第1章 その3
「た、大変です! なんかやたら敏捷な狐が! いや、あれは野犬? 狼ですかね!?」
長い三つ編みを振り乱し、バジルが仮宿舎の細い階段を駆け上がってくる。二階の窓から少年の指差す通りを見下ろせば、篝火の側にフーフーと鼻息荒い狼犬、更にそれを追い払おうとする哀れな男の姿が見えた。
「うわ、怪我人出てるじゃねーか!」
大慌てでレイモンドが物干し竿に代用していた槍を掴む。生乾きの洗濯物が舞う中を「助けなきゃ!」とモモも飛び出した。
ルディアとアルフレッドも即座に雑居部屋の窓枠を飛び越える。逃せぬ好機の到来だ。悠長に遠回りなどしていられなかった。
「大丈夫か!?」
道の隅でうずくまり、震える商人に声をかける。中年男の肩からはどくどくと赤い鮮血が流れていた。
「バウウウウウ!」
なお襲いかかろうとする獣をレイピアで牽制する。だが刺突に怯んだ様子もなく、狼犬はひらりとルディアの背面に回り込んだ。
「危ない!」
すんでのところでアルフレッドのタックルが鋭い牙を退ける。しかし与えたダメージは少なかったようで、ルディアが体勢を立て直す間に獣のほうも起き上がった。
向かい合う敵を改めて観察する。狼にしてはやや小ぶりだ。まっすぐ立った三角の耳は狐のそれと似ているが、丸みを帯びた尾のフォルムは明らかに種を異にしている。近いのは野犬だろうか。だが絞られた細い脚に、どうも違和感を覚えた。
「……あれはコヨーテじゃないか?」
「コヨーテ?」
「遥か東の大陸に生息するジャッカルだ。前に移動式動物園で見た記憶がある」
「だったらあれも密輸品ということか」
アルフレッドと話す間にレイモンドとモモが駆けつけてくる。バジルは矢の補充中らしく、まだ姿を見せなかった。
「おっちゃん、あの狼どっから来たんだ!?」
「わ、わからん。気がついたら後ろにいて、追い回されて」
「そっか、ありがとな」
「さあ、早く逃げて! 王都防衛隊、モモ・ハートフィールドが来たからにはもう安心だよ! この斧で生肉色の光を見せてあげる!」
「そこはピンクって言えよ!」
ルディアの方針に従ってモモは恩を売るのを忘れない。よしよしと心の中で親指を立てた。
「頑張れー! 防衛隊ー!」
商館の窓辺には夜も遅いのに見物客の顔が並び始めていた。その中に友人を見つけたらしく、襲われていた中年男は建物内へ逃げ込んでいく。
「さーて、とどめ刺さねー程度に痛めつけるんだったな」
前へ出たのは身長ほどの槍を回したレイモンドだ。殺傷能力を抑えるべく、彼は穂先と石突きを逆に構えている。助走をつけて飛びかかってきたコヨーテに槍兵は軽やかなステップを披露した。
「ギャウン!」
ノーガードの腹を下から思いきり突かれ、野獣は血を吐き転がり回る。だが一撃で戦意喪失とはいかなかったようだ。身を起こしたコヨーテに再び獰猛に吠え立てられ、レイモンドは深々と腰を落とす。いつになく真剣な表情だ。
「グルル……」
攻撃的な低い唸り。ルディアの目配せに頷いたハートフィールド兄妹がわざとらしく退路を開いて布陣する。こちらの意図になんらの関心を払うことなく猛獣はふさふさの毛を逆立てた。
「ギャウーン!」
と、そこへ予告なく第二の攻撃が飛んでくる。突如投げ込まれた仕掛け玉にルディアはハッと仮宿舎の屋根を見上げた。
「闇に飛び散る緑の油! どうです、臭うでしょう!? 衝撃を受けると中の腐敗魚油が弾けるように設計したんですよ!」
瓦の上で得意満面にバジルが叫ぶ。たちまち周囲に猛烈な臭気が広がって、ルディアたちは堪えきれずに鼻を摘まんだ。人間より嗅覚の優れたコヨーテは大パニックだ。
「キャンキャンキャン! キャンキャンキャン!」
尻尾を巻いて逃げ出した獣を見やってルディアはにやりとほくそ笑んだ。
「よし、予定通りだ。追うぞ」
「だからどうしてお前が仕切る!?」
アルフレッドの不平は聞かなかったふりをする。ルディアたちは路上から、身軽なバジルは屋根の上から追跡を開始した。
「キャウウン、キャウウウウン」
コヨーテは哀切漂う鳴き声を上げ、悪臭を振り切ろうとひた走る。浜通りを駆け抜けて、灯りの乏しい倉庫街へと。さあ、ここからが本番だ。
「お前たち、奴の帰る巣を見逃すな!」
「合点ッ!」
ルディアたちは全速力で角を曲がった。が、肝心の獣は何故かどの倉庫にも目をくれない。そればかりか壁のごとくそびえ立つ暗い段丘へ一目散に駆けていく。
「あれえ!? 全部通り過ぎちゃったよ!?」
「実は野生の狼だったってオチか!?」
倉庫街の先には断崖と山林しかない。密輸であればこの辺りで犯人が知れると踏んでいたのだが。
「まだわからん! とにかく見失うんじゃない!」
コヨーテの逃げ足は速く、視界に映る影は既に豆粒大となっていた。月光のほかに頼るものもなく、山はどこまでも真っ暗だ。ガサガサと茂みに分け入る音だけは聞こえたが、それもすぐに止んでしまう。しくじった。なんて間抜けな失態だ。
「あーん、うそぉ! 取り逃がしちゃった!」
「って思ったでしょう!?」
と、そのとき悔しがるモモの目の前にバジルが倉庫の雨樋を伝い降りてきた。弓兵は実家のガラス工房でこしらえたというレンズ付きゴーグルをはめた姿で拳を握る。
「ワンちゃんもどきは山肌の洞窟に入っていきましたよ! 万全を期して動物たちは目立たない場所に隠されているんでしょうか!? これはいよいよ密輸の線が濃くなってきましたねえ!」
「おお! 確認できたのか!」
「偉いぞバジル!」
「よくやった!」
揉みくちゃにされた少年は照れ臭そうに鼻の下を掻き「こっちです」と案内した。先導に従ってルディアたちは急勾配の山へと踏み入る。
樹木の散在する穴だらけの岩山はアレイア海北岸によく見られる光景だ。波の浸食作用によって自然の洞窟が生じやすいのである。さほど登らされることもなく、ルディアたちは岩陰にコヨーテの消えた穴を発見した。
「ここで間違いないな?」
身を屈め、人一人やっと通れるくらいの小さな入口を覗く。密輸商人の待ち伏せがないのを確かめるとジャンケンに負けたレイモンドが渋々ながら先頭に立った。
洞窟内は完全な暗闇だ。バジルの差し出した小さなランプを槍兵までリレーする。内部は意外なまでに深く、いくつも分岐点があった。コヨーテの通った道は強い悪臭が教えてくれる。最後尾のバジルに帰りの目印をつけさせながらルディアたちは慎重に進んだ。
そうして歩くこと十数分。出口に至った防衛隊が目にしたのはまったく予想外のものだった。そこにはなんと、陰気な漁村には不釣り合いな豪邸が立っていたのである。
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「な、なんだあ? あんなでかい家ニンフィにあったっけ?」
レイモンドがぱちくりと瞬きする。見下ろした窪地には鉄柵と薔薇の垣根に囲まれた白壁の邸宅が佇んでいた。
「おいおいブルーノ、どう見てもありゃ密輸商人の倉庫じゃねーぞ?」
槍兵に肩をつつかれ、ルディアはブロンズの門扉に目を凝らす。掲げられた旗の図柄、赤地に禿鷹の紋章には見覚えがあった。
「……オールドリッチ伯爵の屋敷だな。こんなところに別荘を構えていたとは」
そう告げると「オールドリッチ? モモそんな人知らなーい」と斧兵が顔をしかめる。妹の発言に脱力したアルフレッドが「こら」と彼女を叱りつけた。
「何が知らないだ。オールドリッチ伯爵はニンフィ周辺を任されている司法官だぞ。俺たちも何度か泥棒を引き渡しただろう」
「ええー? そうだっけ?」
「そうだっけじゃない。ほんの一ヶ月前の話だ」
「シッ! さっきのワンちゃんもどきがお出迎えされてますよ!」
バジルの注意に一同はさっと木陰に身を寄せる。裏門に目をやれば、上等な衣装を着た痩せぎすの老婆が弱ったコヨーテを引き入れるところだった。
「……!」
どうやらあの女が飼い主で間違いなさそうである。だがすぐに「決定的瞬間を目撃したぞ!」と出て行くのはためらわれた。
「……オールドリッチ伯爵夫人と言えば珍獣、猛獣の収集家だ。もしかすると密輸ではなく彼女のコレクションが逃げ出しただけかもしれない」
「でも変ですよ。ペットなら駆除した僕らに苦情が入ってもおかしくないじゃないですか」
「おお、本当だ。こいつは怪しいぜ! 確かめてみるっきゃないか!?」
「だが相手が公国貴族では迂闊に――」
勇み足のバジルとレイモンドを留まらせようとして、ルディアはハッと口をつぐんだ。崖を上ってくる誰かの足音に気がついたからだ。
「そこにいるのはどちら様でしょう?」
洞窟に引き返している時間はなかった。不気味に静かな女の声が梢の向こうから問いかけてくる。
「……アクアレイア王国、王都防衛隊です。俺は隊長のアルフレッド・ハートフィールドと言います」
緊張気味にアルフレッドが振り返る。刺すような目で茂みの向こうに立っていたのはポニーテールにエプロン姿の下女だった。笑えば人好きしそうな美人だが、威圧されるほど背が高い。レイモンドより大柄な女など初めて見た。
「あら、居留区の方々でしたか。こんな遅くにどんなご用でロバータ様の別邸へ?」
「いえ、俺たちはただ人を襲った野犬を追ってここまで来たんです。そちらは異状ありませんでしたか?」
「まあ、野犬ですって?」
どうやら彼女はあの館の召使いらしい。コヨーテの存在は知っているに違いないのに白々しく驚いてみせる。
「恐ろしいわ。ロバータ様は私しか静養にお連れでないのに……。あの、もし、差し支えなければ敷地内の見回りをしていただけませんか? お礼と言ってはなんですが、温かいお茶とお菓子をお出ししますので」
思わぬ頼みに防衛隊は困惑した。あんな獰猛なペットを余所に放しておいてなんのつもりだろう。敢えて邸宅に招くことで迷惑行為の潔白を装おうとでも言うのだろうか。
「…………」
ふむ、とルディアは奇妙な下女を一瞥した。胡散臭さしか感じないが、ガサ入れするなら今しかあるまい。ここは乗せられてやってみよう。
「ご婦人がお困りなのを捨て置くわけにはいかないな、アルフレッド」
ルディアが促すと「あ、ああ。俺もそう考えていたところだ」と赤髪の騎士が頷いた。下女は嬉しげに手を合わせ、防衛隊に礼を告げてくる。
「まあ、ありがとうございます。それではお屋敷にご案内いたしますわ!」
後ろに大きく膨らんだ長いスカートを引きずって彼女は坂道を下り始めた。足の具合でも悪いのか、その動きはどことなくぎこちない。
だがこのときはまだ、服の下に何が秘められているのかルディアには知る由もなかった。下女に染みついた獣の臭いもコヨーテたちのそれだろうと信じて疑わなかったのである。