第3章 その1
おお、とアルフレッドは感嘆の声を上げた。サロンのテーブルに用意された夕食はすべてアニークが作ったものである。湯気を立てる蒸し鶏、豆のスープ、丁寧に飾りつけられたオリーブのサラダ、こちらの指定していなかった煮込み料理まで。どれもごく簡単なものではあるが、つい先日まで何もできなかった人間とは思えない。
「素晴らしい上達ぶりですね。もう俺の手助けなんて必要なさそうです」
「ううん、そんなこと。私なんてまだまだよ」
殊勝な台詞にアルフレッドは頬を緩めた。初めは文句ばかりだったアニークも、ここ数日は彼女なりに努力しよう、工夫を凝らそうとしているのが窺える。短期間でも人は成長できるのだ。心を鬼にして指導した甲斐があった。
「いえ、本当に。明日からはアニーク姫だけでも困りごとなどなくなりますよ」
「もう! 大げさなんだから。やっと形になってきたばかりじゃない」
素直な気持ちで褒めているのにアニークはぷいと顔を背ける。まるで悪戯を叱られた子供みたいに赤い頬を膨らませて。
アルフレッドは念のため、菜園に植えられている野菜とその収穫期、倉庫に保管されている雑穀、庭の池で泳いでいる魚、畜類の世話の仕方、薪の割り方など教えたことをおさらいした。皇女は熱心にそれらをメモに書きつける。
教師と教え子というほどではないが、アルフレッドは彼女との間に良い絆が生まれたのを感じていた。主君から受けた使命を果たし、なおかつ人のためになれたのは嬉しい。帰国後も皇女のことはきっと忘れないだろう。
「そう言えばアニーク姫は明日どうなさるので?」
「聖誕祭の祝宴ね? 来たければ来ていいとふざけたことを言われているわ。東パトリア帝国を代表して、もちろん出席いたしますとも。そのために汚れたドレスを引っ張り出して綺麗にお手入れしたんだもの!」
「へえ、それでは明日はアニーク姫の華やかな装いを拝見することができるのですね」
特別な意図もなく返した台詞にアニークが固まった。おや、ノウァパトリア語を間違えたかなと不安になる。どこの誰とでも意思疎通を図れる幼馴染には敵わないが、語学には自信のあるほうなのだけれど。
「……じっ、侍女なしで着付けなきゃだから、そんなに上手くできないわよ」
「ああ、でしたら俺の妹を手伝わせにやりましょうか?」
「い、要らないわ! これからはなんでも自分一人でこなさなきゃならないんだから!」
変われば変わるものだなとアルフレッドは感心する。手を放してもアニークはもう十分やっていけるだろう。少し寂しい気もするが、己には側に在るべき主君がいる。そろそろ彼女のもとに戻らねば。
「そんなことより、冷めないうちにいただきましょう。明日は料理を味わっている余裕なんて全然ないかもしれないのだし」
ええと頷きアルフレッドは手を合わせた。アニークの言う通りだ。のんびりしていられるのも今日限りかもしれない。
明日はいよいよ九月十日、天帝ヘウンバオスの誕生日である。この一大行事のため、天帝宮にはジーアン帝国全土に散らばった将軍たちが次々と参上していた。来たときは五つ六つだった奥庭の幕屋も今や三十を超える。
アルフレッドたち防衛隊は初日以来呼ばれていないが、彼らと毎夕の食事をともにするアンバー曰く、将軍たちは皆天帝に忠実な臣下だそうだ。心酔しているというよりはむしろ家族のようであり、ラオタオの気ままさなど末っ子にしか思えないと話していた。
そんな集団に混ざって自然体でいるアンバーには畏敬の念すら湧いてくる。ルディアからこの旅の最重要任務を与えられているのも頷けた。
――いいか、天帝に誕生日プレゼントをねだれ。
それがアンバーに下された指令だ。ヘウンバオスが生まれた日ということは片割れのハイランバオスが生まれた日でもある。この機を逃す手はないぞ、と。
アクアレイアがどんなに通商安全保障条約を求めても頑として首を縦に振らなかった天帝が、弟の送迎団には入港を許可したのだ。つまりヘウンバオスは身内の頼みなら聞き入れる可能性が高いと考えられる。
ルディアはアンバーに船旅の素晴らしさ、湾港の価値、行商人の落とす富についてさり気なくアピールしておけとも命じていた。明日彼女に「アレイア海東岸の商港運営権が欲しい」と訴えさせるための布石だ。
バオス教を広める拠点にするのだと言えばヘウンバオスとて頷かないわけにいくまい。更にドナ・ヴラシィを統治するラオタオは海への興味関心ゼロだし、懇意な聖預言者が開発に携わってくれるなら大歓迎だろうというわけだ。
アンバー経由でアクアレイアに寄港権を転がり込ませる。それがルディアの狙いだった。
この目論見さえ上手く運べば後は段階的に以前の状態へ戻していけばいい。経験豊富な水夫がもっと必要だと言ってバオゾに連行された男たちを帰すのも手だ。数年がかりにはなるだろうが、王国はきっと元の活気を取り戻せる。
「ふう、ごちそうさま。……ねえ、アルフレッド、煮物ちょっと味が濃すぎたかしら?」
と、食事を終えたアニークが難しい顔で尋ねた。
「いいえ、どれも大変美味しくいただきましたよ。まさか同じ食卓に着かせていただけるとは思いもよらず、光栄でした」
「そ、そう? 口に合っていたならいいんだけど」
立ち上がり、片付けを始めたアニークに「いいからあなたは座ってて!」とどやされる。やれやれ、自分も少しは彼女を手伝おうと思ったのに。
高貴な身分のアニークと気安く過ごせるのもあと少しか。そう思うとサロンを下がるのが惜しい気がした。
(まだパトリア騎士物語について語り足りないんだがな)
だがあまり遅くなってルディアに疑われたくもない。
窓に差し込む光は陰り始めている。そろそろ去らねばならなかった。
******
パトリア聖歴一四四〇年九月十日。祝祭日に相応しくバオゾの空は青一色に晴れ渡った。日差しはまだまだ夏のそれだが、幕屋の畳まれた天帝宮奥庭には心地良い乾いた風が吹いている。
緑の上に長い絨毯が敷かれただけの祝宴会場を見渡してルディアはジーアンが遊牧民の国であることを改めて実感した。日光を遮る天蓋くらいは張られていたが、テーブル一つ出されていない屋外に「どうぞ」と招かれたのは初めてだ。やっと下船許可の出た傭兵や海軍兵も「地べたに客人を座らせるのか」と綾なす紅色の敷物を前に唖然としていた。
これが外国人限定の対応であれば侮辱だ、差別だと腹を立てるところだが、どうもそんな様子はない。長椅子の用意があるのは最奥の天帝席のみで、ほかは宰相でも十将でも地に腰を下ろすらしかった。差があるとすればどのくらいヘウンバオスの近くに座を占められるかという一点のみだ。
ラオタオは既にほかの将軍たちと無人の長椅子を囲んで寛いでいた。その側に控えるのがジーアン帝国を陰で支えるエリート官僚団だろう。天帝の私兵や帝国内外の要人が左右に分かれて並んだ後にやっとルディアたちの席が来る。そうしてできた四角い輪の中心にはこれからヘウンバオスに捧げられる貢物が山と積み上がっていた。
正午の鐘が鳴り響く。いよいよ本祭の幕開けである。その主役である天帝は聖預言者と手を取り合って奥庭に姿を現した。
おお、とジーアン人の席から歓声が上がる。土下座でひれ伏す彼らに倣い、ルディアたちも額をつけた。神様気取りめと舌打ちしそうになるのを堪えて。
胡散臭い伝説だが、祝福されし双子は生まれ落ちたその瞬間から達者に言葉を操れたそうである。ハイランバオスが聖預言者として大仰に敬われるのは、彼の産声が「世界に最も若い神が生まれた! それは私の兄上です!」だったからだと聞いた。
性欲もあれば排泄もするただの人間と変わらぬくせに、大層な見栄を張ったものだ。民心を惹きつけるには便利な手でも大きな嘘はいずれ己の首を絞める。事実向かうところ敵なしの天帝にも唯一と言っていい弱みがあった。
神を自称するがゆえ、彼は一度した約束を決して覆せないのだ。もしそれをすればバオス教の正当性が失われ、たちまち陳腐な詐欺に成り下がってしまうからである。
だからこそ突くべき隙だった。アクアレイアの海上貿易がなるべく長く保障されるように。
(頼んだぞ、アンバー……!)
わずか上げた視線に双子の姿を捉える。兄弟は仲良く同じ長椅子に腰かけた。楽にしろ、と全体に向けられたねぎらいが開宴の合図だった。
食事はすぐに出されたが、祝い酒がルディアのところに回ってきたのはそれからたっぷり三時間後のことである。何しろ千人超の人間が一堂に会しているのだ。進行は亀の歩みだろうと覚悟していたが、今日は夜まで同じ姿勢で我慢していなければならなさそうだ。
それでも最初の羊料理を食べ終わる頃にはアクアレイアとマルゴーが祝辞を述べる番になった。君主代理としてブラッドリー、グレッグ、コナーの三名が双子の前に片膝をつく。
提督の読み上げた手紙には「天帝兄弟の未来が輝かしいものであるように」とか「両国間の平和が恒久のものであるように」とか月並みな美辞麗句が並べられていた。マルゴー側も無難さでは似たものだ。休戦協定は一年ごとの更新だから、下手に刺激して天帝のご機嫌を損ねたくないのである。
アンバーの通訳したそれにヘウンバオスはどうでも良さげに片手を払った。グレッグは悔しそうに歯噛みしたが、外交慣れしたブラッドリーは平然と受け流す。
続いては自ら献上品を持参したコナーの番だった。この天才画家の前評判は帝国にも広く伝わっているようで、あちらこちらから期待の眼差しが注がれる。コナーは敵地にいることを感じさせない堂々とした態度でヘウンバオスに一礼した。
「天帝陛下を退屈させるだけですし、目録全部を読み上げるのは控えましょう。私からはマルゴー公国の依頼で制作した一点、アクアレイア王国の依頼で制作した一点、この二点の作品についてお話しするに留めさせていただきます」
相変わらず達者なジーアン語である。本当に独学で習得したのか、それならどこでどうやって勉強したのか気にかかる。広い交友関係を持つコナーのことなので、ジーアン人の知人くらいいてもおかしくはないけれど。
(何を考えてついてきたんだろうな、この人は)
ルディアは来賓席の端から師の後ろ姿を見つめた。
理想の君主を探している。かつて告げられた言葉を思い出す。やはりコナーはヘウンバオスが己の目に適う男か確かめにきたのだろうか。神を騙るような傲岸不遜な人間に師が気持ちを傾けるとも思えないが。
「まずはマルゴーの寄木細工からお手に取ってご覧ください。どうでしょう? この木箱はどうやって開ければいいか一見わからないでしょう?」
コナーが天帝に差し出したのは幾何学模様の美しい木製からくり箱だった。公爵家のグリフィン紋が刻まれているのはダミーの蓋らしく、ヘウンバオスが押しても引いてもビクともしない。中が空洞ということは木箱を指で小突く音でわかったが。
「なんだこれは? 本当に箱なのか?」
「ええ、これは然るべき手順を踏まねば開かない貴重品入れなのです」
にこやかに木箱を受け取り返し、コナーは側面に指を押し当てた。さして力をこめた風もなく薄板が少し外側へずらされる。
「なるほど、そういう仕掛けか」
ヘウンバオスは子供のように目を輝かせ、師から木箱を奪い取った。最初にできた隙間に横板を滑らせば新しい隙間が生まれる。その隙間に向かってまた横板をずらし、次の隙間にまたずらし、と続けていくと、最後にグリフィンが口を開けた。
「面白い。こういう物を見るのは初めてだ」
「お褒めに預かり光栄です。ちなみに材料は良質なマルゴー杉でございます」
コナーは公国の特産物を紹介するのも忘れない。だがそれはどちらかと言うと「うちを襲ってもたいしたものは手に入りませんよ」という老公爵の底意を伝えるものに思えた。岩塩や水晶だって採れるくせに、まったくあの狸爺め。
「では続いてこちらをお納めください。僭越ながら私が筆を執らせていただきました、天帝陛下と聖預言者殿の肖像です」
恭しい身振りでコナーは布を被せた大きな額を振り返った。黒いビロードが取り払われるとヘウンバオスが「ほう!」と唸る。天帝が十将や宰相たちにも回し見せた肖像画には幕屋で親しく語り合う兄弟の姿が描かれていた。
「これはバオゾに着いてから描いたのか? お前は毎日街の見物に行っているようだったが」
「いえ、ほとんどアクアレイアで完成させてまいりました。初めて天帝陛下にお会いしてから手を加えたのは一箇所だけでございます」
「ふむ、一箇所か。どうだラオタオ、あの男がどこを直したか見抜けるか?」
天帝は名指しで青年を呼びつけると一緒に絵画を覗き込ませた。ラオタオは「ええっ?」と大弱りで悩み始める。
「うーん、天帝陛下の表情かなー? 顔立ちはハイちゃんと似てるけど、二人とも笑い方から何から全然違うもんね」
ルディアも「だろうな」と頷いた。アンバーはアイリーンから事前に聞いた情報をもとにコナーへのアドバイスをしたらしいが、当然そのときはまだ天帝本人を知らなかったのだから。
だが驚くべきことに、コナーの返事は否だった。
「ふふ、お姿は一切変えておりませんよ。イメージしていた通りのお方でしたので」
「よし、ならば私が当ててやろう。この幕屋に掛かった布の柄だろう? ここだけ乾ききっていない染料の匂いがする」
自信たっぷりに笑う天帝に師は「ご明察です」と頷く。
「私の持っているジーアン織とは少々パターンが違いましたので」
すごいなとルディアは舌を巻いた。ほかの画家ならハッタリを疑うところだが、コナーなら未知の人物を正確に描き出すくらいやってのけそうだ。
「いい腕だ。いや、腕より頭と言うべきか。よくぞここまでありのままの我々を描いた。お前はどうして私の姿を思い浮かべることができたのだ?」
「そうですね、私は昔から君主という存在に興味がありまして。おそらくほかの人間より、ジーアンのような大帝国にはどんな眼差し、どんな知性、どんな精神を持つ王者が君臨するか想像しやすかったのでしょう」
「ふうむ、つまりお前は歴史上の様々な君主について研究し、彼らの類似性を発見済みだということか?」
「ええ。その通りでございます」
「なら答えてみせろ。私のこの顔はどんな君主に分類される?」
切り返しにくい問いだった。一つ間違えれば周囲を固める衛兵に曲刀を振り下ろされそうな。けれどコナーは少しも動じた素振りを見せず、むしろ口角を上げてみせた。
「あなたはまだまだ、遥かな高みを目指す方だと存じます」
楽しげな声にぞっとした。それはかつてルディアが彼に「あなたには女王の素質がありますね」と言われたときと同じ響きの声だったから。
まさかと思うがこの人はジーアン帝国に仕える気ではあるまいな。
恐るべき疑念がもたげてくる。有り得ない話ではない。高い能力を持つ者は己の力を最大限に発揮できる場を求めるものだ。それにコナーは、理想の君主を探していると言っていたのだから。
だがそんなことは絶対に認めるわけにいかなかった。彼の頭脳は王国のためにあってもらわねば困る。たとえ彼の希望でも天帝に譲るなど不可能だ。
「何かに焦がれておいででしょう? あなたが国を広げるのはその『何か』を自分のものにするためだ。領土獲得は手段に過ぎない。……違いますか?」
「――」
コナーが問いかけたその瞬間、ヘウンバオスの目つきが変わった。肘かけにもたれていた天帝は画家を見つめて瞠目する。燃えたぎる炎のごとき赤い瞳は何も語らず、奇妙な沈黙が場を支配した。
「……くっくっく! ハイランバオス、お前の連れ帰った客は実に面白いな! コナー、私はもっとお前が知りたくなったぞ。十日と言わず一年でも二年でも我が都に住まうといい!」
喜んで、と師は返事した。その言葉を待っていたとばかりに。
天帝のもとに留まって彼は一体何をどうするつもりなのだろう。言い知れぬ不安がルディアの胸を騒がせる。自席に戻ってきたコナーが周囲の王国軍人にこそりとウィンクしていなければ一晩中懸念に悶えていたかもしれない。
にこやかな師の表情を見るに、彼の心が天帝に傾きつつあるのではと疑ったのは己の思い過ごしだったようだ。どうやら師は思惑があってヘウンバオスに誘い水を向けたらしい。それが何かはルディアには知る由もなかったが、今はひとまず頭の外に置いておくことにする。
「さて、これで祝いの品はすべて受け取ったかな」
天帝の声にゆっくり顔を上げた。いよいよここからが本番だ。よもや優れた客人を連れて帰った弟に何もやらずに終わりはすまい。
アイリーンによれば、ヘウンバオスは例年贈り物の用意などはしておらず、ハイランバオスに欲しいものがあるときだけそれを与えていたという。ならば必ず問いかけられるはずだった。何か望みはあるのかと。
「我が半身、忠実なるハイランバオスよ。弟のお前が生まれてきた喜びも何か形にせねばなるまい。さあ言ってみろ、ここへ帰ってからずっと物欲しそうな顔をしているぞ? 私に奮発させたいのだろう?」
来たぞとルディアは身構えた。実際の受け答えを任されたアンバーは迎えた大詰めに柔らかく笑みを浮かべている。
今まで聖預言者が兄に乞うたのは救貧院や寺院を始めとする宗教施設、またはその改修費、遺跡の管理権などだったそうだ。どれもなかなか桁外れだが、今回の商港運営権は過去最大だろう。
天帝は渋らぬはずだった。馬鹿でないなら船の価値にはとっくに気がついている。そして馬に乗れなくなった弟は、海の世界を切り盛りさせるのにまたとない適役だった。
「ええ、実はアレイア海東岸の港を賜りたいのです。そしてどこの国の船かによらず、私の許可する船はすべて停泊可能だとお認めいただきたいのです」
臆面もなくアンバーは祈りのポーズでシナを作る。よく似た顔に上目遣いで見つめられ、ヘウンバオスはふっと笑った。
「そう来ると思った。いいだろう、ラオタオは修繕もしていないそうだから、そっくりお前に任せよう。お前は本当にあの乗り物が気に入ったと見えるな」
よし、よし、とルディアは胸中で勝利の拳を突き上げた。やったぞ、言質を取ったぞと。これでアクアレイアは念願の交易再開に漕ぎつけられる。
しばらく国の男手が減るのはマルゴー傭兵でカバーして、とにかく今は国庫を満たすのが先決だ。商人の意気は上がるだろう。女だって倹約なんてやめにする。元老院での父の評価も高まるはずだ。アクアレイア王家は安泰だ。
「ただしタダでというわけにはいかん。何しろ十将に所領の一部を譲渡させるのだからなあ、ラオタオ?」
「へへっ! 悪いねハイちゃん、俺にも体面ってものがあるからさあ」
「何か余興でもしてこいつを楽しませてやれ。それでラオタオが良いと言えば港はめでたくお前のものだし、そうでなければこの話は最初から無しだ」
――ではなかったらしい。思わぬ形で突きつけられた条件にルディアは眉間のしわを濃くした。上げてから落とすとは非道な男め。
「はあ、余興ですか」
アンバーの声にも戸惑いが滲む。なんとか助け船を出さねばかと遠い彼女に視線を送った。
だがアンバーはなんとか一人で持ち直してくれたようだ。いつも通りに聖者の穏やかな顔で微笑むと彼女は金の長椅子から立ち上がった。
「そういうことなら私は友人たちと相談させていただきましょう。きっと今日の祝宴を盛り上げてみせますよ」
こうしてルディアたちは会議室に逆戻りとなったのだった。
******
「困ったわねえ、ラオタオ様にお楽しみいただくなんて、一体どうすればいいのかしら……」
アイリーンの溜め息が室内に響く。腕組みしつつ顔を見合わせた防衛隊及びアンバーも皆一様に眉をしかめた。
「あの好色男を満足させなきゃいけないんでしょ? モモすっごくイヤな想像しかできないんだけど」
「モッ、モモに破廉恥な真似はさせませんよ! ダメダメ、絶対ダメです!」
「そうだぜ。大体お前みたいなお子様体型じゃ戦力にならねー。アイリーンも痩せすぎでムチムチには遠いしなー」
「そうですねえ、その圧倒的なお色気不足が知的なアイリーンらしいのですが今度ばかりは……」
「ううッ! ハイランバオス様ごめんなさい……! 昔から私どうしても胸に栄養がいかないんですぅ……!」
「落ち着け皆! そもそも色仕掛けなど隊長の俺が許可しない! あんな大勢の見ている前で品がなさすぎるだろう!」
「だよなー」
「そうだよねー」
場が静まるとルディアに注目が集まった。どう手を打つべきか無言で指針を求められる。
参ったな、とこめかみを掻いた。こういう事態は頭になかった。与えるなら与える、与えないなら与えないできっぱり断じられると思ったのに。
「ラオタオではなく天帝の琴線に触れられればいいとは思う。主君の評価したものを臣下がこき下ろすわけにいかんからな。それならなんとか考えつかないか?」
「そ、そうねえ! そうだわ!」
ルディアの言にアイリーンがぽんと拳を打つ。しかしモモとレイモンドには揃って肩をすくめられた。
「けどそれ余計に難しくない? 歌ったり踊ったりじゃ鼻で笑われておしまいでしょ?」
「うん。俺も伝わるのは必死さだけじゃねーかと思うぜ」
直感に優れた二人に却下され、ルディアはううむと押し黙る。「あまり長々と待たせられない。短時間で準備できて、インパクトのある出し物でないと」と部屋をうろつき始めたアルフレッドにも名案はひらめかないようだった。
「天帝の興味ありそうな分野は芸術や科学なんだがな……」
そう呟き、ルディアは防衛隊の工学担当を見やる。うつむくバジルは床から視線を上げようとせず、不自然なほど目が合わなかった。
「――おい」
低い声で呼びかける。しかし弓兵は反応しない。
「おい、バジル」
もう一度威圧感たっぷりに名を呼ぶと耐えきれなくなった少年がおずおずと顔を上げた。
「お前、何か思いついているな?」
「うわーッ! うわーッ! 思いついてはいますけど気が進まないんですぅ! 許してくださいーッ!」
ルディアの追及に弓兵は泣いて喚いて後退する。
「どんなことか言ってみろ! 頼りはお前だけなんだ!」
「ちょっとバジル! 隠してないで白状して!」
「ううっ、さ、砂糖を、大枚はたいて買った砂糖を犠牲にしないといけなくて……っ!」
モモに問われてバジルはあっさり口を割った。
「砂糖?」
ルディアたちはきょとんと目を丸くした。まさか天帝に菓子でも振る舞おうというのではなかろうな。
「ああ、でもやらなきゃですよねえ……! ううっ、特別報酬期待していますねえ……っ!」
バジルは半べそをかきながら自分の荷物を引っ繰り返す。このとき彼の頭にあったのは、常人にはおよそ考えもつかない不思議の手品であった。




