第4章 その19
大きな問題はこれでほぼ片付いたのだろう。チャドとパトリシアの結婚話がお流れとなり、使者たちを殺された古王国は「国土没収の言い訳は立った」とばかりに挙兵したが、マルゴーとジーアン間で結ばれた同盟について知るや即時解散したそうだった。
まさか古王国の貴族たちも帝国がマルゴーに味方するとは考えていなかったらしい。「アクアレイア救援軍」などと称して戦力を集めたことも大きな悔いとなったようだ。ジーアンに「我らの領土に欲を出す気か?」と問われれば弁明不可能だったから。
過去パトリア古王国はアクアレイア包囲網を敷く手伝いをする代わりに天帝と不可侵条約を交わしている。だがそれはジーアンに敵対しないという前提を守ったうえでの約束だった。こうなってはいつ騎馬軍が古王国に攻め込んでもおかしくない。マルゴーに攻め入る隙がないばかりか、暗君とその取り巻きはいつ領地が踏み荒らされるか震えて眠る側になったのだ。アクアレイア海軍の再編が進めば彼らの安眠は更に遠のくに違いなかった。
「西パトリアの平定は任せておけ」
そう言って天帝の器に戻ったヘウンバオスは去っていった。「しばらく忙しくしていたい」と零した彼の胸中はルディアにも推し量れる。頭と身体が動いていれば悲しみは捨て置いておけるのだ。癒やしも忘れもできずとも。
バオス教の聖預言者は身体ごと代替わりさせ、別の蟲に務めさせるとのことだった。欠けてしまった十将も新たに選定し直したそうである。ヘウンバオスは数年以内にパトリア全域を傘下に収めると宣言した。手始めに小国の相争う北パトリア内陸部から篭絡すると。
「乱暴にやるつもりはない。うっかり有望な人材を殺してしまうと困るしな。アークのためにも少しは平和主義になろう」
最後の台詞を思い返す。彼の手腕なら緩やかな広域支配はきっと実現できるだろう。ジーアンが勢力を広げれば同盟を結んだ地と地の往来も活発になる。道を整備し、遥か遠い街からも頭脳を結集できるようになればレンムレン湖のアーク復活に一歩近づけるはずだ。
「──とまあ、そんな感じだ」
事の経緯を語り終えるとルディアは初老のガラス工に目をやった。ドナ経由でアクアレイアに帰還した防衛隊は、何はなくともモリスの住む孤島のガラス工房へ向かった。彼にはずっと心配をかけ通しだったから。
無事に戻った一人息子と部隊の面々、アイリーンを順に見渡してガラス工はうんうん頷く。「本当に大変だったのう」とのねぎらいがありがたかった。
人数が足りないことには彼も勘付いているはずだ。だが何も追及されない。五体満足に戻った者がこれだけいるということを老人は喜んでくれていた。
「ジーアンと上手くやっていけるなら怖いものはなさそうじゃな」
こくりと頷く。アクアレイアが帝国自由都市となる日も近いだろう。高率な関税が撤廃されれば商人たちも勢いを盛り返す。交易都市のあるべき姿が甦るだけでなく、東の果てまで出向く商人も現れるかもしれない。そうしたら次は帝国自由都市のまま更なる発展を目指すか、領土を買って再独立を達成するか情勢を見つつ決めればいい。いつまでもこの国を守り続けられるように。
「そう言えばパーキンはどうしたんじゃ? ドナを回って帰ってきたなら一緒ではないのかね?」
「ああ、あいつはバオゾへやったんだ。天帝が活版印刷機を欲しがってな」
忘れていたと補足する。アクアレイアに住まう者ならあのモミアゲの動向は気がかりだろう。十人委員会にも後で報告しておかなければ。帝国幹部と強いパイプができたこと、併せて伝えれば老賢人たちは安堵するはずである。事によっては防衛隊の再結成もあるかもしれない。
「パーキンにはジーアンで三号店を開いてもらうよ。もちろん兵の見張りつきで。問題を起こしたときはまた別の街に移す。十年あれば印刷技術は大陸中に広まっているのではないか?」
「ふむ、なるほど。それがいいかもしれんのう。こっちの印刷工房も困ってはおらんようじゃし。レイモンド君が随分しっかりしたからのう」
恋人の名にルディアは小さく目を伏せた。モリスはレイモンドの不在を死と結びつけていないのかもしれない。
だったら説明しなくては。思うのに唇は上手く動いてくれなかった。言葉に詰まるルディアを見やってアイリーンや部隊の皆が気遣わしげに押し黙る。
印刷工房をどうしていくかは早急に決定せねばならなかった。レイモンドもパーキンもいない今、誰があそこの責任者となるべきか。考えなければならぬ問題はまだまだある。取り返した波の乙女の聖像はそのままになっているし、危険人物の最たるグレース・グレディもいまだ野放しの状態だ。なるべく早く民をまとめ、国の指針を揺らがぬものにせねばならない。やっと掴んだ平穏をもう誰にも破らせたくない。
(本当に、レイモンドがいてくれたらな……)
かぶりを振ってルディアは独白を散らした。油断すると禁じたはずの考えがすぐに頭にもたげてくる。
彼はユリシーズに代わり、アクアレイアの希望となれる唯一の存在だった。アンディーン像を神殿に奉納し直す祭儀でも執り行えば民心はただちに一つとなっただろう。
大きな大きな穴が空いたのを痛感する。
考えれば自分が落ちていくだけだ。もうやめようと言い聞かせる。あんなに誰かを信じたいと願うことも、信じれば良かったと嘆くこともきっとない。
(委員会にはレイモンドの死をどう伝えればいいのかな……)
マルゴーで殺されたと言えば別の火種になるかもしれない。慎重に話を作る必要がある。愛した者の最期であっても。
重い溜め息をついたときだった。よく知る声が響いたのは。
「なんだ。やっと帰ってきたのか」
洞窟の湿気取りでもしていたらしい。掃除用具を手にしたカロがルディアを見下ろしながら言う。長身のロマはきょろきょろと辺りを見回し、やがて視線を一点に定めた。
「俺もマルゴーへは行ったんだが、お前たちはもういなくなった後でな」
アイリーンの抱く白猫にカロは個人的報告を述べる。ブルーノは入れ違ったなら仕方ないと言うように「ニャア」とひと鳴きして首を振った。
「ああ、そうか。お前も手伝いに向かってくれていたのだったか。すまない。完全に失念していた」
「だと思ったよ。俺宛ての伝言も残されていなかったし」
「随分探させたんじゃないのか? 悪かったな」
「気にするな。決着したならそれでいい。だがあいつには謝ってやれよ。半月しても帰らないから待ちくたびれて迎えにいこうか悩んでいたぞ」
「? あいつ?」
誰のことを言われているのかわからずにルディアはきょとんと目を丸くする。ロマとガラス工が名を告げようとしたそのとき、外からどたばた騒がしい足音が近づいた。
大きく扉が開け放たれる。明るい光を招き入れて。
──そして。
「なあ! 桟橋にゴンドラあったけど、もしかして皆帰ってきた!?」
工房一階の作業場で、揃ってぽかんと口を開いた。
逆光の中に現れた長身のシルエット。二度と会えないはずだった彼の姿に。
モモとバジルは瞠目し、ブルーノとアイリーンは息を飲み、アルフレッドは抱えていた鉄仮面を取り落とした。金属が床にぶつかる硬質な音が反響する。その響きが消えぬ間にルディアは声を掠れさせた。
「……レ、レイモンド……?」
なぜと問うこともできない。幻だったら消えそうで。
槍兵はルディアの姿を認めると満面の笑みで駆けてくる。
「姫様!」
力いっぱい抱き締められた。確かな鼓動を打っている広い胸に。
理解はまだ追いつかない。生きている彼が己の目の前にいるのに。
──なぜ。どうやって助かったんだ。あの炎と瓦礫の中で。
「埋まってたけどカロが見つけてアークの里まで運んでくれて。村の人たちに治療してもらったんだよ。死ななかったのが不思議なくらいだって。ははは、俺ってここぞの運がいいよな」
レイモンドはにこにこと元気に笑う。
夢でも見ているんじゃないのか。胸が詰まって声が出ず、動いて喋っている彼を確かめるように抱き締め返すしかできない。
人前だとか誰の身体だとか考える余裕もなかった。心の求めるままに恋人にしがみつく。
「レイモンド……っ」
堰を切った嗚咽は止まることなく溢れた。上等な服がぐちゃぐちゃに濡れてしまってもレイモンドはルディアの顔を己の胸から離そうとしない。肩や頭を抱き寄せる腕の力は強くなる一方だ。
後から後から涙が零れる。堪えなければと戒めていた分すべて。
「俺がいないとどんな気分になるかあんたにもわかったろ」
諭す響きの問いかけにこくこくと頷いた。
この気持ちさえ覚えていれば逃げて安心しようなど二度とするまい。そんな馬鹿げたことは二度と。
「お前こそ、今度あんなこと一人で決めたら一生恨むぞ……!」
力の入りきらない拳で縋りついている肩を叩く。返事にほっとしたらしい。「うん」と囁くとレイモンドはルディアを支えたまま作業場に尻餅をついた。引きずられる格好で己もその場にへたり込む。
温かい。触れる手も、寄せられた頬も、何もかも。
「レイモンドーッ!!」
と、もう我慢できなかったらしい年下組が駆けてくる。モモとバジルの突進を槍兵はかわさなかった。良かった、良かったと二重奏する二人も一緒に肩を抱かれる。ブルーノとアイリーンまで輪に加わり、真ん中で潰されたルディアには少々重いくらいだった。
「……ははは!」
振り仰げばすぐ側でアルフレッドがにこやかに微笑している。騎士に視線を返すレイモンドも笑っていた。彼らしい、少々締まりのない顔で。




