人垣がさっと割れる。アンバーは供のアイリーンを連れ、招かれるまま広場の奥の宮殿へと歩き出した。
間を置かず、建て直された大鐘楼が荘厳な鐘の音を響かせる。「元老院議員に告ぐ。ただちに会議を始めるぞ」との合図である。
それはこの潟湖に住まうすべての者の胸弾ませる、至上の音楽でもあった。




