第2章 その4
全体を俯瞰できる場所に来ると今まで見えていなかったものが見えてくる。ルディアがそれを発見したのはバオゾで一番大きな寺院の尖塔の頂だった。
街から少し距離を隔てて完成間際の砦が一つ。立地は二つの都が向かい合う大河のごとき海峡の、陸と陸が最も差し迫っている岬。
どう考えても対ノウァパトリア用監視基地である。もしかすると対岸に橋を渡すための事前準備かもしれない。ということはジーアン帝国の次なる狙いは東パトリア帝国なのだろうか。
(不可侵協定はどうする気なんだ? 今まで結んだ約束は一度も破っていないと聞くが……)
ルディアはうーむと眉をしかめた。バオゾへ来てもう数日経つけれど、天帝の胸中は依然として読みきれない。せっかくアンバーを夕食の席に送り込んでいるのに又聞きするのは他愛無い与太話ばかりだ。ヘウンバオスは側近や十将はおろか実弟にさえ己の考えを明かさなかった。こちらとしてはもっと重要な機密に関わる情報が欲しいのに。
(いや、一つだけ気になる報告があったか)
アンバー曰く、天帝に届く書簡の類に妙に東パトリア皇室からのものが多いらしい。更に奇怪なことに、宛先がアニークとなっていても皇女の手に渡っている気配がないという。
日中アニークに付きっきりのアルフレッドも「皇女はジーアンに完全に放置されている」と話す。便りを届ける兵になど出くわしたこともないそうだ。
(どうも天帝がアニークをどうしたいのかわからんな。改宗を強いてもいないし、政治の駒に仕立てる気もなさそうだ。それでも手元で飼い殺すということは、まさか誰かに頼まれてあの女をノウァパトリアから遠ざけているのか?)
であれば取引の裏を推測できなくはない。東パトリアの皇族関係者で彼女をうとましがっている人間など決まっている。
(ヘウンバオスとつるんでいるとしたら現皇妃、か)
不可侵協定を結ぶ際、秘密裏に傀儡政権の発足でも取りつけたに違いない。天帝は東パトリアを手に入れたい。皇妃は継承順の低い息子を帝位につけたい。二人の利害が一致したのだ。
順当に行けばあの帝国の世継ぎはアニークだった。皇帝の第一子として彼女の未来は約束されていた。だが彼女がジーアンに囚われたままならどうだ? 戴冠は不可能だとアニークの継承権をすっ飛ばす理由になり得る。
(可哀想だがアクアレイアにもそのほうが都合いいな)
ルディアはバジルに借りた望遠鏡で砦の周辺をチェックしながら黙考した。派手好きの皇妃はアクアレイア商人のお得意様であり、交易の庇護者である。ジーアン傘下に入ることになったとしてもアクアレイアを無下にはするまい。しかも権威ある男が好きだから、グレディ家よりイーグレット派だ。アニークには埋もれてもらって困ることなど一切なかった。
(なら砦の建設目的は皇妃牽制か? 少しでもおかしな素振りを見せればどうなるか承知しているだろうなと無言のメッセージを送るための)
いずれにせよ今は憶測の域を出ない。ノウァパトリアに置いてきた商人たちの報告を待ったほうが賢明だろう。今はそれよりもここでしかできないことを成すべきだ。
「……おい、お前たち。今日は大いに実りがありそうだぞ」
何やら蠢く一団に気づいてルディアは口角を上げた。よくよく見ればそれは造りかけの砦から街へ引き返してくる人夫たちだった。身に纏う汚れた服も、日に焼けてなお薄い肌も、バオゾの民とは明らかに異なる外見をしている。
「おお、天のお導きですか?」
「何が見つかったのかしら?」
「僕の予想では工房街ですね! ああいうのは騒がしいとか火事が広がるとか言われて郊外に追いやられがちですし!」
「モモも! モモにも望遠鏡貸して!」
「まあ待て。レイモンド、先にお前が確認しろ」
「へっ? 俺?」
きょとんとしながら望遠鏡を受け取った槍兵はルディアの示した方角に筒先を向けて「うおっ!」と叫んだ。なんだなんだとほかの面々が騒ぎ出す。
「ありゃドナとヴラシィの連中じゃねーか!」
「やはりか。土木工事要員として連れ去られていたわけだな」
「見せて見せて! ――あっ! あんなところにおっきい砦!」
「えっ本当? あらあ、私がバオゾにいた頃は何もない岬だったのに」
「どれどれ。おやまあ、皆さんくたびれきっておりますね。これはバオス教の慈善活動の一環として慰問に向かわねばならぬ気がいたしますよ」
「よし、さっそく彼らを訪ねてみよう」
言うが早くルディアは尖塔の螺旋階段を駆け下りた。あの砦がどんな目的で建てられたのか知る絶好のチャンスである。それにアレイア海東岸がジーアンに攻め込まれた当時の話も聞いておきたい。
「あいつら作業中っぽいのに街になんの用事だろうな? ランチ休憩か?」
「それはないと思いますよ、レイモンド……」
「うーん。石材や木材を積んでおく闘技場の遺跡があるから、ひょっとしたら足りない資材を取りにいくんじゃないかしら。でもいつも兵士が監視しているところだし、ハイランバオス様はともかく私たちは中に入れてもらえないかもしれないわね」
「ふむ、だったら……」
******
ガラガラうるさい車輪の音に眉を寄せつつガタガタ揺れる荷台で小さく身を縮める。ルディアの取った作戦はオーソドックスな「酒樽に隠れて忍び込む」というものだった。荷車を押すのはレイモンドとバジルである。更にその後にアイリーンとモモが続く。
「祝祭の間、天帝の恵みはあらゆる人間に与えられて然るべきでしょう。私は彼らにも祝い酒を振る舞いたいのです」
表からアンバーの声が響いてくる。大パトリア帝国時代の円形闘技場にほぼ顔パスで入場を許可された聖預言者はにこやかに歩みを進めた。
樽に穿った覗き穴からルディアは周囲を確かめる。突然の教主の訪問に捕虜たちは作業の手を止めさせられていた。当直のジーアン兵を集めてアンバーがありがたい説法を始める。その間にバジルが捕虜を一列に並ばせ、順に酒杯を受け取るように指示をした。レイモンドたちは荷台近辺を死角にするべく壁になる。これで準備完了だ。
戸惑いつつも列は動き出し、二つの酒樽を積んだ荷車に捕虜は一人また一人とやって来た。おずおずと酒を呷る彼らにルディアは小さく呼びかける。
「……おい、お前たち、ドナとヴラシィの水夫だな? 静かに。反応を見せるんじゃない。いいか? 私のところにお前たちのまとめ役を連れてきてほしいんだ」
潜めた声に振り向きかけた男はすぐ列の後方に戻っていった。それから間もなく別の男が酒樽に近づいてくる。
「……ドナのリーバイだ。レイモンドが一緒にいるところを見るに、あんたらアクアレイア人だな?」
顔の広いのがいるおかげで話が早い。そうだと答えてルディアはリーバイに祈りのポーズで留まれと命じた。
「アレイア海はどうなってる? ドナやヴラシィの連中は?」
三十代後半か四十代前半か、リーバイはがっしりした体格とぶれない眼光の持ち主だった。ジーアン兵にやられたのか、額から鼻にかけて剣で切られた痕がある。
「今は女子供と老人が残るばかりだ。安心しろ、全員生きている」
そう答えるとリーバイはほっと安堵の息を漏らした。残してきた者がずっと気がかりだったのだろう。酒樽から離れないのを怪しまれぬために祈るふりをと言ったのに、本当に精霊に感謝を捧げているかに見える。
「そっちのことも教えてくれ。お前たちが建造している海峡の砦はなんだ? ほかにどんなことをさせられている?」
「……ああ、ありゃあ関所だ。狭い海峡だから、完成したら商船から通行料をせしめる気なのさ。今はとにかく建材運びばかりやらされてるよ」
「そうか、関所か」
上手い理由を考えついたなとルディアは感心した。それなら東パトリア側に抗議されても言い逃れできるし、ついでに蓄財もできる。世界最大の貿易港があるだけあって、この海峡は交通量でも世界一なのだ。
「――なあ、アクアレイア政府は何をちんたらやってるんだ? 捕虜の中にはもう何人も死人が出てる。俺たちはあんたらの船の手足だったってのに、このままここにほったらかしておく気かよ?」
投げかけられた悲痛な問いにルディアはうっと喉を詰まらせた。リーバイは険しい目つきで酒樽の穴を睨んでくる。こけた頬と落ちくぼんだ目は言葉以上にアクアレイアを責め立てた。
アレイア海東岸が落ちてもうじき二年だ。援軍も出せず、捕虜交換の交渉も進められずにいる王国に不信感が募っていても仕方ない。
「……すまない」
拳を握ってルディアは詫びた。取るべき対応が取れていない現状については否定も言い訳もできない。彼らの憤りはもっともだった。
「捕虜を買い戻せるようになれば王国はいくらでも出す。どうか信じて待っていてくれ」
見通しもない口約束程度ではリーバイの疑いは晴らせなかったようである。どうだかと言いたげな冷たい視線が返される。
「天帝は海賊じゃねえ。自分の奴隷に値段なんかつけちゃくれねえだろうよ」
「…………」
話は終わったとばかりにリーバイはルディアの前を立ち去った。
無言の巨石に囲まれた闘技場は暗い気分で後にすることになった。
******
「なあ、もうあんま気にすんなって。あいつらだって自分の家に帰れたらまたアクアレイア人と一緒にやってってくれるって」
「そうよ、落ち込むことないわ。差し入れだって喜んでくれてたじゃない」
「ああ、我が君に今すぐ彼らを解放するよう願い出る方法があれば……!」
肩越しに投げかけられる三者三様の慰めにルディアはふうと嘆息する。「誰も気落ちなどしていない」と後方の面々を睨むも信じる者はいなかった。モモやバジルら年少組も気遣わしげに両隣から覗き込んでくる。
「まあ落ち込んでたってしょうがないもんねー。折角お祭りやってるんだし、その辺で気分転換するのがいいんじゃない?」
「僕もモモに賛成です! さっき大きな隊商がバオゾに着いたみたいですよ。皆で掘り出し物でも探してみません? きっと楽しいと思うので!」
荷車を片付け、中心部に戻ってきたルディアたちは日ごとに賑わう大通りを歩いていた。バオゾはそれほど商業規模は大きくなかったはずなのだが、天帝がいるというだけで経済が活性化しつつあるらしい。実に羨ましい話だ。
「ああっ! やっぱり露店が増えてます! わあああ!? あれはミョウバンだあああ!?」
「ミョウバンですって!?!? ばば、バジル君どこ!? それは一体どこのお店!?」
「おやおや、アイリーンまでそんなに興奮して。はぐれてはいけませんよ」
聖預言者の注意を聞くのもそこそこに弓兵たちが走り出す。好奇心いっぱいの二人は瞬く間に人混みの中に消えていった。
露店は雑然としているようで、きちんと住み分けられているようだ。祖国の大運河でもワイン河岸や香辛料河岸、織物河岸があるのと同じに、扱う商品の種類に応じてエリアが分かれているらしい。
「今日の人出はまた凄まじいな」
多少辟易しながら呟く。人が多いだけならまだしも、店先で急に屈んだり、大道芸を見物するのに立ち止まったりする者がいてなかなか前へ進めない。中でも特に鬱陶しいのは先程からずっと道幅を狭めている謎の長蛇の列だった。
「私の説法に並ぶ人と同じくらいの数ですね。一体なんの行列でしょう?」
アンバーの呈した疑問はすぐ解けた。ちょうどそのとき前方からはしゃぎにはしゃいだラオタオが小躍りしつつ駆けてきたからだ。
「ハイちゃんハイちゃんハイちゃーん! 見てよこれ! 俺ってすっげー男前じゃない!?」
狐顔の青年将軍が掲げてみせたのは亜麻紙に黒いインクで描かれた彼の肖像だった。サインを見ずとも誰の作かはすぐ知れる。今この街に画家は一人しかいない。
「三ヤン出せばコナーがなんでも描いてくれるんだ! すごいぞ、あいつ魔法の腕の持ち主だ! 馬なんか本当に生きてるみたいでさ!」
ラオタオは興奮しきってコナーがいかにさらさらと筆を走らせるか熱弁した。この様子だと彼はすっかり師のファンになったようだ。
「ヴラシィに帰ったらどこに飾ろっかなあ! 楽しみだなあ!」
「ふふふ、良かったですねえ」
狐の話に耳をくすぐられたのがレイモンドだった。「なあなあ、俺たちも先生の様子見にいかね?」と槍兵はルディアの肩をつついてくる。
「お前は絵に金を払うタイプの人間ではないだろう」
「いいんだよ! 見るのはタダなんだから!」
「私も天才画伯の実演販売には興味ありますね」
「うんうん! あれはハイちゃんも一度見ておくべきだ!」
なぜかラオタオも輪に混じり、行こう行こうと背を押してくる。ミョウバンを仕入れ終わって大満足のバジルたちとも合流し、ルディアは行列の先頭へと向かった。
「ほら、あそこ! あそこに大先生が座ってるぞ!」
「そんなに大きな声で叫ばなくても見えていますよ、ラオタオ」
苦笑するアンバーの傍らでルディアは狐の人差し指が示すほうを見やる。
こじんまりした噴水広場で列は終わりになっていた。人垣の迫る中、水辺の縁に腰かけた黒髪の画家が紙にペンを走らせている。ささっと見物人に紛れたレイモンドに一歩遅れてルディアも師に近づいた。
「……!」
コナーの神業は子供の頃から目にしてきたが、その腕前は更に人並み外れたものになったようだ。
インク壺に浸された鵞ペンが乳白色の紙に触れるや否や、人物、動物、風景が迷いなく描き出される。走り回る子供らや風にそよぐ木々でさえ一瞬の姿を正確に写し取られた。境界の曖昧な青空と薄雲、雨に濡れた石畳、虹を映した水溜まり、嵐の夜の海でさえ師は黒一色で描き上げる。
この人には世界がどんな風に見えているのだろう? まったく不思議で仕方ない。
「はー、すげーな。最初に世界を創った神様ってきっと芸術家だぜ」
レイモンドにしては詩的な感想にルディアは小さく胸震わせた。
圧倒的な才能を前にすると頭も心も飽和する。己が単純化されるというか、余計な言葉を失くすというか、ぽかんと口を開けている連中と大差ない、ただの一人の人間にさせられるのだ。嫌いな感覚ではないが隙だらけなのは確かである。立場上そうぼんやりとしているわけにいかないのだが。
頬を掻きつつルディアは苦笑いを浮かべた。どんなときも王族である自分を忘れぬつもりだったのに、すっかりコナーにしてやられた。
やはり師は天賦の才の持ち主だ。細やかに世界を構築するペンから片時も目を離せない。
「おお、素晴らしい。そうです、我々はこんな焚火に夜を守ってもらっているのです……!」
行商人らしき肥えた男が受け取った絵を懐に収め、何度もコナーに礼を言う。彼は画家に優しい炎を描いてほしいと頼んでいたようだった。
「いや、いいものを頂戴しました。これは家宝にしなくては」
「そんな大げさな。しかしお気に召したなら私も幸いだ」
「お代は三ヤンでしたかな。あいにく今現金の持ち合わせがございませんで、支払いは商品でさせていただいても?」
「ええ、結構。三ヤンの価値あるものならば」
コナーの返答ににこりと笑み、ターバンで縮れ毛を巻いた商人は担いでいた皮の袋からボロ布で厳重にくるんだ何かを取り出した。
割れ物らしいがなんだろう。脇から数人と覗き込むも、男はなかなか品名を明かさない。
「お集まりの皆様にも是非ご覧いただきたい! この大地と熱の育んだ奇跡の逸品を!」
商人は高らかにそう叫び、大仰に包みを持ち上げた。どうやら彼はこの場でパフォーマンスをしたいらしい。コナー人気に乗っかって売り物を宣伝しようとは見上げた商売人根性である。その思惑に見事に釣られ、順番待ちの人々がなんだなんだと首を伸ばした。
「これは本当にいい品ですよ! きっと先生もびっくりなさると思います!」
煽りに煽って注目を集めると商人は梱包を引っぺがす。予言は見事的中し、噴水広場には驚嘆の叫びが轟いた。――ただしそれはコナーではなくバジルの叫び声だったが。
「うわああああああー! なな、なんて透明度の高いガラス! ちょっ、えっ、向こうの景色が完全に透けてるじゃないですか! こ、これはどこの名うての職人がどうやって作ったもので!?」
「えっ? へっ?」
「ああっ! すみません、興奮しすぎてアレイア語で話しかけてました! つ、つかぬことを伺いますがこの美しいガラスの器はどういった経緯で入手されたので!?!?」
凄まじい勢いで食いつく異国の少年に行商人が後ずさりする。血走った目に危機感を覚えたか、男は笑顔で弓兵をなだめつつじりじりと距離を取った。
「あ、ええと、悪いが産地は内緒なんだ。流通する前に技術を盗まれちゃいけないからね」
「くうッ! そりゃそうでしょう! これだけ透き通ったガラスの製造法ですもん、秘密だってしょうがない! それじゃちなみになんですが、その皮袋の中身ってもしかして全部同じガラスです? 僕一番大きいのと一番小さいのが欲しいんですけど代金おいくらなんでしょう!?」
「え、えーと、一番小さいのがこの杯だね。それから一番大きいのはこの箱だ。だけど悪いがお坊ちゃんには三ヤン程度じゃ売れないぞ。こちらの画家先生は偉い人たちにこいつの良さを広めてくれそうだし、この絵も三ヤンごときではないと思ってお渡しするんだからな」
「えっ……!? それじゃ本来は三ヤンよりもっと……!?」
「ああ、小さいのが五十ヤン、大きいのが二百八十ヤンというところだな」
「に、二百八十ヤン!?!?」
卒倒しかけたバジルの首をレイモンドががしっと掴む。あまりの額に弓兵はぶくぶくと泡を吹いた。
ヤンとは遊牧民の財産である羊を示すジーアン古語で、同国の通貨の一種である。花嫁を迎える際、花婿の用意すべき羊の数が約百頭だと言われている。ウェルス幣で支払うにしても二十万は用意しなければならないだろう。それは防衛隊の昨年の年収とほぼ同等の金額だった。
「う、うう、僕ミノア島で砂糖をしこたま買い込んでしまって……ついさっきも大量のミョウバンを……っ」
「金がなきゃ商品は売れないよ。悪いがまたの機会に頼むね」
行商人に背を向けられ、絶望顔でバジルはその場に崩れ落ちた。せめて安いほうの杯だけでもなんとかしようと弓兵はレイモンドに借金を申し込み、当然のごとく「やだよ」と首を振られている。
「ふむ、合計三百三十ヤンねえ。そのくらいの資金不足なら稼げばいいのではないかな?」
と、ペンを振るいつつコナーがバジルを振り返った。
「か、稼ぐったって先生みたいにはいきませんよ。僕に描けるのなんて設計図くらいですもん」
「何も君が現金を得る必要はない。三百三十ヤンになりそうなものをあの男にくれてやればいいのさ」
「ぶ、物々交換できるならしたいですけど、そこまで高価なものは今……」
「おや、弱気なことを言うんだね。価値とは創造するものだよ。あのガラスを手に入れるついでに、君にどんなことができるのか私に見せてくれたまえ」
そう言うとコナーはバジルに出来上がった絵を差し出した。描かれているのはゴンドラを漕ぐ少年だ。探究心に満ちた瞳が櫂の先の潟湖をじっと見つめている。
「私の絵だって亜麻紙と黒インクでしかないわけだが?」
瞬間、弓兵は弾かれたように顔を上げた。
「……! あ、あの、アイリーンさん、この辺りで端材の買えるお店ってあります!? できたら菩提樹とかの加工しやすい木がいいんですけど!」
「え、ええ。バオゾのお店なら大体案内できると思うけど……」
何か思いついたらしい少年がアイリーンに問いかける。弓兵は彼女を連れて足早に噴水広場を去っていった。
二人が戻ってきたのはコナーがまた数枚の絵を完成させた頃である。両腕に短い木切れを抱えた彼らは噴水脇に陣取ると、そこで何やら不可解な物作りを始めたのだった。
――道具はナイフとヤスリとキリ。削り出されたパーツは鵞ペンサイズの棒と薄板。棒は丸串にせねばならないようで、アイリーンがヤスリで必死に角を落としている。バジルのほうは細く薄い板切れに刃を当てて中ほどから先端を削ぎ、シンプルな点対称の加工を施していた。
「それはなんの道具になるんだ?」
「うーん、いずれは道具にするつもりですが、今はまだ玩具ですかねえ」
質問に答える気があるのかないのか弓兵はちらりとも顔を上げない。邪魔をしては悪いかとルディアも一歩引っ込んだ。
慣れた手つきのヤスリがけだ。木肌はたちまち滑らかになる。それが終わると薄板の中央に小さな穴が穿たれた。
「アイリーンさん、できましたか?」
「ええ、こんなので良かったかしら」
仕上げにバジルは受け取った丸串を丸穴にグイッと押し込む。完成したのはよくわからないT字型の木製品だ。後ろでモモが「それって前に作ってくれたトンボじゃない!?」と手を打った。
「よーし、見ててくださいよ! おーい、ガラス売りの行商人さーん!」
お目当ての人物を振り向かせるとバジルは両手にトンボとやらを挟み込む。
聞いたこともないブウンという風切り音が響いたのはその直後だ。鳥や虫のほかに空を飛ぶものを見たのはルディアもこれが初めてだった。
「なんだい、誰か呼んだかい……ってええ!? えええー!?」
少年の手を離れ、トンボは既に天高く舞い上がっている。広場にはどよめきが走った。あれはなんだ、なんの鳥だと遠くの人々が指を差す。
「ほう、面白い! 何からヒントを得てこしらえた作品だい?」
コナーまでもがペンを置き、バジルに解説を求めた。照れくさそうに弓兵は玩具について語り出す。
「いやー、実はご婦人用の、あまり力を入れずに漕げる櫂を開発したいなあと試行錯誤してた時期がありまして……」
滞空時間を過ぎたトンボは広場の隅に落っこちた。「ごめんよ、ごめんよ!」とざわめく人混みを突っ切ってレイモンドが回収に走る。
「よく見せてもらえるかな? ふむ、上部は二本の櫂を逆さまにくっつけた形か。だがゴンドラやガレー船の櫂とは形が異なるようだ。これは一体……」
「あ、水を押し掻いて進むんじゃなく、水を練り掻いて進む設計だったんです。ちょっと操作が難しくて実用化には至らなかったんですけど」
「なるほど。しかし水に対して使用する櫂をよく空に飛ばそうと思ったね?」
「それはですね、強い風って身体を押してくるじゃないですか。押してくるということは、逆にこっちも風や空気を押し返せるんじゃないかなと考えて」
「ふむ、つまりこの玩具は、回転している間は空気を下に押すことで上向きの力を得ているわけか」
二人の会話についていける者はいなかった。「どういうことだ?」と忍び声でアイリーンに尋ねてみるが「私は生物系だから……」と遠くに目を逸らされる。
「さ、さっきのお坊ちゃん! 今のはなんだね!?」
と、正気に戻った行商人がバジルの側へ駆け寄ってきた。コナーの絵や透明ガラスに見とれていた人々も「あれは売り物なのかな?」と弓兵の一言一句に耳をそばだてている。取引の主導権はもはや彼のものであった。
「――作り方、あなたにだけ教えるのでガラス譲ってもらってもいいです?」
行商人は一も二もなく頷いた。バジルの完全勝利だった。
「やったーッ! ああ……、このガラスを溶かして再利用すればもっと精度の高いレンズが作れる……! はあはあ、汗掻いてきました。嬉しいなあ!」
受け取った宝物を大事にしまい、バジルは荷袋に頬擦りする。そんな弓兵にレイモンドが「あれって金になるような玩具だったの? 一個でいいし俺にも作ってくんねー?」と擦り寄っていた。
そのときである。ゆったりと大きな拍手が噴水広場に響いたのは。
「さすがは我が弟の連れ帰った客人だ。興味深いものを見せてくれる」
振り向けばルディアたちのほぼ真後ろに黒馬に跨った天帝が佇んでいた。
平民たちは即座に地面に額をつける。防衛隊も全員片膝で頭を垂れた。
「そこの三つ編み、名前は?」
「……! ば、バジルです。バジル・グリーンウッドと」
「バジルだな。覚えておこう。お前の遊び道具は坂の上からも楽しめた」
「……!」
思わぬ形で得た好感にルディアは内心拳を握った。「俺もバジル君のこと覚えちゃお!」とラオタオまで釣れてくれる。
「あ、ありがとうございます! 光栄です!」
恐縮するバジルにヘウンバオスはふっと微笑む。このままアクアレイアにも良い印象を持ってくれれば助かるのだが。
「東パトリアの姫にも見せてやるといい」
――そのひと言で背筋が凍った。天帝宮での出来事はすべて彼に漏れているのではないのかと。
(……あまり危険な動きはできそうにないな)
今回はドナとヴラシィの捕虜に接触する以上の真似をするつもりはなかったが、今一度肝に銘じておくべきか。焦りと油断は禁物だ。
ヘウンバオスは手綱を握ると宮殿方面に引き返していった。立ち去ってなお息が詰まるほどの威圧感を残して。




