第2章 その5
「ううーっ、どうして皇女の私がこんなこと……」
昼下がりの中庭でやっと鶏の羽をむしり終わり、アニークは瞳に溜まった涙をぬぐう。首を絞めたり血抜きをしたり、もうクタクタだ。掃除だの炊事だの連日何をやっているのだろう。
「泣き言をぼやいている場合ではありませんよ。次は内臓を取り出して、皮を剥いで、塊肉に切り分けます。お教えした通りにできますね?」
「ううっ、ねえ、お願いだから少し休ませて……」
「鮮度が大事なので頑張ってください。これができるようになれば、いつでも好きなときにチキン料理を召し上がれるようになるんですから。それとも肉はお嫌いになりましたか? 二度と買ってこないほうがよろしいですか?」
「うううううー!」
アニークは生まれて初めて握ったナイフを半ばやけくそで鶏に向けた。羽が抜けやすいように熱湯を浴びせた家禽は触れると火傷しそうなほどで、エイと突き立てた刃が意外にすんなり引き切れる。
「そうそう、お上手です。この砂肝とレバーは栄養があるので捨てずに残しておいてくださいね。さあ、次は皮を剥ぎましょう」
「ああーッ! もういや! 横で見てないであなたがやってよ!」
「俺ができたって意味ないでしょう。大体あなたは手さえ動かせばそれなりにこなせているんですから、甘ったれないでください」
「……ッ!」
酷い、酷すぎる。アニークはぶるぶる肩を震わせた。甘ったれなんて父にも言われたことがないのに。
「わかったわよ! やればいいんでしょう、サー・トレランティア!」
屈辱にわななきながらアニークは叫んだ。乱暴に鶏だったものを掴み、不要な皮を剥がしていく。
「……アニーク姫、今なんと?」
「だから皮を剥ぐのも肉を切り分けるのもやればいいんでしょ!? これ以上私を怒鳴らせないで!」
「いえ、その後です。ひょっとして、サー・トレランティアと仰いましたか? あの『パトリア騎士物語』の?」
「え!? アルフレッド、あなた『パトリア騎士物語』を知っているの!?」
まずいとアニークは冷や汗を垂らした。平民だというアルフレッドが文学に通じているはずないと踏んで「冷たい・怖い・容赦ない」の三拍子揃った嫌な騎士に彼を喩えてしまったのに。
ああ、どうしよう。絶対に怒られる。どういうつもりだと頭から平桶の血を浴びせられるかもしれない。ああ、ああー!
「トレランティアは『パトリア騎士物語』の中で俺が最も尊敬する騎士です」
あ、そう、とアニークは嬉しそうなアルフレッドを見やった。おかしな趣味だ。冷血漢が憧れるのはやはり冷血漢らしい。
「彼こそ騎士の中の騎士。主君のためにあれほど身を尽くせる人間はいません。あの鋼の忠誠心は俺も見習わなければと常々手本にしていて」
(まあ珍しい。こんな風に頬を赤らめて話すなんて)
可愛いところもあるじゃない。そう気を緩めた途端に「切り分けは? 手が止まっておりますよ?」と指摘される。
可愛いなんて気の迷いだった。一瞬前の己を悔いてアニークはナイフに力をこめた。
「やっぱりあなたサー・トレランティアだわ」
「ありがとうございます。まだまだ彼には遠く及ばぬ若輩者ですが、精進してまいりたいと思います」
厭味は通じなかったようで、真面目に喜ばれてしまう。アニークにはほんの少しもわからなかった。あんな偏屈だんまり男のどこがいいのか。
サー・トレランティアは仕える姫の恋路を邪魔した悪い男だ。確かに彼女は敵国の王子という愛してはならない相手を愛してしまったが、駆け落ちくらい認めてやれば良かったのだ。恋人たちは真実の愛のために身分を捨てるとまで言っていたのだから。それをあの騎士は「いくらあなたが王女をやめたと主張しても、誰もそう思ってはくれないでしょう」と王子に嘘の待ち合わせ場所を教えたのだ。挙句の果てに彼女が王子に貰った大事な指輪まで処分して。
思い出してもつらい話だ。トレランティアさえ協力的であったなら、たった一夜の逢瀬でも二人はきっと結ばれたのに。
「……ちなみに一番好きな姫は誰なの?」
好奇心に負けてつい尋ねる。まさかお転婆王女のグローリアではなかろうなとアニークは薄目でアルフレッドを見つめた。問われた騎士はしばし思案したのちに「プリンセス・オプリガーティオですね」と答える。
「まあ! わかる、わかるわ。病弱だけど、とても素敵で羨ましい姫君よね。あのセドクティオ様の仕えるプリンセスだもの!」
「アニーク姫は恋多きセドクティオがお好きですか。俺はちょっと、ああいう派手なタイプは自分とかけ離れすぎていて」
「まあ! うふふ! アルフレッドはそうかしら!」
「力もあって華もある、優れた騎士ですよね。プリンセス・オプリガーティオのような、座して動かぬ聡明な女性には自由な彼が合っていると思います」
「そうよねえ! セドクティオ様は奔放なところがいいわよねえ! 何よもう、あなたわかっているんじゃないの!」
もっと騎士物語について語り合いたくなってきてアニークは急ぎ鶏肉を燻製鍋に放り込む。その手際の良さはアルフレッドを唸らせるほどだった。
「私はセドクティオ様が一番! いつもロマンチックだし、彼の甘い言葉にはドキドキするわ。お顔立ちもすべての騎士の中で最も麗しいって書かれていたくらいだし……!」
「へえ、『パトリア騎士物語』の感想を女性に伺うのは初めてです。なるほど、あれは教訓ものとしてだけでなく質の高い物語としても楽しめるんですね」
「えっ!? あなたあれを教科書か何かだと思っていたの!?」
「ええ、子供の頃から騎士と姫とはかくあるものだと……。変ですか?」
堪えきれなかった笑いが口から溢れ出る。現実の騎士なんてそうそう頼りになるものではない。アニークがジーアンに連れて行かれたときでさえ近衛兵はただの一人も助け出そうとはしてくれなかったのだ。サー・セドクティオなら――否、サー・トレランティアだって、あの場にいれば救いの手を差し伸べてくれただろうに。
「……アルフレッドはどうしてサー・トレランティアを尊敬しているの?」
気がつけばアニークはそう尋ねていた。甦った悲しみを頭から追い払おうとして。
「それはもちろん、彼は自分が騎士であることを忘れないからです」
「騎士であることを忘れない? それってどういうこと?」
「トレランティアは主君が道を誤りかけたとき、ほかの者のように迎合しようとはしませんでした。彼は憎まれるのを承知で姫と王子の仲を裂いたのです。あのまま姫が駆け落ちしていれば、遠くない未来に差し向けられた刺客の手で彼女は殺されていたでしょう。指輪を自室の壁に埋め込んだのも、発見されたとき責めを負うのが自分であるようにです。彼は決して多くを語りませんが、彼の行動すべてが主君への忠誠を示しています。俺もそのような誇り高い騎士でありたいです」
アニークは目を瞠った。サー・トレランティアに対するそんな見解があろうとは思ってもみなかった。言われてみればあの姫は、彼のおかげで裏切り者と処罰されずに済んだのだ。
「私ったら、今まで彼を厳しいだけの非情な男だと思っていたわ」
「ということはつまり、俺は厳しいだけの非情な男だと思われていたわけですね?」
「あっ! いえ、違うのよ、アルフレッド。あなたは私を手助けしようとしてくれているし、その、ええと、まさにあなたが思い描くサー・トレランティアのようだと思うわ!」
焦りも手伝い、口の回るまま弁解する。アルフレッドは動転するアニークを見やって唐突に吹き出した。
「あはは! 正直な方だ。気にしていませんから大丈夫ですよ」
年相応の明るい笑みにびっくりする。思わず息が止まるほどに。
声もいつもより優しく響いた。「大丈夫です」なんてこの数日で聞き慣れたと思っていたのに。
(いえ、違うわ。アルフレッドは今までもずっと優しかったのよ。ただ私が、サー・トレランティア的な思いやりに鈍かっただけで)
そこに気づくと目の前の男はまるで違う人間に見えた。さっきまでの怒りが嘘のように消え、アニークは瞬きを繰り返す。
知らなかった。こんなにあっさり悪口を許してくれるなんて。
知らなかった。こんなに朗らかに笑う人だなんて。
「あ、あの、プリンセス・オプリガーティオのどこが好き?」
なぜか急に目を見て話しにくくなり、アニークはそっぽを向いた。なんだか鼓動が早い気がする。さっきまで鶏と格闘していたせいだろうか。
自分で質問したくせに答えを聞くのも怖かった。
アルフレッドが嬉しい返事をくれたらいいのに。アニークと重ねて考えられそうな、そんな美点を挙げてくれたら。
「そうですね。明敏で、意志が強くて、どんな状況でも成すべきことを成そうとするところでしょうか。――ルディア姫とよく似ています」
先程よりも落ち着いた、けれど誇らしげな微笑がアニークの胸を刺した。
声が喉に張りついたまま出てこない。何か言わねばならないのに。
ああ、そう、ルディア姫。ああ、そうよね、直属部隊なんだものね。
「――失礼! アルフレッド、少しいいか?」
静寂を切り裂いたのは外から帰ってきたと思しき防衛隊の一人だった。
アニークを「何もしてこなかった女」と愚弄した剣士だ。昨日まで彼の姿を見かけるたびに腸が煮えそうだったのに、どうしてか今は羞恥しか感じない。
何を恥じ入ることがあるの? 私は東パトリア帝国の皇女なのよ? たとえ何もしていなくてもいるだけで尊い存在でしょう。
「申し訳ありません。少し席を外させていただきます」
「…………」
アニークには頷くしかできなかった。アルフレッドに「ここにいなさい」と命令するなど不可能だった。
彼には既にプリンセスがいて、本来なら相手にしない女を相手にしてくれているのだと気づかされてしまったから。
******
てっきり会議室に集まるのかと思ったのに、アルフレッドがルディアの腕に追いやられたのは無人の音楽室だった。埃を被った楽器に囲まれ、刺々しい目に睨まれる。
「なんだ今のは? 手懐けろとは言ったが誘惑しろとは言っていないぞ?」
穏やかならぬ追及に「待て待て待て」と思わず声を荒らげてしまう。
「妙な誤解はよせ! 不適切な言動は一切していない!」
「お前はそうでもあっちはわからん。現に女の顔をしていた」
「他国の姫に失礼だろう! 下世話な目で見ないでくれ、頼むから!」
己は真面目に任務を遂行しているのだとアルフレッドは訴えた。対する主君はどうだかと言いたげだ。
「なんの話をしていたんだ? 随分盛り上がっていたようだが」
「おい、いつから覗いていた? はあ……『パトリア騎士物語』について意見を交換し合っていたんだよ」
隠すことなど一切ないので正直に打ち明ける。彼女は「ふうん」と頷いた。
「あのお前の好きそうな騎士道小説か。なるほど共通の趣味を持つ同志だったというわけか」
「疑いは晴れたか?」
「とにかく皇女に手は出すなよ。親切もほどほどにしろ」
これまでの潔白は信じてもらえたらしいがこれからの潔白には釘を刺される。信用の薄さにアルフレッドは深々と溜め息をついた。
「……ん? 待てよ、もしかしてお前も『パトリア騎士物語』を読んだことがあるのか?」
ふと気がついて質問を投げかける。ルディアは当然だろうという顔で「その程度は教養のうちだ」と返した。
「そ、そうか」
返事をする声がどもる。さっき皇女にトレランティアに似ていると言われたせいだろうか。ルディアの目にもアルフレッドがあの騎士と似て映るのか気になってきてしまう。
聞いてみようか少し悩んだ。まごついていたら彼女のほうから答えを教えてくれたけれど。
「どうせお前の贔屓はサー・トレランティアかそこらだろう? 憧れの伯父にそっくりだからな」
お見通しだと言わんばかりにルディアは笑った。すかさずトレランティアの名が出てきたのを喜ぶ反面、それをブラッドリーに似ていると言われて複雑な気分になる。若輩の己が栄誉ある騎士に見立ててもらおうなど分不相応な話であったらしい。
「そう言えばあの物語の主人公もサー・トレランティアに傾倒して騎士の道を志したんだったな。お前と同じではないか」
うっとアルフレッドは喉を詰まらせた。あまり認めたくはないが、自分でもそちらのほうが近い気はしていたのだ。可憐で豪胆なプリンセス・グローリアに振り回される、真面目だけが取り柄の新米騎士ユスティティア。
パトリア騎士物語は「世界中探したってあなたみたいにぶっ飛んだお姫様はいない!」「そんなに言うなら確かめに行こうじゃない!」と争う二人が諸国の主従を訪ねては事件に巻き込まれるという長い旅の物語だ。未熟だったサー・ユスティティアも最後には真の騎士に成長するけれど、いかんせん頭を抱える迷場面は多い。
(この人には俺が主君を侮ったり、疑ったりする男に見えるのかな)
もたげた疑問にアルフレッドはかぶりを振った。
いやいや、待て待て、何もルディアはユスティティアの欠点がアルフレッドを想起させるとは言っていない。わざわざ悪い意味に取らなくても大丈夫だ。多分。おそらく。
(……駄目だな俺は。自分の評価が気になって仕方ないなんて)
自嘲の笑みを噛み殺し、アルフレッドは肩をすくめた。こんなざまでは伯父にもサー・トレランティアにも届かない。
「しかしお前も平民の身でよくぞ騎士など目指そうと考えたものだ。初めから無理があるとは思わなかったのか?」
ルディアの関心はもう騎士物語から逸れていた。雑談の延長といった感じで何気なく問うてくる。それが胸の底の泥を掻く言葉だとは思いもせずに。
「いや、俺は……」
途中まで口を開いたものの、二の句はなかなか告げられなかった。
幼少期の思い出はむやみに掘り起こしたくない。けれどなぜこの道を選んだのか問われれば振り返らざるを得なかった。
嘲笑。同情。値踏みの視線。
どれももうたくさんだ。
「俺は、父親と同じに見られたくなかったから」
声に滲んだ怒気に自分で驚いてアルフレッドは息を飲んだ。狼狽を悟られはしなかったろうか。おそるおそるルディアと目を見合わせる。
「父親?」
彼女はきょとんと尋ね返した。まずい話題だったかと珍しく気後れした表情で。
その反応を見て逡巡する。これ以上は何も告げずにおくべきか。
「……いや、その……」
だが己には上手くはぐらかせそうになかった。なら正直に打ち明けたほうがいい気がした。主君の問いに、騎士は答えるべき立場にあるのだから。
「知っているんじゃないのか? 有名人だからな」
悪い意味でだが、と付け加える。言葉を濁して「まあな」と返すルディアに詳しい説明は必要なさそうだった。
アルフレッドの父親は薬師で、名をウィルフレッドと言う。武人貴族として名高いウォード家に出入りしていたのは傷薬の納品担当だったからだ。
美しき令嬢ローズにウィルフレッドはたちまち恋した。けれど「鋼鉄の薔薇」と称される彼女になびく様子はなかった。贈り物ごときには釣られず、書いた恋文も添削して返されるほどで。
万策尽きたウィルフレッドは最後の手段に出た。高望みは百も承知、ならば運を波に任せようと「海への求婚」に参加したのだ。そうして苛烈な争奪戦の末、栄光のリングを手にした。
――国王陛下、どうかウォード家のローズ嬢を俺のものにしてください!
民衆のどよめきが耳に聞こえてくるようだ。アクアレイア建国以来、そんな願いを口にした者は一人としていなかった。
折しも王は代替わりしたばかり。イーグレットはすぐに返答できなかったという。前例もなく、所望された娘の心境も知れないのだから当然だった。
――いいでしょう。神聖な儀式をやり直すわけにいきません。私はあなたの妻となり、その務めを果たしましょう。
戸惑う王の言葉を待たず、母は父の前に歩み出た。
国民広場はほんの一瞬沸き返った。
本当にただの一瞬。強烈な平手打ちの音が響くまで。
――ただしお前はたった今、アクアレイアで最も劣しい男に成り下がったのです。
そのとき母の告げた言葉は今も語り草になっている。お前が女を物のように扱ったこと、他人の心を軽んじたこと、忘れる者はいないだろう。以後二度とこんな馬鹿げた望みを口に出す人間はいまい。つまらぬ恋を成すためにお前はすべてを失ったのだと。
受けたショックが大きすぎたのか、それとも元々そういう人間だったのか、父はそれからお手本通りの下衆になった。アルフレッドが物心つく頃には昼間から酔っ払い、仕事も妻に放りっぱなしのろくでなしであったと思う。
いつ見ても父母のやり取りは義務的で、冷えきっていて、一触即発の雰囲気だった。それでも子供が三人いたのは「務めを果たす」という母の最初の約束が守られたからだろう。
モモが五つになった年、手紙も残さず父は消えた。唯一己の下に置けるかもしれなかった娘が手斧を振るうようになり、希望が潰えたのかもしれない。
正直に言えばほっとした。あの夫妻の長男というのでアルフレッドはどこへ行っても好奇の目に晒されたし、「気をつけなきゃ父親と同じクズになるよ」と脅してくる人間も少なくはなかったから。
父が蒸発してからだ。母が実家に連れて行ってくれるようになったのは。
遠目にしか見たことのなかった伯父は近くで見ると倍の迫力があった。堂々とした佇まい、重みのある低い声、無意味に怒鳴ることをせず、アルフレッドを一人前の男として尊重してくれる。何もかも父とは違った。憧れは日に日に増した。母が「お前はお兄様似ね」と言ってくれたのが嬉しくて。だからこそ余計に。
「俺は死ぬまで騎士でありたい。いつかハートフィールドの名が嘲笑ではなく賞賛の対象になるように」
平民か貴族かなんてどちらでも構わないのだ。恥じることなく生きられれば。
意を決し、アルフレッドはドアに手をかけたままのルディアと向き合った。伝えるなら今しかない。個人のわがままではないのかと一度は胸に押し込めた言葉。
「……できれば俺を戦場から遠ざけないでくれないか? 一人だけ安全な場所に逃げ込んだと誤解されるのは耐えがたい」
「…………」
ルディアはしばし黙り込んだ。
言ってしまってから後悔する。彼女の状況判断はいつだってアクアレイアが最優先にされるのに、何を頼んでいるのかと。
「いや……やはり忘れてくれ。命令には絶対服従が鉄則だ。どうかしていた」
アルフレッドは首を振り、不用意だった己の前言を撤回した。
大丈夫だ。案ぜずともいつかきっと、ルディアの直属部隊にいたという事実が至上の誉れとなるはずだ。
「……考慮には入れておいてやる」
部屋を出ようと促したアルフレッドにひと言だけ残し、ルディアは先に廊下をずかずか歩いていった。気づいたときには後ろ姿でどんな顔で答えてくれたかもわからない。
だが嬉しかった。馬鹿を言うなと一蹴されず。
嬉しかったから気づかなかった。自ら彼女に不信の種を植えつけたことに。
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温まっていた心が瞬時に冷えてしまう。この感覚を初めて知ったのはいつの頃だっただろう。失望とは少し違う。何も期待してはいけないと、ただ自分に言い聞かせている。
そう、多分、コナーがルディアの味方ではないと自覚したときと同じだった。
尊敬していた。感謝していた。今もそれは変わらない。だが師はルディアのもとを去ったのだ。己の仕事は果たしたのでと。
いつも側にいてくれるとか、絶対に裏切らないだとか、都合のいい思い込みを持ってはいけない。それは危険な依存だと、何度も何度も父の忠告を受けてきた。それなのに、大きな秘密を共有したせいか、防衛隊の面々には心を寄せすぎていたようだ。アルフレッドの内心を知るまでなんとも思わなかったとは抜けている。
(父親と同じに見られたくない……か)
どうということはない。彼が騎士であろうとするのは彼自身のためであって、決してルディアのためではないのだ。仕える相手など誰でも同じ。ルディアの正体が何者であれ関係ないと断言した、彼の忠誠にそういう性質があることは承知していたはずだったのに。
(関係なくて当然だ。私はあいつの根幹に関わる人間ではないのだから)
別に悲しいわけではない。ただアルフレッドにはルディアとは別の道を選ぶ可能性もあると再認識しただけだった。彼が本当に仕えたいと願う、彼だけのプリンセスを見つけだしたそのときは。
(あの性格だ。簡単には離れんだろうが、ああいう奴ほど真逆に方向転換するからな)
閉じた瞼になぜかユリシーズの顔が浮かぶ。かぶりを振ってルディアは幻を追い払った。
わかっている。誰の心にも譲れぬ何かがあるということ。そこが食い違ってしまったら一緒にはいられなくなるということ。何を傷つけても守りたいものはルディアにだってあるのだから。
(他人を完全に掌握したいなんて傲慢な考えだ)
未来はどうなるか知れずとも今ここにいてくれる。それで十分ではないか。
過剰な期待はかけるまい。見込み違いになったとて、すべて己の責任だ。
「…………」
人気のない廊下は暗く、ひとりぼっちに錯覚した。
ジーアンへ来て今夜で六日。天帝の誕生日まであと四日。旅の山場は近づきつつある。
瑣末な感傷を弄んでいる場合ではない。もっとしっかりしなくては。
(王者の孤独か)
己の中に、見えない、冷たい、壁を感じる。
だがこの不愉快な温度を捨ててしまったら、きっと自分もアニークみたいになるのだろう。
(今更私に『ルディア』はやめられない)
本物の王女は誰にも知られずにひっそりと死んでしまった。ならばその身を借りて生きてきた己が最後まで彼女の代役を務めなければ。「ルディア」としてイーグレットに愛してもらった、それが返礼というものだろう。
(……レイモンドと見た蛍は綺麗だったな……)
蟲が虫を羨むなんておかしな話だ。
乾いた笑みは闇に溶けた。




