第2章 その2
かつて栄華を誇った者の落ちぶれた姿ほど惨めなものはない。その辺の村娘だってもう少し手入れの行き届いた格好をしているだろうに、十年ぶりに再会したアニークは全身よれよれのしおしおだった。
ルディアが彼女と知り合ったのはほんの幼い時分である。東パトリアの皇帝一家が揃って外遊に訪れた際、同い年の姫として遊び相手に任じられたのだ。
アニークがアルフレッドに潤んだ瞳を向けたとき、当時の不愉快な思い出がまざまざと甦った。彼女があまりに昔と変わっていなかったから。
――アクアレイアって水浸しなのね。こんなところ、カエルでもなきゃ住めないわ。
失礼な物言いに何度笑顔が引きつったことか。「カエルが住むのは淡水です」と訂正するのも我慢して小さなルディアはワガママ皇女に付き添った。すると今度は止めるのも聞かず「波に触ってみたい」とゴンドラから落ちたのだ。
――だって、だって、ルディア姫が大丈夫だって言ったのよ。私は悪くないでしょう?
泣きじゃくって虚偽の証言をするアニークにルディアはただただ絶句した。非を押しつけられたというのにしばらく反論もできなかったほどだ。
彼女の自己弁護は実に巧妙なものだった。まず自分がいかに小さく頼りなく守られるべき存在であるかアピールする。「知らなかったの」「できなかったの」は皇女が用いる最強の言い訳だ。次に彼女の傍らに、彼女を導き保護するべき存在がいたと力説する。己の失敗を他者の怠慢にすり替えるわけである。
この理不尽極まりない女はアクアレイアに留まる間、大変な難敵となった。まさか己の弱さを盾にする人間がいるとは思いもよらなかったからだ。
怒りを感じるたびにルディアはアニークを軽蔑した。彼女だけは長じて大器になることはあるまいと確信を重ねた。
が、同時にアニークは有益なアイデアもくれたのである。皇女を真似すれば祖母グレースはルディアを見くびってくれるだろう、と。
直感は正しかった。ぶりっこを学んだルディアに祖母はあっさり騙された。ある意味ルディアは彼女のおかげで生き延びられたわけだけれど――。
「うっ……ひっく……、ごめんなさい、人と会うのが久しぶりで……っ」
アニークが細い指でそっと目尻を拭うのをルディアは冷めた目で見つめた。何はともあれ弱々しさの誇張から入るところは変わらないらしい。世界有数の大都市で育ったくせに、ほかに学ぶことはなかったのだろうか。
「っつーか東パトリアの皇女様がなんだってジーアンの宮殿にいるんだ?」
「レイモンド、忘れたんですか? 二年半前にジーアン帝国が東パトリア帝国と休戦協定を結ぶ条件として人質に出されたんですよ。アクアレイアでも散々話題になったじゃないですか」
「あー、そう言えばそうだっけ」
そう言えばそうだっけ、ではない。ユリシーズの方便にもアニークの名前が使われているのに簡単に失念するなと眉根を寄せる。
そう――、現在アニークはこの天帝宮に囚われの身であった。東パトリアがジーアンと不可侵協定を結んだ際、「皇族の中から人質を差し出せ」と脅されて人身御供に彼女が選ばれたからである。黒い肌の娘より白い肌の後妻を愛した皇帝がこれ幸いと厄介払いしたのだとも言われていた。いずれにせよアニークの天下はとうに終わっている。
「人と会うのが久しぶりってどういうこと? 皇女様ならお付きの侍女がいるんじゃないの?」
モモの疑問にアニークははらはらと涙を溢れさせた。わざとらしい嘘泣きを見ているとつい吹き出しそうになっていけない。この女の言うことを鵜呑みにする気はかけらもないが、一応真面目に聞くふりくらいはしておかねば。
「実は私の侍女たちは、天帝に粗相をしたと言われて突然追い出されたのです。それでもう半年も、私ずっとひとりぼっちで……」
寂しかったと震える声は男たちの同情心を誘った。アルフレッドは「高貴な女性にそんな仕打ちをするなんて」と怒りを露わにしているし、レイモンドも「ひでー話だ!」とぷりぷりしている。頭の出来は良いはずのバジルも妙齢の女に示す反応は単純だった。
「――天帝に粗相? それは宮殿を叩き出されても仕方のない話では?」
噛みついたのはアンバーだ。どこまで己の役に没入しているのやら、瞳孔を開いてアニークを睨みつけている。ジーアン帝国の聖預言者が紛れているのに気づいた皇女は大慌てでかぶりを振った。
「ち、違うんです! 決してあの方に不満があるわけでは!」
「当然でしょう。しかし一方の言い分だけを聞いて判断するのは早計ですね。私は少々席を外して我が君に確かめてまいります。宮殿に供も連れずに皇女がいるのはどういうわけか。さあアイリーン、行きますよ!」
「は、はい! ハイランバオス様!」
いつもながら上手い具合に舞台を整えてくれる女だ。これで中庭に残るのは防衛隊のみとなった。アニークも事情を打ち明けやすくなったはずである。
ルディアが皇女を窺うと、ちらと視線が向けられた。が、彼女はすぐに隣のアルフレッドに目を移す。多分この中で彼が一番親切そうに見えたのだろう。
「騎士様、私をお助けください……! アクアレイアへ戻る船に、どうか私も一緒に乗せてほしいのです……!」
騎士の手を取りアニークが頼み込む。アルフレッドは驚いて目を丸くした。畳みかけるように皇女は己の不遇について語り出す。
「侍女たちを帰されて、私の面倒を見てくれる人間は誰もいなくなってしまいました。ドレスは臭って着られなくなってしまったし、食べ物もここの果実をかじるしかなくて……。私、もっとましな暮らしを送りたいんです! 音楽を楽しんだり、小鳥たちと戯れたり、大好きな物語を読んで過ごした幼い子供の頃みたいに……!」
――もう駄目だった。耐えきれなかった。会ったばかりの人間に亡命幇助を促すわ、骨身に染みついた享楽主義を恥ずかしげもなくひけらかすわ、本当にこの女は。
「あっはっは! 無理に決まっているでしょう! アクアレイアはジーアンと揉め事を起こす気など毛頭ありませんからね。それに我々はルディア姫の直属部隊です。あなたの手助けなどできやしませんよ。親イーグレット王派の皇妃と違い、確かあなたは親グレディ家派でしたよね?」
悪いがほかを当たってくれとルディアは首を横に振った。まさか一介の兵にコケにされるとは思ってもみなかったらしく、ぽかんと間抜け面を晒した皇女はみるみる真っ赤になっていく。
「い、一国の姫が頭を下げているというのに、なんと尊大な!」
「これは失礼。しかし今のあなたに本当に『一国の姫』と言える価値が残っているのでしょうか? 南部の生まれでありながら皇帝の座す北部に尾を振り、母君が亡くなられた途端その北部からも見放される。あなたを持ち上げようとする勢力はあなたを傀儡にしようと狙う国外の貴族だけ。そうでしょう?」
「ぶ、無礼者! 不敬罪で牢獄に繋いでやる!」
「面白いご冗談だ。あなたが命じて動く兵が一体どこにいるんです? 無意味に吠え立てるより今はご自身でできることを探されるのが賢明かと思いますよ。この宮殿に囚われて以来、どうせなんにもしてこなかったんでしょう?」
「……ッ」
冷たいルディアの糾弾にアニークは唇を噛んだ。返答に窮するということは図星だったに違いない。
「ひ、酷い……っ」
お定まりのパターンで彼女はしくしく泣き始める。だがあいにくルディアは涙や責任転嫁に怯む人間ではなかった。むしろ火に油を注ぐだけだ。苛立ちで胸が悪くなる。こんな寝ぼけた女が皇女をやっているなんて。
「わ、私は天帝に命を握られているのよ? それなのに、あの男のすることに逆らえるはずないではないの。ノウァパトリアに帰りたいと思ったって、わ、私には……っ」
馬鹿が。そうやって心まで屈服するから生きたまま道具にされるのだ。自分では何もしようとしない者に誰が力など貸してくれるか。
「おい、ブルーノ。ちょっと言い過ぎだぞ」
いや、嘘だ。一人いた。騎士たるもの女子供には親切にしなければならないとかたくなに信じている大馬鹿が。
「人質としてたった一人で宮殿に取り残されていたなんて、さぞ心細かったに違いない。弱っている女性にそんな言い方をするものじゃ……」
「わかったわかった、私が悪かった」
早々に折れたのは話がくどくど長くなりそうだったからである。まったく、ルディアを叱る男など彼か父くらいのものだ。
「まあ、あなたは私を庇ってくださるの?」
上目遣いのアニークがそっとアルフレッドにしなだれかかる。張り倒したい気分でルディアは皇女を睨みつけた。満更でもなさそうな騎士の表情に余計に腹が立ってくる。
「アクアレイアへお連れするのは不可能ですが、バオゾにいる間、話し相手をさせていただくくらいなら。なんの慰めにもならないかもしれませんが……」
「いえ、いえ、十分です。ああ、誰かの真心に触れるのも久しぶり。私がこの街に連れてこられたときからジーアンの人間は本当に不遜で傲慢で……」
アニークはアルフレッドを泣き落としのターゲットに定めたようだ。そんな皇女の腹の内も知らず、騎士は生真面目に話に耳を傾けている。
(私はさっさと部屋を決めて明日からのことを相談したいと言っておいたはずなんだがな? そうかそうか、そんなにその女を放っておけないか)
チッとルディアは舌打ちした。くそ、面白くない。大体弱りきっているのは私だって同じだぞ。王国の未来を憂い、自ら敵地に乗り込んでいるというのに扱いに差がありすぎないか?
(……普通の男が思い描く『理想の姫』はああいう女なんだろうな……)
己の思考にダメージを食らい、いかんいかんとルディアは左右に頭を振った。
ふん。私だって馬鹿でいられるなら馬鹿でいたかったさ。
******
身を置く場所が決まったのはそれからたっぷり一時間後だった。一階はどこもアニークに荒らされていたため、ルディアたちは二階の大部屋を借り受けることにする。
本当は会議室にでもなる予定だったのか、室内の調度品は華やかな紅一色に統一されており、何人も着けそうな大テーブルを中心に座席もたくさん並んでいた。宿泊設備などはないが庶民どもの寝床には布張りの長椅子で十分だろう。座面は滑らかで柔らかく、安物の寝台より寝心地も良さそうだった。
「あー疲れたあー。アニーク姫の話、長いしつまんないしモモ途中から聞いてなかったよー」
「あはは……。まあなんというか、なかなかの『私こんなにつらかったの節』でしたしね」
「あのお姫様と結婚する奴は大変だろなー。あの調子で延々グチグチやられてたら飯がまずくなっちまうぜ」
部屋の扉を閉めると同時、モモとバジルとレイモンドが一斉に溜め息をつく。ノンストップで聞かされた嘆きはルディアの耳にもまだ響いている気がした。
「お前たちまでそんな風に言って、お可哀想じゃないか」
「うん、確かにお可哀想。身分に精神が追いついてないって哀れだね」
「こら! モモ!」
「ハハ……けど僕も、モモの言う通りだと思います」
「俺もー! っつーかアル、お前まだアニーク姫のソロステージに付き合ってやるつもりかよ? はっきり言って時間の無駄だぜ」
「当然だ。俺は騎士として一度した約束は守り抜く」
「うへえ、忍耐あるなー」
「モモはもうやだー」
「うーん、僕もちょっとご遠慮願いたいですかねえ」
荷解きもそこそこに隊員たちは首を振り合う。放っておけばまた長話になりそうだ。
「おい。お前たち、いつまであんな女の話をしているんだ? アイリーンたちが戻ってきたら……」
ルディアが四人のお喋りを諌めようとしたときだった。妙に重たげなノックの音がこだましたのは。扉が開いたと思ったら、ちょうど今帰ってきたらしい二人が「ああ、皆さんここにいらしたんですね」と部屋に入ってくる。
「どんな粗相だったか知りたいですか?」
アンバーの笑顔には言い知れない迫力があった。それだけで追い出されたという侍女たちが派手にやらかしたのだとわかる。
「な……何をしたんだ?」
「我が君の愛馬が走る道に洗濯物を干していたそうです」
うわ、とバジルのドン引きした声が漏れた。「それの何がそんなやべーの?」と首を傾げるレイモンドにアイリーンが説明を加える。
「馬ってとっても繊細な生き物なのよ。もちろんヘウンバオス様の愛馬だから洗濯物くらいで動じることはないんだけど、突っ込んで足を痛めたり、驚いて身を反らしたり、騎手を落馬させる危険もあるでしょう? 悪気はなかったと思うんだけど……」
悪意がなければ許されるかと言えばそんなことはない。無知とは恐ろしいなと背筋が冷える。そもそも天帝の通り道くらい把握しておけという話だが。
「アニーク姫に申し開きはあるかお尋ねになられたら『私も侍女たちも洗濯物を干しちゃいけない場所があるなんて教えてもらってなかったんですもの』と答えたそうで……。いや、よくぞ追放だけで済ませたなと我が君の寛大さには本気で心を打たれましたね」
「そ、それは首を刎ねられなかったのが不思議なくらいだな」
「わあー、大人の対応ー」
ハートフィールド兄妹が思わず拍手する程度にはヘウンバオスのほうが立派な皇族に思える。天帝が代わりの侍女を来させなかったのも頷けた。誰だって非常識な人間に自分の庭を荒らされたくない。
「ま、あの女のことはどうでもいいだろう。それより明日からの方針を固めるぞ」
ばっさり切ってアニークの話題を終わらせるとルディアは一同を適当な席に着かせた。
ひとまず天帝に面通しは済ませたが、交渉のためにはそれだけではもちろん足りない。ヘウンバオスやジーアンについてもっと知らなくてはならないし、王国側にも興味を持ってもらう必要がある。何しろルディアたちはまだ天帝はおろか十将にも自由に話しかけられない身なのだから。
「聖誕祭は今夜から始まるそうですよ。祝祭期間の十日間、あなた方も好きに外出して良いとのお達しです」
「よし、ならまずバオゾを見て回ろう。調査したいことはいくらでもある」
「じゃあ僕地図作りまーす」
「俺地元の人に話しかけまーす」
「モモ様子見て動きまーす」
「では俺は他国においても規律ある行動を心がけつつ臨機応変に」
「わ、私もバオゾなら道案内できそうだわ!」
全員ルディアに協力的でまことに結構だ。やっと本筋に戻れたなと息をつく。まったく、アニークさえいなければ明るいうちに情報収集を始められたものを。
「通商安全保障条約も重要だが、ジーアンの次なる侵略目標についても予測を立てておかねばならん。兵糧物資の流れ、建築資材の流れ、ジーアン人の放牧ルート、その他耳にした噂はすべて私に報告しろ。いいな?」
「ああ、了解だ」
「よっしゃ、そんじゃさっそく荷物置いて出かけようぜ! 宮殿から攻めるか!? それとも街に繰り出すか!?」
「僕は宮殿派です! おっ先ー!」
「あっバジルずるい! モモも行く!」
「ああッ! てめーら待ちやがれ!」
「こら、バジル、モモ、レイモンド! 屋内で走り回るんじゃない!」
どたばたと駆け出していく四人を見送り、ルディアはふうと嘆息した。敵陣のど真ん中でも元気がいいのは良いことだ。そう思うことにしよう。
「あの子たち、コナー先生が静かに過ごしたいって言ってたの忘れてるんじゃないかしら……」
「大丈夫ですよ、アイリーン。コナーならさっき庭を出ていきましたから」
まだ部屋に残っていた二人をルディアはそっと振り返った。ちょいちょいと手招きすれば目聡いアンバーが「なんでしょう?」と身を屈める。
「一つ頼みたいことがある。タイミングが大事だから、必ず行けるという場を狙ってほしいんだが……」
ごにょごにょと策を伝えると聖預言者は「なるほど」と頷いた。アイリーンも目を輝かせ、「それは絶対上手く行くわ」と断言する。
「お任せください。美しきアクアレイアのために助力は惜しみません」
「ああっ! ハイランバオス様、なんて頼もしい……!」
アイリーンもついているし、相手が誰でも臆せず話せるアンバーなら任せてしまって大丈夫だろう。頼んだぞと念を押し、ルディアも会議室を出た。
騒がしい声を頼りにアルフレッドたちを追いかける。結局この日は広い宮中を確認するだけで終わりになり、バオゾ探索は次の朝を待つことになった。




