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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第2章 姫は騎士に出会う
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第2章 その3

 一夜明けると祝祭ムードに包まれた街の光景は昨日のそれと一変していた。

 平べったい家々の屋根から屋根に赤青二色の三角旗が垂れ下がり、男も女も華やかな縞模様のチュニック姿で歩いている。路傍は行商人の露店にみっちりと埋め尽され、馬は種類や大小を問わず雄々しく飾り立てられていた。流れてくる楽しげな鼓笛の音色も祭りに花を添えている。

 曲がりくねった通りには溢れんばかりの人、人、人。昨日の倍は増えた気がする。きっと各地から大勢の巡礼が訪れているのだろう。この国の民にとって君主の誕生日はバオス教の宗教行事でもあるのだ。


「あっ、ハイランバオス様だ!」


 子供の声にルディアたちは混み合う坂で足を止めた。まだ天帝宮を出て五分もしていないのに、たちまちアンバーが目聡い少年少女らに囲まれる。


「遠くの国に行っておられたんでしょう? おかえりなさいませ!」

「お姿を拝見できて嬉しいです!」

「ねえねえ、ハイランバオス様はどんなところに行ってたの?」

「うわあ! 聞きたい! 聞きたい!」

「こら、お前ら! 今日は祭りの初日なんだから厳かにいかなきゃだろ!」

「ええーっ、もう、あんたっていつもくそ真面目ねえ」

「だったらお祭りらしいお話をしていただこうよ! ハイランバオス様のお話なら僕なんでも大好きだし!」

「お話! お話!」

「おやおや」


 大合唱でせがまれたアンバーが傍らのルディアを見やった。どうやら彼女は教祖として子供らの期待に応えてやるつもりらしい。「いいですか?」と尋ねる視線に仕方ないなと黙って頷く。


「おい、ハイランバオス様が説法をなさるみたいだぞ!」

「どけどけ! 邪魔だ邪魔だ!」


 こうなると大人たちも放ってはおかなかった。遠目に様子を見ていた一団があれよと言う間に人間バリケードに変わる。押し寄せた信者の突進で防衛隊は危うく潰されるところだった。


「うーん。それでは今日は神々の歴史を簡単におさらいしましょうか」


 ここでもアンバーに疑いを持つ者はいない。演技が板につきすぎて同化したのかと思うほどだ。アイリーンなど早くも「ううっ、ハイランバオス様……!」と嗚咽を上げている。


「歴史ってどこからー?」

「初めからですよ。一年に一度くらいは我々も物事の起こりというものを胸に刻み直さなくてはでしょう」


 うんうんと人垣の一角で老人たちが頷いた。手を合わせてありがたがる彼らを見ていると本当に妙な街だなという思いが膨らんでくる。バオゾの街並みは典型的な東パトリア帝国のものなのに、人々は心から天帝一族を敬い、慕い、何十年もジーアンの一部だったように映る。

 実際のところ、バオゾはヘウンバオス統治下に入ってまだ五年だった。このわずかな期間で彼らはすっかりバオス教に染まっているのである。天帝の巧みな宗教統合によって。


「――うんと昔のお話です。世界には今とは違う古い神々が住んでいました。けれどこの神々は、長い年月が過ぎるうちに力を失くし、滅びて大地になってしまいました……」


 集まった聴衆は聖預言者の言葉に耳を傾ける。新しい考え方に染まりやすい子供だけでなく、年配の者も同じように。

 ルディアの耳にさえハイランバオスの穏やかな声はよく馴染んだ。アンバーが話しているのは草原の騎馬民族しか信じていない狭い範囲の神話ではなく、パトリア世界に広く知られた創世記だったからだ。


「古い神々が聖櫃(アーク)を残して消えた後、空と海にはまた新しい神々が生じました。この神々には良いものも悪いものもいて、彼らは頻繁に争いを繰り返しておりました。

 そのうちに力をつけた一柱の男神がほかの精霊を束ねるようになったのです。彼こそが主神パテル。大陸各地で祀られるパトリア十二神の長であり、今この世界を支配する神――。皆さん、ここまではよろしいですね?」


 問われた人々は神妙に頷く。レイモンドまでこくこくと頷くのにルディアは秘かに頭を抱えた。

 アンバーの語った伝説がいわゆる「パトリア神話」である。昔は西パトリアでも東パトリアでもこの神々が同じように信仰されていた。三百五十年ほど前、大パトリア帝国が分裂するに至るまでは。


「十二神、特に主神と四大精霊は強い神々として崇められてきました。けれどいつも時代は過ぎ去るものなのです。あるとき砂漠から来た男が言いました。『私は次の時代の神に遣わされた預言者だ』『その神は偉大な男の肉体に宿り、大軍を率いてパトリアの神々を滅ぼすだろう』と」


 さなぎの中で目覚めを待つその神はヌルと呼ばれた。ヌル教は瞬く間に東方に広まり、やがて独立を宣言した東パトリア帝国の国教となった。西パトリアは絶縁状を叩きつけられたも同然であった。

 だが話はそれだけでは終わらない。大帝国を真っ二つにしたヌル教は、今度は東パトリア帝国を割ったのだ。ヌルの預言者は後継者を指名しないで死んでしまった。誰が信者を導くべきか、副教主派と嫡男派は揉めに揉めた。

 そこに東パトリア皇帝がしゃしゃり出てきて事態を更に悪化させた。民衆に支持された副教主派と、皇帝の保護した嫡男派は南北に分かれていがみ合った。泥沼の内紛は三百年の長きに及び、強大だった東パトリア帝国をじわじわ疲弊させたのである。

 ヘウンバオスが食えないのはこのヌル教に目をつけたことだ。「神は東方より来たる」という預言を利用し、あの男は剣さえ交えず東パトリアの半分を手に入れてしまったのだ。


「あなた方がヌルと呼ぶ神は我らの君にほかなりません! さあ、聖なる祈りを捧げましょう! 万物の頂点に立つことを約束されたあの方に!」


 感じ入って指を組む人々をルディアはちらりと盗み見る。

 ヘウンバオスはヌル教幹部を抱き込んで領地ばかりか威光まで獲得したわけだ。副教主派の街はみな喜んで彼に門を開き、自ら東パトリア帝国を捨てたという。ただの戦上手のやり方とは思えなかった。

 出し抜くのはやはり難しいかもしれない。ラオタオのように船を舐めきってくれていればまだやりようもあるけれど、下手な期待は捨てたほうが良さそうだ。ヘウンバオスは世界中の船が集うノウァパトリアを前にしてなお海に欲を示さぬ曲者なのだ。――心得ているのだろう。己の配下が騎馬民族であることを。

 あの男はおそらく意図的に支配地域から船を排除している。半ば放棄された天帝宮にしても話は同じだ。船より馬を、石の城より布の住いを。そうやって帝国を支える騎馬兵に、特権階級はお前たちだと示してやっているのである。統制された軍力は船の利便に勝ると断じて。


(私の思い過ごしならいいんだがな)


 ルディアは目だけで天帝宮を振り返る。

 この恵まれた海峡に首都を置きながら海洋進出を考えないなど有り得ない。有り得ないが、その理由が鉄の軍団を維持するためなら納得できた。


(ヘウンバオスの考えが私の想像する通りなら、当面ジーアン帝国は自前の船を持とうとはしないはずだ)


 唯一その一点にアクアレイアの掴めそうな希望がある。天帝とて船が欲しくないわけではないだろう。ゆくゆくは主要な海運国のどこかと同盟を結ぼうとするはずだ。名乗り出る準備はしておくべきである。いつまでも敵でいるにはジーアンは強すぎる。


「祈りは捧げ終わりましたか? では私は客人をもてなさなければなりませんので、今日はこれで」


 説法は終わったようだった。ルディアたちは再び、人波を掻き分けて往来に踏み出した。









「ああっハイランバオス様!? やっとバオゾにお戻りに!?」

「ハイランバオス様! うちの娘に赤ん坊が生まれたんです! 是非とも顔を見てやってください!」

「ハイランバオス様! この笛お渡ししたかったんです! ハイランバオス様のために魂をこめて作ったんですよ!」


 その後もバオゾの調査は一向に進まなかった。聖預言者が予想以上の人気者で、一人の相手が終わるや否やまた一人、あるいは数人のグループが息つく暇もなく行く手を阻んできたからだ。


「ハイランバオス様、今から聖堂で結婚式があるんです! どうか祝福の花を撒いてはくださいませんか?」


 やっと波が過ぎたと思ったらまたも新たな信者の声に呼び止められる。いい加減うんざりしてきたルディアに「あなたたちだけで行ったほうが早いかも」とアイリーンが耳打ちした。


「そうだな。『ハイランバオス殿』に同行していただく必要のある場所はピックアップするだけにしておくか。アイリーン、こっちはお前に任せていいか?」

「ええ、片時も離れないわ。だって笑顔を振りまくハイランバオス様、とても素敵なんだもの! ウッ……」

「こんな人混みで泣き出すな! なんでお前はすぐに感極まるんだ!」


 本当に、アンバーよりも彼女のほうが心配だ。だがこれ以上無駄にしている時間はない。一旦ここで二人とは別れることにしてルディアたちは空いた脇道に避難した。


「予定より遅れたが、昨日話していた通りだ。可能な限り情報収集を行うぞ」

「ねえねえ、モモお腹減ったんだけどー」

「それじゃ最初は市場のほうへ抜けましょうか。多分ここをまっすぐに行けば着きますよ」

「うーん、わくわくしてきたぜ! 飯食ったらいよいよバオゾ探検だな!」

「だから探検ではないと言っているだろう!」

「――なあ皆、少しいいか?」


 と、歩き出した面々をアルフレッドが引き留める。一体なんだと振り向けば騎士は背後の天帝宮を仰ぎつつ「あの二人とは別行動ならアニーク姫も誘って差し上げられないかな?」などと寝ぼけたことを問うてきた。


「……お前までどうした? 遊びにきたんじゃないんだぞ?」

「いや、それは承知している。だが帰ってからだと皇女を訪ねるのが遅くなるし、暗い中でお会いするのはさすがに憚られるというか……」


 もごもごとアルフレッドが言いよどむ。ああなんだ、そういうことかと合点した。

 迂闊に話し相手になるなんて約束をしたせいでこの馬鹿は日中の己の時間を割いてやらねばならなくなったのだ。考えなしの愚か者め。天帝宮に戻るのはどれだけ早くても夕方なのに。


「なんならお前だけ城に戻るか?」

「えっ」


 ルディアの問いに騎士はややうろたえた。そこまでの便宜は求めていないという顔だ。が、これは思惑あっての提案である。いいから聞けと話を続ける。


「あんな女でも一応は東パトリアの皇女だからな。恩を売っておいて損はあるまい。私では相性が悪すぎるし、お前がやってくれると助かる」

「だ、だがバオゾで予定していた活動は?」


 アルフレッドはまだ少し気が引けるようだった。そんな彼にルディアは極力穏便に言って聞かせる。


「情報収集は我々だけでも可能だが、あれの相手はお前でなくては務まらん。辛抱強く、誠実にだぞ? レイモンドやモモにできると思うか?」

「た、確かに……」

「こらこらこらー!」

「確かにじゃないでしょ、アル兄!」


 騒ぐ二人を手で制し、ルディアは赤髪の騎士に命じた。


「アニーク姫に関してはお前に一任する。手懐けて味方につけろ。以上だ」


 期待していると付け加えればアルフレッドの目つきが変わる。そうそう、彼にはこういう言い回しをしてやればいいのだ。お前に与えられた任務は特別で、きちんと意味のあることなのだぞと。


「わかった。やってみよう」


 ほら、しっかり乗り気になった。大丈夫だ。


(海賊と一戦交えた後のこいつは雨に打たれた捨て犬みたいだったからな)


 力強く来た道を引き返していく騎士の後ろ姿を見やってルディアはほっと息をついた。どうやら同じ失敗は繰り返さずに済んだようだ。

 少々意外な気もするが、アルフレッドは防衛隊の中で一番自己顕示欲が強い。泣き言こそ口にしないものの、扱い方を間違えると痛ましい目でこちらに何か訴えてくる。ルディアにもだんだんとわかってきた。


(隊長としての権限を奪っているぶん少しは立ててやらんとな)


 もしかするとアニークから思わぬ話を聞き出せるかもしれないし、騎士には別枠で頑張ってもらうとしよう。





 四人になった防衛隊は市場で軽食を摘まんだ後、バジルお手製地図を片手にバオゾの街を巡り歩いた。二人きりの天帝宮で皇女たちがどんな風に過ごしていたか思い馳せることもなく。

 やるべき仕事は山積みだった。三歩も歩けば程度の低い女のことなど頭から抜け落ちていた。




 ******




 ――お父様、私イヤです! どうして私がヘウンバオスのところへ行かねばならないの!?

 ――アニーク、わがままを言わないでおくれ。人質は皇族に限ると脅されているのだよ。

 ――それなら皇子でも構わないではありませんか! 継承順位を考えたっておかしいわ!

 ――皇子は駄目だ。妃が天帝には渡したくないと言っておる。せめてお前が新しい母上と上手くやってくれていればなあ……。


 そんなと嘆くアニークに父は残念そうに告げた。バオゾへ行っても達者でなと。泣いても喚いても仮病を使っても決定は覆らず、やって来た迎えの馬車に押し込められて。

 酷いわ、酷いわ。これが血を分けた娘に対する仕打ちなの。お父様は私よりあの女が大事なのね。お母様が生きていた頃、お父様はあんなにお優しかったのに。私の思い通りにならないことなど何一つなかったのに。

 恐ろしい男たちに何をされるかわからないわ。どうして私だけがこんな目に遭わなければならないの。


 ――良かったな。私は阿呆には興味ない。


 冷笑が耳に甦る。豚のほうが食べられるだけまだ有用だと嘲った男の。


 ――一応生かしておいてやるが、今後は身をわきまえるのだぞ。お前ごときに側仕えなど贅沢だ。もっと相応しい環境で暮らすといい。


 待ってと頼んだが無駄だった。侍女の代わりに必死で詫びたがヘウンバオスは聞き入れてくれなかった。

 アニークに待っていたのは美しい天帝宮での野獣同然の生活だ。面倒を見てくれる者がいるだけ家畜のほうがまだましな。


(あんなところに洗濯物を干したのは私じゃないのよ。それなのになぜこんなことになってしまうの?)


 私が悪かったんじゃないわ。私は何もしていないわ。

 何もしていないのに罰を受けなきゃいけないの? そんなのはおかしいじゃない。


「……姫! アニーク姫!」


 うるさいわね、大きな声で怒鳴らないで。誰もわかってくれなくて私は落ち込んでいるんだから。


「アニーク姫! 聞こえますか!?」


 ああうるさい。早くすべてが上手く行っていた頃に戻りたい。大それたことは望んでいないの。ただ皇女らしく大切に扱われたいだけ。それだけなのよ。それだけなのに。


「アニーク姫、しっかりなさってください!」


 何よ、一体誰なのよ。私を笑い者にするつもりならさっさとどこかへ消えてちょうだい――。



「きゃああああッ!?」



 急に身体が宙に浮いたので驚いて目を開いたら、誰かに抱き上げられていた。思わず肩を突き飛ばす。すると弾みで真っ逆さまに転がり落ち、自分のほうが痛い目を見る羽目になった。


「も、申し訳ありません。ご病気で倒れられたのかと思って」


 お詫びの言葉に顔を上げる。見れば中庭の果樹を背景にアルフレッドが尻餅をついていた。すぐさま騎士は起き上がり、アニークに優しく手を差し伸べてくる。


「眠っておられただけでしたか?」


 問いかけにアニークは靄のかかった記憶を探った。


「ええと……。確かお腹が空いたから果物を取りにきて、そうしたら気が遠くなってしまって……」


 答えると赤髪の騎士は苦笑混じりの溜め息をつく。


「毎日こんなものしか召し上がってないからですよ。外で色々買ってきましたから、どれでもお好きなものをお食べください」


 言われてアニークは盆に載ったチャイやシミット、クンピールに気がついた。チーズのかかったふわふわのピデに揚げキョフテまである。


「ま、まあ……! 買ってきてくれたの!? いただきます!」


 アニークは目を輝かせ、地べたに座って祭り料理を頬張った。はしたなくもチャイはがぶ飲み、甘いシミットはひと口でぺろり、ご飯もののクンピールはがつがつと掻き込んでしまう。揚げキョフテに詰まった熱々の挽肉は味も濃厚で絶品だった。長く持ちそうなパン生地のピデは大切に布に包んでおく。こうしておけば明日も舌を慰められるというものだ。



「ありがとう、アルフレッド! ああ、やっぱりあなたは頼れる騎士だったわ。久しぶりに生き返った心地よ」

「お褒めに預かり光栄です。アニーク姫がお力を取り戻されて安心しました。やはり体力が衰えていては何もできませんからね」

「ええ、本当に! 今ならこの宮殿中を駆け回れそう!」

「それは頼もしい。でしたらさっそくそうしましょうか!」


 えっとアニークは笑顔のまま固まった。アルフレッドの言わんとすることが理解できずに。

 今からこの宮殿中を駆け回る? まさかとは思うがそう言ったのか? 彼のノウァパトリア語は綺麗で聞き取りやすいけれど、何か聞き間違えてしまっただろうか。


「実はですね、昨日は俺たちもこの天帝宮を隅から隅まで回ってみたんです。そのとき地下に使用人部屋を見つけまして」

「え、ええと、アルフレッド……?」

「俺たちは十日ほどしか滞在しませんが、あなたはいつ東パトリア帝国に帰国できるかわからないわけでしょう?」

「そ、そうだけど……」

「なのでせめてバオゾにいる間、アニーク姫がひと通り家事をこなせるようになるためのお手伝いをさせていただこうかなと!」


 咄嗟に身を引いたアニークの逃げ道を塞ぐようにアルフレッドが回り込んだ。首を横に振り「お、皇女に必要な技能かしら?」と問うてみるが騎士の態度は変わらない。


「ノウァパトリアに戻られた後のあなたではなく、今ここにいるあなたの役に立つ技能です」


 大真面目に言い切られ、そうじゃないでしょと更に激しく首を振る。


「あ、あなたが私をアクアレイアに連れ帰って保護してくれれば私が小間使いの真似事なんてする必要は」

「えっ? それは昨日不可能だと申し上げたはずですよ?」

「でも私、ムリって言うかイヤって言うか」

「要は慣れです。さあ、まずはこの空いた器を洗うところから始めましょう! もう計画は立ててあります。明日は洗濯、明後日は掃除、明々後日は魚釣り、それから鶏のくびり方、基本の調理、火の始末、怪我や病気の応急処置、まあざっとこのくらいは覚えていただきますので」

「ヒッ!? 鶏のくびり方!?」

「大丈夫、俺の妹なんて七つになる前からやっています!」

「大丈夫じゃない! 全然大丈夫じゃないわ!」


 アニークはこの日、アルフレッドの融通の利かなさを嫌というほど思い知ることになった。井戸水の汲み上げ方から皿を並べる順番まで事細かく指南され、なぜそのように行うのかという理由まで叩き込まれる。手順を間違えたときは容赦なくやり直しを命じられた。天帝よりも恐ろしいと震えたほどだ。

 ――それから数日、アニークには地獄の試練が続いたのだった。




 ******




 夜になり、街での下調べを終えて天帝宮に戻ったルディアはアルフレッドの報告を聞いてもんどりうった。抱腹絶倒なんてものではない。腹筋をつるかと思った。まさか東パトリア帝国の姫に新入隊員と同等の指導を試みるなんて、近年稀に見る斬新な擦り寄りではないか。


「……あれ? もしかして失礼だったか?」

「いや、あの女にはいい薬だ。どんどんやってくれ」


 まだ痛い腹を擦ってルディアはぷるぷる肩を震わせる。アニークがどんな顔で皿を洗ったか想像しただけで笑いをぶり返しそうだった。そんな面白いことになっていたなら一度くらい宮殿に寄っても良かったかもしれない。


「さっすがアルだな。予想を上回る展開だぜ」

「僕なら皇女様の愚痴を聞き続けてストレス溜め込んで一日終わってるところですね」

「うーん、そういうとこ軍人家系なんだよねー。モモもだけど」


 紅色の会議室はしばし感嘆の声に満たされた。永遠に笑っていられそうだがアニークの件は所詮些末事だ。さっさと打ち切って本題に移る。


「こちらの成果も伝えておこう。地図は七割方埋まった。バオゾは二重構造の街らしいな。外縁部には地元の者しか出入りできないようだったから、明日はアイリーンたちにもついてきてもらう予定だ」

「そうか。ジーアン兵に怪しまれないようにくれぐれも気をつけてくれ」

「ああ、何か聞かれても『ハイランバオス殿の付き添いだ』で押し通すさ」


 当初想定した以上にアンバーは上手く立ち回ってくれていた。この調子なら最後までジーアンを騙し通せそうである。まさか肉体に別人が入り込んでいるなど誰も考えはしないだろうが。

 ルディアのときもそうだった。違和感を持たれても「ブルーノ、なんか性格変わったな」で済まされていた。異文化に触れて帰ってきたハイランバオスに多少の変化があったところで取り沙汰する者はいまい。


「アルフレッド、アニークから天帝の話を聞き出しておいてくれるか?」


 一つだけルディアは騎士に頼み事をした。役に立ちそうもない女だが、長くバオゾに留められているのは事実だ。ヘウンバオスが皇女のことをどう考えているのかは明らかにしておくべきだろう。


「天帝の? どんな話だ?」


 尋ね返したアルフレッドに端的に答える。


「今までどんな声をかけられたか、宗派を改めるよう勧められたか、国に戻る条件を提示されはしなかったか。まあそんなところだな」


 赤髪の騎士は「わかった。それとなく聞いてみる」と頷いた。

 囲い込んでいるということは天帝にもアニークを利用する気はあるはずだ。ろくに構っていないところを見るに人質の使い道を決めかねてはいそうだが、凡人以下でも皇女は皇女、警戒するに越したことはない。





 バオゾでの二日目はこうして平和に過ぎていった。

 大きな進展が訪れたのは四日後のことである。――ドナとヴラシィの男たちが見つかったのだ。






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