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第3章 その3

 わかりきっていた話だが、祝宴にアニークの出番はなかった。日が沈んでもひと言もなし。マルゴーの傭兵団長にほど近い末席で一日大人しく座っているだけ。

 それでも退屈を感じなかったのは、アルフレッドを近くで見つめられたからだろう。時折襲ってくる寂しさもうんざりするほどアニークを構ってくれた。

 ヘウンバオスが市中へ出かけていったのはつい先刻のことである。これから彼は天帝を崇める民衆向けに夜通し祭りを盛り上げてやるのである。

 騒々しいだけだった去年の太鼓や笛の音を思い出すともう頭痛がした。昔のバオゾであればもっと優美な音楽も存在したのに。


(つまらないの)


 見渡せば奥庭に残っているジーアン人は身分の低い衛兵のみとなっていた。ほかはアニーク同様に捨て置かれたアクアレイア兵とマルゴー兵が疲れた足を放り出しているだけだ。彼らはぼそぼそした声で「今夜の宿はどこだろうな」とぼやき合っている。

 防衛隊や博識な画家の姿はない。外出許可を得ている彼らは街の聖誕祭へと繰り出したのだ。


(今日の私、アルフレッドの目にはどう映ったのかしら……)


 アニークは腕をくねらせ、着飾った己の姿を確かめた。流麗なラインを描くスレンダードレス。色は東パトリアの皇族色である深い青緑(パトリアブルー)。裾に向かって銀の刺繍が施され、真珠の粒が散りばめられている。ついていた埃は払い落とし、しわも綺麗に伸ばしたが、見る者が自分だけでは意味がない。


(アルフレッド……)


 今日はまだ挨拶も交わせていなかった。なんでもいいから何か喋りたかったのに。だって彼は明日には――。


「アニーク姫、まだ庭におられたんですか? てっきり宮殿にお戻りになったかと」


 不意打ちで響いた声にアニークはハッと振り返った。「ハイランバオスと街に行ったんじゃなかったの?」と思わず口に出してしまう。


「いえ、俺だけ帰してもらいました。バオゾを去るまでアニーク姫の話し相手を務めると約束しましたので」


 アルフレッドはいつもの生真面目な顔で答えた。

 喜びに目頭が熱くなる。もう面倒は見終わったと、関心などなくなったかと思ったのに。


(……変だわ私……)


 アニークは汗ばむ掌で胸を押さえた。鼓動が少しも収まらずに、身体が全部心臓になったみたいだ。

 息が苦しい。喉が詰まる。

 どうしてこんなになるほど嬉しいの。ただ戻ってきてくれただけで。


「あ……」


 ああ、早く何か言わないと。世間話でもなんでもいい。「アクアレイア人って賢いのね」とか「私も久しぶりに砂糖菓子が食べたくなったわ」とか。長々と黙り込んでいたら不自然だし、無為に時間が過ぎてしまう。あと少し、ほんの少しだけ残された、私たちの最後の時間が。

 ねえアルフレッド、どうしてあなたまで黙ってしまうの。どうしてそんなに離れて立つの。お願い何か言ってちょうだい――。


「……なんだか気が引けてしまいますね。そんな格好でおられると、俺みたいな平民が話しかけたら怒られそうで」


 夕日は既に海に落ち、草原じみた庭を照らすのは細い篝火だけになっていた。月は薄雲の向こうに隠れ、騎士の顔がよく見えない。でもきっと笑ってくれている。アニークを褒めてくれている。

 また泣きそうになってしまってかぶりを振った。聞きたかった言葉とは全然違ったはずなのに。サー・セドクティオが囁くように「どんな花よりあなたは綺麗だ」と讃えてほしかったはずなのに。

 これでは否定できなくなる。アニークの心の中に、物語とは別の騎士が住み着いてしまったこと。


「……怒るって誰が? まさか私?」


 震えそうになる声を必死で誤魔化して軽口を返した。アルフレッドが小さな努力に勘付いた様子はない。


「えっ!? いや、俺が言いたいのは今日のアニーク姫はとても気品に溢れているなと」

「まあ、では普段は下品だと言いたいわけね」

「っ!? だ、断じてそのような意味では」

「ふふ! わかってるわ、冗談よ」


 狼狽するアルフレッドに笑いかけ、アニークは星の散らばる夜空を見上げる。ちょうどそのとき風に乗って祭囃子が流れてきた。外に出られぬ衛兵たちからワッと歓声が巻き起こる。アルフレッドも城壁のほうへ目をやった。


「へえ、これがジーアンの音楽ですか。なかなか味がありますね」


 これ幸いと騎士は話題を変えてしまう。

 去年は愉快に聴けなかったそれを、今年はなぜかすんなりと受け入れられた。どうやら自分は親しい人の下す評価に影響されやすいらしい。


「聞き覚えのない音色だな。どんな楽器を演奏しているんでしょう?」

「ええと、これはなんだったかしら。確か……ば、ば、バトーキン? だったかしら?」

「ああ、これが馬頭琴ですか! 弓にも弦にも馬の毛が使われている東方の琴でしたっけ?」


 二年以上もバオゾに囚われているアニークよりアルフレッドのほうが詳しいのはどういうことだろう。改めて己が情けなくなり、がっくりと肩を落とす。本当に何も知らないし、何も知ろうとしていなかったのだ。これまでの己は。


(……でもこれからは違うわ)


 静かな決意を胸に燃やす。

 アルフレッドが何を教えてくれたのか、アニークにもわかっているつもりだ。彼はただ生活術を、小間使いがやるような家事を仕込んでくれたわけではない。皇女の身分に胡坐を掻いて何もしてこなかった自分にさえできることはあると示してくれたのだ。

 ならば変わってみせねばなるまい。アルフレッドが仕えたいと思うような、ルディア以上のプリンセスに。


(そうよ、だから今は引き留めないの。いつかノウァパトリアへ戻って、堂々と私の宮廷に招くんだから)


 それがアニークの次なる目標、そして生きるための希望だ。

 でも一体、どんな言葉でこの思いを彼に伝えればいいのだろう?

 気がつけばまた黙り込んでいる。辺りには異国の弦楽だけが響いている。


「いいですね、音楽は。アクアレイアでもゴンドラ漕ぎはしょっちゅう歌っているんです。俺はあんまり得意なほうではないんですが」


 アルフレッドが呟いた。音痴というのが変にらしくてぷっと吹き出す。


「私も歌はちょっと苦手。それならダンスのほうが好きね」

「へえ、姫はすらりとしておいでだから、さぞかし華やかなことでしょうね」


 お世辞の言える騎士ではないのでアニークの胸がぽんと弾む。弾んだ勢いでえいっと甲冑の腕を掴んだ。


「ねえ、私、踊りたいわ」


 勇ましい鼓の音まで加わってジーアン音楽は宮廷ワルツと似ても似つかなくなっている。けれどそんなのはどうでも良かった。大事なのはもっと別のことだった。


「アニーク姫、申し訳ありませんが俺にはダンスの心得が……」

「あら、なら私が教えてあげるじゃない。あなたには習ってばかりだったし」


 騎士は女性に恥をかかせられない。手を突き出したアニークにアルフレッドは応じざるを得なくなった。

 はしたないとか強引すぎるとか、そういう反省は明日にしよう。きっと彼は他人には自ら申し込んだと言ってくれる紳士だろうから。

 庭の片隅でアニークは爪先を浮かせる。淑やかに芝生を蹴り、静かな回転にアルフレッドを巻き込んだ。

 くるくる回る。手を繋ぎ、息を合わせて。教師役らしくステップの踏み方や腕の位置を指南しながら。

 くるくる回る。夢のように。花のように。天を行く星のように。


(一曲だけにしておこう)


 理性がそう囁いた。本当は迷惑だったかもしれないし、さよならは次もまた会いたいと思ってくれているうちに済ませたい。


「アルフレッド、十日間ありがとう」


 やっと告げられた感謝の言葉に騎士は柔らかく首を振る。


「頑張られたのはアニーク姫ですよ」


 潤んだ瞳を乾かすためにアニークは満天の星々を見上げた。

 なんの変哲もない夜で良かった。今日と同じ景色が寄り添ってくれるなら、ひとりぼっちに戻ってもきっと耐えていけるだろう。





 翌朝、アルフレッドを乗せたガレー船はバオゾの港を去っていった。天帝が留まれと誘った画家以外、来たときと同じ乗員で、来たときと同じ航路を帰るそうだ。

 静まり返った天帝宮に寂しさがこみ上げる。けれどもう抱えた不安を誰かにぶつけてどうにかしたいとは願わなかった。

 どうせ今日から嘆く暇もないくらい忙しくなる。帝王学も何もかも初めからやり直すのだから。




 ******




 収穫は上々すぎるほど上々、アクアレイアにとって黄金の果実をもぎ取ったと言えるバオゾ滞在だった。ジーアンに自軍を用いての海上進出はないと確信できたのも大きいし、何よりまたドナやヴラシィに寄港できることになったのが喜ばしい。

 この朗報を早く父に届けたかった。帰路に着いたルディアの胸は晴れ晴れとしていた。――ミノア島にて九月二十三日を迎えるまでは。


「なあなあブルーノ、ちょっとこっち来てくれよ!」

「すごく見晴らしのいい丘があるんです!」


 緩みきった表情で手招きするレイモンドとバジルにルディアは小さく眉根を寄せた。天帝へのパフォーマンスが成功して以来、防衛隊の面々はいつになく浮かれ調子だ。

 安堵で気が抜けたのはわかるが肝心なのはこれからである。低い声で「なんだ?」と問うと、二人は多少怯みつつも「いいからいいから!」「行ってみればわかりますから!」とルディアの袖を引っ張った。

 ミノア島は東パトリア近海で最大の島である。山がちな地形で年中暖かく、ナツメヤシがよく育つ。冬の寒さと無縁な場所には早くから人が住み着くものだ。ご多分に漏れずこの島も古代遺跡の宝庫だった。


「ハッピーバースデー!」


 石積みの神殿を曲がるや否や、篭いっぱいの花を撒かれた。そんなことだと思ったとルディアは冷めた目で花娘役のアイリーンを一瞥する。

 海に面した緑の丘には軽食とデザートの用意。皿の載った敷物を囲む輪にはハートフィールド兄妹にアンバーまで揃っていた。心温まる六人の拍手にハアと盛大な溜め息をつく。


「――で? これがどうした?」


 おそらく首謀者であろうレイモンドを振り返る。槍兵はルディアのぞんざいな態度に思いきりたじろいだ。


「そ、そんな反応はないだろー!? 今年は俺たちくらいしか祝わないよなと思ったから、せっかくこうして誰も来ない場所を見つけてささやかなパーティを」

「誰が頼んだ? ブルーノ・ブルータスとして扱えとお前たちには散々言ってきたはずだが?」

「い、いや、けど俺の誕生日はお祝いしてもらったし」

「それはブルーノの代理でやったことだ。返礼がしたいならこいつの誕生日にすればいい」

「け、けどあのコインは姫様の……」

「レイモンド!」


 一喝を受けた槍兵はびくりと肩を跳ねさせる。ほかの隊員も一人ずつ順番に睨みつけた。いつまで頭に花を咲かせているつもりだと。

 誕生日までに帰国できないことくらい最初からわかっていた。「おめでとう」なんて言葉を必要とするほどルディアは子供でもないし、完全に余計なお世話である。


「ほらー、だからモモ言ったじゃん。サプライズするよりちゃんと聞いてからのほうがいいって」


 ごめんねーといつもの態度でモモが花弁を拾い始める。なお不服そうに唇を曲げているレイモンドにルディアはほとほと呆れ返った。


「あのな。私はお前たちと仲良しごっこをする気はないんだ。私にとって一番大切なものはアクアレイアだし、状況によってはお前たちを犠牲にすることも有り得る。私に心を許したところでそれは変わらないんだぞ? 祝う気持ちはありがたく思うが、何か勘違いしているのではないか?」

「…………」


 問うた相手からの返事はない。レイモンドはすっかりしょげた様子である。その代わり目を丸くした赤髪の騎士がルディアに尋ね返してきた。


「……何を当たり前のことを言っているんだ? 王国第一でなければ俺たちのほうが困るんだが」


 え、とルディアはアルフレッドを振り返った。自分は今、防衛隊を見捨てる可能性もあると言いきったつもりなのだが。


「モモもそれくらいわきまえてるけど……。職務と人情は別物でしょ?」

「で、ですよねー! 仕事は仕事、プライベートはプライベートですよねー!」

「わわ、私もただ日頃の感謝をお伝えしようと思ったまでで……っ」

「おかしな心配をなさいますねえ。私はてっきり命令違反に対するお叱りかと思いましたよ」


 今度はルディアが瞠目する番だった。

 なんだ、なんだ? もしかして彼らは理解してくれているのか?

 ユリシーズのときのように、あまりに無慈悲だと恨まれやしないか懸念せずとも良かったのか?


「俺たち皆を含めてのアクアレイアだろう? なら文句などあるはずがない」

「逆にそんな風に釘を刺すってことは、姫様のほうがモモたちに愛着湧き始めちゃってるんじゃないのー?」

「なっ……!」


 一瞬返答に詰まってしまい、思わぬ形で本音が露呈する。背中を向け、赤くなった頬を隠し、ルディアは大きく咳払いした。


「とにかく来年からこういうものは用意しなくていい。後の処分が厄介だ」

「来年から? それじゃあ今年はギリギリセーフだね! パイ切り分けて皆で食べよ!」

「そそ、そうしましょう。誰かに見つからないうちに食べちゃいましょう!」

「…………」


 まいったなとルディアはひとりごちた。

 線を引こうとしているのに胸の扉を開いてしまいそうになる。決断を下す者が失いがたい人間など作らないほうがいいのに。


(いつまで側にいてくれるかはわからないんだぞ?)


 戒めの呪文を繰り返す。疑いという重石が消えてしまわぬように。


(私は本物の『ルディア』ではないのだから)


 照りつける日差しはまだ強かった。夏は永遠に続きそうに思えた。

 最悪の冬はひっそりと忍び寄りつつあったのだけれど。




 ******




 カーリス共和都市の豪商、ローガン・ショックリーが姿を見せたのは九月も終わりに近い頃だった。

 金槌の音がうるさく響く完成間近の砦内部を大商人と天帝が歩く。胸糞悪い打ち合わせを進めながら。


「祝祭に呼んでいただけず残念でしたよ。今日は山ほど献上品を積んでまいりましたがね」

「アクアレイアの連中が来ていたからな。怪しまれては元も子もない。それで奴らは機嫌良く家に帰ったのか?」

「ええ、一団となってミノア島を出て行きました。もうじきイオナーヴァ島の部下からも連絡が入りましょう」

「そうか。ならばそろそろお前たちも『脱走』せねばなるまい、リーバイ」


 踵を返した王者の瞳が背後に控えたリーバイを射抜く。冷徹な笑みに脂汗が浮いた。自分はとんでもない男と取引したのではなかろうか、と。


「……約束は守ってもらえるんだろうな?」


 精いっぱいの虚勢で問う。ヘウンバオスはそれも鼻で笑うだけだった。


「当然だ。私を誰だと思っている?」


 生き神を名乗る人間など信用できるか。舌打ちしたい気分を堪え、リーバイは働く同胞らに目を逸らした。

 一生奴隷で終わるだなんて真っ平だ。もう一度生き別れた妻子に会いたい。王国を当てにできぬならドナとヴラシィの男だけで自由を取り戻さなくては。


「船は途中までカーリス船に護衛させよう。だが忘れるな。お前たちは勝手にジーアンの船を奪い、勝手にアクアレイアを攻めるのだ。故郷に代わる新天地を求めてな」


 目の前には進水を待つ四十隻のガレー船。建造途中の十隻は急ピッチで作業が進められている。

 関所は確かに関所だが、ここは軍港と造船所も兼ねていた。ジーアンが海へ出る気だと知っているのはカーリス共和都市くらいだろう。天帝は悪事の片棒を担がせるのにローガンを選んだのだ。


(何が護衛だ。監視の間違いだろうが)


 胸中で毒を吐く。ままならぬ自分たちの身を呪いながら。

 決別の日は間もなく訪れようとしていた。

 アクアレイアと道を分かつ日は。





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