第2章 その1
九月初め、ノウァパトリアに交易目的の商船を残して身軽になった護送船団はついにジーアン帝国の首都バオゾへと入港した。
ドナやヴラシィほどではないが、船着場は活気に欠ける。古い石で造られた港はがらんと人気がなく、運航中なのは対岸行きの連絡船とつましい漁船だけだった。海で稼ぐ気がないのか商船はただの一隻も舫われていない。これにはルディアも驚かされた。
なんと贅沢な放置ぶりだろう。バオゾは西パトリアの海と東パトリアの海を繋ぐ唯一無二の海峡の片側を占めているのに。仮にルディアがこの街の支配者なら即座に港を拡張して各地へ商船団を派遣するところだ。
(世界最大の商業区ノウァパトリアを眼前にしてこれだものな。ジーアン帝国には本気で船の価値がわからないのか、それともわかろうとしていないのか、あるいは――)
ルディアの思考はそこで途切れた。遠くから蹄の音が近づいてきたためだ。
にわかに旗艦に緊張が走る。これから敵地へ踏み入れるのだという緊張が。
おそらく下船が許可されるのは聖預言者の付き人であるアイリーン、彼らの護衛の防衛隊、ほかにはコナーくらいだろう。何が起こるかわからない天帝の膝元に、たった八人。ゆめゆめ用心せねばなるまい。
「おーい、ハイちゃーん!」
ややあって埠頭に現れたのはラオタオだった。出迎えの騎馬兵たちを率い、ヴラシィのときと同じく狐顔の若き将は船上の聖預言者にぶんぶん手を振ってくる。
ルディアは露骨に顔を歪めるモモの肩に手を置いた。言外に「腹が立っても相手にするなよ」と伝える。
「わざわざありがとうございます、ラオタオ。今そちらに参りますね」
将に応じるアンバーはいつも通り平静だった。大舞台ほど燃えるタイプなのかもしれない。いつ正体がばれるかと挙動不審なアイリーンと違い、実に堂々としている。
「では皆さん、参りましょうか」
「へっ? ハイちゃんそいつらまた連れてくの? もう護衛要らなくない?」
「防衛隊の皆さんは友人として我が君の都へ招きたいのです。それに同国人がアイリーン一人ではコナーも気が引けるでしょう」
アンバーはそう言って画家に先頭を譲った。世紀の天才はにこりと微笑み、軽い足取りで橋代わりの長板を下りていく。
「……へえ? ハイちゃんより先にジーアンの地を踏むとはいい度胸してるんだね?」
静かに手綱を引きながらラオタオはしなる弓に似た双眸を細めた。たちまち下がった体感温度に海軍の数名が勢い剣の柄を握る。
「――おや、いけませんでしたか? 促されたのを遠慮するほうが礼にもとると思ったのですが」
その返答にラオタオが瞬きした。ルディアたちも一緒になって目を丸くする。師の狂いなきジーアン語に。
「あれっ? あんたこっちの言葉喋れるんだ? あ、もしかしてハイちゃんに教わったとか?」
「いいえ、これは私の独学ですよ。訪問する国の言語くらい勉強しておくべきでしょう」
「独学で!? 帝国内でも通訳がてんやわんやしてるのに!?」
「ジーアン語はそこまで難解ではないですからね。多少語順と複合名詞に気をつければ」
「へええ、あんた相当な学があると見たぜ。いいね、俺、賢いヤツは嫌いじゃないよ。奴隷だろうと馬の乗り方も知らなかろうと」
「ふふふ、名前の通りお喋りな方だ。天帝陛下はあなたにぴったりの名をお与えになったようです」
「!」
画家の台詞にどんな記憶を呼び起こされたかラオタオはにんまり頬を緩めた。一触即発に見えた空気はどこへやら、将はご機嫌で愛馬を降り、コナーの腕を取りにくる。
「そう、俺は『お喋り』なんだ! あんたには俺が馬乳酒を振る舞うと決めたぞ! 名前は? 年は? 出身は? どこかの有名人なのか? 親族に美女はいるか?」
ラオタオはコナーを質問攻めにした。それどころか己の客だと言わんばかりに鞍へ上げ、二人乗りで宮殿に向かおうとする。
「ほら、ハイちゃんも早く早く! 天帝陛下がお待ちかねだぜ!」
急かされたアンバーは、しかし非常にゆったりとした仕草で船を後にした。足を悪くしているという設定が彼女の頭から抜け落ちることはなさそうだ。
「それではブラッドリー殿、あなた方にはしばらく退屈させますが、まずは我々だけで我が君にご挨拶をと思います。訪問の許しが下り次第、すぐにお知らせしますので」
偽預言者の手招きにルディアたちは頷き合った。アルフレッドを先頭に順に桟橋へ下りていく。海軍とマルゴー兵はこのまま船上待機である。
ハイランバオスに用意された馬車に一同が乗り込むとラオタオは天帝の待つ宮殿に向けて隊列を出発させた。
******
カラカラと車輪が回る。轍を残し、馬車は蛇行する細長い坂道をゆったりと上っていく。小窓から街並みを眺め、ルディアはほうと息をついた。
バオゾの景色は意外なほど親しみが持てる。入り組んだ街路、隙間なく並ぶ高層住宅。曲がり角を曲がれば突如小広場が出現し、先の見えないトンネルや装飾過多な屋敷の横を通り過ぎる。
既視感があって当然だ。道路が水路であったならこれほど祖国に似た都市はない。否、バオゾがアクアレイアに似ていると言っては語弊があった。正しくはアクアレイアがバオゾのような東パトリア様式を模してきたのだ。
特殊な形でジーアン帝国に併合される以前、この街も東パトリア帝国の一部だった。ヘウンバオスは首都をジーアン風には上書きしなかったようである。草原育ちの馬の足をいたわって石の舗装が剥がされているのみだ。
街を闊歩する騎馬兵もバオゾの人間を虐げている様子はない。井戸端会議を楽しんだり、魚と野菜を交換したり、住民はごく穏やかに日常を営んでいる。
ドナでもヴラシィでも「男たちはバオゾに連れていかれた」と聞いたが彼らはどこにいるのだろう? 表通りを見る限り、都市労働の奴隷として使われているのではなさそうだが。
「わー! やっぱ知らねー街はテンション上がるな! なあなあ、後で探検に行こうぜ!」
と、緊張感のなさすぎる声がルディアの思考を断ち切った。槍兵のお気楽さにずるりと頬杖を滑らせる。
「お前なあ」
苦言を呈そうとしたところ、今度はアイリーンの震え声が割り込んだ。「も、もうじき天帝宮よ。みみ、皆、ヘウンバオス様はとっても気さくな方だけど、粗相のないように気をつけましょうね!」との忠言にルディアは乾いた笑みを返す。
そんなどもり調子で気さくなどと言われてもまったく安心材料にならない。何しろ相手は数えきれないほどの街を蹂躙してきた男なのだ。その残虐行為の数々は海を越えてアクアレイアにまで伝わっていた。仮にそれらが誇張された噂だとしても、ヴラシィの元老院議員が骨になるまで晒されていた光景は忘れがたい。
「異国の宮殿かー! あーっ! ワクワクしてくるなー!」
「美味しいご飯食べられるかな? 甘いものがあると嬉しいねー!」
危機感の薄いレイモンドと鉄の心臓を持つモモはどこまでも平常運転だった。そんな二人とは対照的にアルフレッドとバジルは無言で腹を擦っている。
構えなさすぎも危険だが構えすぎも等しく危険だ。こういうときはアレだなとルディアはアンバーに向き直った。
「ハイランバオス殿、今日の我々の運勢はどうです?」
問えば彼女は比類なき演技で応じてくれた。人々の心に巣食った闇を祓う、あの不可思議な聖預言者の微笑みで。
「それはもちろん、最高の一日が約束されておりますよ! 我が君に相見え、我が君のお声をじかに拝聴するのですから! おお! 鳥は歓喜の詩を歌い、枯れた花は色を取り戻し、泉は清らかな水に溢れ、地には愛と信仰が満ちる! 我が君と私を信じるあなた方が、どうしてその加護からあぶれる理由があるのです!?」
熱弁に一同の拍手が起こる。アンバーと一緒なら大丈夫だと思えてくるからやはりすごい。
間もなく馬車は停止した。目的地に着いたらしく、御者が恭しく扉を開く。
地上に降りると正面には大ドームを戴いた天帝宮が美観と威容を余すところなく示していた。白亜の外壁と黄金色の屋根の調和が実に見事だ。建物全体の大きさもアクアレイアのレーギア宮とは比較にならない。
「ハイちゃーん、こっちだよー!」
と、堅牢そうな二重門を開かせたラオタオが聖預言者にウィンクした。門前には既に多数の衛兵らが曲刀を提げて整列している。荒武者どもの見守る中、ルディアたちも正門をくぐり、緑濃い前庭を歩き出した。
(それにしても美しい宮殿だな。東パトリア、いや西パトリアを含めても五指に入りそうな佇まいだ)
巨大かつ繊細な建造物を見上げてルディアは感嘆の息をつく。近づくほどに完全さが際立ってくるシンメトリー。四隅を固める小ドームとアーチの惜しみない連続は単に優美なだけでなく技術力の高さを物語っていた。どこを取っても絵になるし、コナーのような画家には垂涎ものだろう。
とりわけ圧巻だったのは大噴水の神像群を前に眺める天帝宮だった。水盤が大ドームの黄金を反射して、輝きに満ちた空間に神聖な存在が舞い降りたかのごとく錯覚させられてしまうのだ。
(これほどの城を建てるには一体どれだけ金貨を積めばいいのやら)
芸術を味わうのもそこそこに金勘定を始めるのはアクアレイア人の癖らしい。ルディアの後ろでバジルやレイモンドも「彫像だけでひと財産築けますよね」「ここの石工、いくらで雇われてたんだろ?」とヒソヒソしている。
似ていると感じたのは街の構造だけだったようだ。思うがまま美を追求した宮殿はどれほど国が発展しようとアクアレイアには到底得られぬものだった。広大な敷地も、ふんだんに植えられた木々や芝生も、潟湖では夢のまた夢だ。
(というかこの庭、ちょっと広すぎやしないか?)
ルディアはちらと周囲の光景を一瞥した。ゆっくりとはいえ十五分は歩いているのにまだ建物まで辿り着かない。驚異的な広さである。二重アーチの内門を越えたのは更に十分後のことだった。
(やれやれ、やっと屋内に入れそうだ)
ルディアがそう息をついたときである。先導していたラオタオの進行方向が突然斜めに逸れ出したのは。
「えっ?」
彼の向かった奥庭を見てルディアは我知らず声を上げた。いや、この状況で驚かぬ者はいないだろう。げに素晴らしき金殿玉楼がすぐ横に見えているのになんだってこんな庭の片隅に――。
「おーい、ハイちゃん連れてきたよー」
そう言ってラオタオが捲り上げたのは、遊牧民族が住処とする幕屋の玄関布だった。
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「なんだ、ようやく帰ったか。まったく、こんな気ままに遊び呆けているのはお前だけだぞ? ハイランバオス」
「これはこれは、申し訳ございません。ですが私も物見遊山に興じていたわけではありませんよ? 未だあなたという存在を知らずに生きる哀れな人々に、あなたの偉大さを説いて回っていたのですから」
親しげな文句に教祖らしい言葉を返してアンバーは深く頭を垂れた。
意外に広い天幕内にはヘウンバオスと数人の側付き。彼らは皆ジーアン織の鮮やかな黄色や緑の衣装に身を包んでいる。
遊牧民の文化に冠がないのは知っていたが、玉座もないとは知らなかった。天帝は宝飾の散りばめられた高帽子を被り、長椅子に足を投げている。
「相変わらずよく回る口だ」
機嫌が良いのか悪いのか読み取りにくい低い声。月光のごとき金髪が肩から胸にするりと落ちる。切れ長の目は鮮血と見まがうほどに赤い。烈しい気性の持ち主なのはすぐ知れた。面立ちはハイランバオスと大差ないのに受ける印象が正反対だ。温厚や従順といった徳は毛ほども感じられない。
「そういう天帝陛下だってハイちゃんを責められたもんじゃないじゃんかー! ハイちゃん聞いてよ、この悪い男は三年がかりで改修した宮殿に住みたくないって言うんだぜ!?」
「どうも石の城は私の肌に合わなくてな。ゲル生活が長いから、こちらにいるほうが落ち着くのだ」
「なんと、それはまた壮大な無駄遣いを……! やはり我が君は空費にしてもスケールが違います! 凡人にはこんな散財できやしないでしょう……!」
アンバーは手放しで絶賛した。オーバーリアクションで感激する弟に疑念を抱いた風もなく、ヘウンバオスはくくっと吹き出す。
「本当に変わらないなお前は。で、アレイア海で何か収穫はあったのか?」
アンバーは「ええ!」と力強く頷いた。彼女はくるりとルディアたちを振り返るとさっそく天帝に紹介を始める。
「こちらが私の友人である王都防衛隊の皆さん、こちらのコナー・ファーマー氏がアクアレイアの誇る頭脳です。是非我が君にも彼らをお知りいただきたく」
「ほう、これはまた気に入りを増やしたな」
「天帝陛下! この先生は特にヤバいぜ! 誰から教わったわけでもないのにジーアン語が自由自在なんだ!」
「なるほど、西方の才知がお目見えというわけか。アイリーン、学者としてのお前の存在価値が脅かされそうだぞ。ハイランバオスに見捨てられないようにそろそろ色仕掛けの一つでも学んでおくべきではないか?」
「ひええッ、わわ、私は一介の信者の身ですからあああ!」
顔から火を噴いてうろたえる彼女の反応はカロとの関係をからかわれたときより一段と激しかった。恐縮するアイリーンにヘウンバオスは明るい笑い声を立てる。ラオタオといい、天帝といい、外国人の彼女に対して随分と好意的だ。二人とも救貧院には時々出入りしていたようだし、顔を合わせた回数は多いのだろうが。
「さて、長旅の疲れが溜まっていることだろう。宴まで十日もあるし、今日は下がってもう休め。客人には宮殿のほうが快適かな? 部屋は有り余っているから好きに使って構わない。足りないものがあればすぐに用意させよう」
「お心遣いありがとうございます、我が君よ。そうそう、ここまで私を送ってくれたアクアレイア兵とマルゴー兵が君主からあなたへの親書を預かってきているのですが、そちらはいかがしましょう?」
「ふん。どうせ祝いにかこつけた休戦協定の延長願いに決まっている。兵どもには当日席を用意してやるからそれまで船で静かにしていろと言っておけ」
「はい、仰せのままに」
丁重にお辞儀をし、アンバーはルディアたちに幕屋を出るよう促した。通商安全保障条約について天帝の考えを探りたかったが仕方ない。命じられた以上は素直に下がらなければ。今日のところは面識ができただけで御の字か。
「ハイランバオス、ここは私の都だが、同時にお前の家でもある。布教熱心なのもいいが、たまにはゆっくり羽を伸ばすのだぞ」
「おお、なんとお優しいお言葉……! ありがとうございます。存分に楽しく過ごさせていただこうと思います」
退出直前にかけられた聖預言者へのねぎらいを耳にしてルディアはにわかに困惑した。これが残虐非道で恐れられる男の発言とは信じがたい。身内相手の台詞なのは百も承知だが、思い描いていたイメージとはあまりにも遠かった。
(兄弟仲は至って良好、か)
この親密さは利用できるかもしれない。顔には出さずほくそ笑み、ルディアは奥庭を後にした。
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遊牧民でないアルフレッドに「布の城」の良さはわからない。けれど天帝に「石の城」と呼ばれた宮殿がオールドリッチ夫人の別荘などとは桁違いなのはすぐにわかった。
入口の間の壁面には輝石で描かれたモザイク画。蔓草の浮彫が施された扉を開けば高すぎる丸天井が見下ろしてくる。どの円柱にも細緻な文様が刻まれており、本気で鑑賞を始めたら階段広間だけで半日はかかりそうだった。
上質すぎる空間に圧倒されつつアルフレッドは歩を進める。踏みしめるのは精巧に織られた幾何学模様の長い絨毯。その布が尽きたところで足を止める。
見上げた中央階段の手前では踊る乙女の石像が沈黙していた。彼女も天帝に「やはりいらない」と捨てられてしまったのだろうか。せっかく瞳に傷のないパトリア石が嵌められているのに。
「変なのー、誰もいないみたい」
「不用心ですねえ」
年少組の呟きにアルフレッドは「ああ」と頷いた。門や庭には衛兵が立っていたけれど、この御殿には兵士の類はいないようだ。守るべきはヘウンバオス一人のみということなのだろう。
「そんじゃこのすっげーお城、ひょっとして俺たちの貸切りか!? うおお! 街より先にこっち探索すべきだな!?」
「お前はそれしか頭にないのか! 行楽気分もほどほどにしろ!」
天井が高いおかげでルディアの怒鳴り声も普段より大きくこだまする。
と、アルフレッドのすぐ後ろでくすくすと忍び笑いが漏れた。どうやら二人のやりとりにコナーが腹筋をくすぐられたらしい。
「ふふ、彼らはいつもあんな調子かね? 仲睦まじいのは微笑ましいが、私はなるべく静かな部屋で過ごしたいのだよ。天帝宮は三階まであるようだから、君たちとは別のフロアに陣取っても構わないかね?」
「あ、ええ。それはもちろん……」
答えかけてからしまったとアルフレッドは口をつぐんだ。ちらとルディアを盗み見る。ここは敵陣。彼女の意向を無視してはどんな返事もできはしない。
「――」
向けられた表情から察するに「そのままお前が応対しろ」ということだろうか。ほっとコナーに目を戻し、アルフレッドは改めて画家に是を告げた。
「もちろんです。ちなみに先生は何階が?」
「私はどこでも。まあどうせなら三階にしておこうかな。高いところは気持ちがいいし。ハイランバオス殿もよろしいですか?」
「ええ。私は防衛隊の皆さんと一階か二階を使わせてもらいます」
「うん、決まりだね。それでは私はお先に失礼するよ」
コナーはひらひらと手を振って美しいカーブを描く交差階段を上っていった。袋いっぱいに絵描き道具を抱え込み、他国の宮殿を借りるというのに露ほどの気兼ねもなさそうに。接待慣れした天才はやはり違う。
「我々もさっさと部屋を決めて作戦会議を行おう」
部外者が消えた途端ルディアがそう口を開いた。モモやバジルはなんの疑問もなく「はーい」と返事する。レイモンドに至ってはいつ頃探検に出ていけばいいか問うている始末だ。そんな彼らを横目に見ながらアルフレッドは嘆息を押し殺した。
――もやもやする。胸の辺りが気持ち悪い。なぜだろう。このところずっとこうだ。ルディアが何か指示するたびに妙な焦りに襲われる。頭の隅で「これでいいのか?」と声がする。
(本来は隊長である俺が中心に立つべきなのに……)
いや、主君であるルディアが従えと言うのならそれは一向に構わないのだ。だがしかし、だがしかし、だ。
(だったらどうして『私をブルーノ・ブルータスとして扱え』なんて言うんだ?)
アンバーはいい。一貫して聖預言者になりきっているからこちらも取るべき態度をはっきり決められる。けれどルディアはどっちつかずだ。アルフレッドはしばしば彼女が部下なのか上司なのかわからなくなって混乱する。
(俺以外は全員『ブルーノという名のルディア姫』と捉えているよな……?)
レイモンドたちが判断を仰ぐのはいつもルディアだ。アルフレッドとて彼女を軽んじることはない。だがそれは、あくまで彼女の正体を知る仲間内での話だったはずだ。
(このまま俺は名ばかりの隊長になってしまうんだろうか)
尾を引いているのは海賊に遭遇した日のことだった。あの日彼女の命令で、己だけ戦闘から外された。指揮権云々より問題はそこである。またあんな展開になりはしないか恐れている。
(伯父さんたちに臆病者と思われたかもしれない)
個人的な感情を口に出すのは憚られた。そして一人で悶々と思い悩んでいる。天帝宮に着いてまで考えることでないのは明白なのに。
(……やめよう。とにかく一旦忘れよう。こんな精神状態じゃ果たすべき使命も果たせないぞ)
心の暗幕をばさりと下ろし、アルフレッドは前方の仲間を見やった。妹たちは回廊の奥に緑溢れる中庭を見つけたらしく、何やらわあわあ騒いでいる。
「うわあ! 果物がいっぱい!」
「ここだけ屋根がないんですねえ! ちょっとした果樹園ですよ!」
「なあなあ、あのオレンジ食っていいかな!?」
「ええ、きっと我が君もお許しになるでしょう」
大はしゃぎでレイモンドが走り出す。出遅れてなるかとモモとバジルが彼に続き、アイリーンも三人の後を追いかけた。皆の勢いに取り残されたルディアだけが呆れた様子で嘆息している。
「どうやら大人は我々のみだな」
苦笑まじりに肩をすくめられ、アルフレッドの心臓が跳ねた。
今のはきっと、お褒めに預かったのだろう。些細なことでも評価されるのは嬉しい。
「止めてきたほうがいいか?」
キリッと頬を引き締めて問う。ルディアは「頼んだ」と頷いた。
「おい、お前たち! オレンジの試食なんてしている場合か! 遊ぶのは後だ、後!」
大声で叱り飛ばすと「あーん、今剥き始めたばっかりなのに」とモモが頬を膨らませる。アルフレッドは果実を離さぬ妹の首根っこを掴みに走った。
(命令されて動くのが嫌なわけじゃないな。姫様の上に立ちたいわけでも)
改めてそう実感する。やはりあのとき憤りを感じたのは、自分だけ剣を取れなかったからなのだ。
「しょうがないですね。やることが終わったらまた来ましょう」
「そうだな! 探検とかな!」
「レイモンド君、それは多分違うと思うわ……」
「いいから行くぞ!」
四人の背中をぐいと押し、実り豊かな木立から引き離す。
そのときだった。か細い声がアルフレッドを引き留めたのは。
「あ、あのう……、どちらの国の騎士様でしょう……?」
ふと気づくとアルフレッドは褐色肌の若い女性にマントの端を握られていた。
豊かな黒髪、同じ色の深い瞳。どちらも彼女が東パトリア南部の出身であることを示す特徴だ。
最初アルフレッドは彼女を宮殿の下女だと思い込んだ。化粧はまったくしていなかったし、深緑のワンピースも膝が隠れる程度の丈で、身分ある人の装いとは到底言えなかったからだ。
だが現実は予測と違った。彼女は多くの召使いにかしずかれる、さる高貴な血筋の女性だったのだ。
「アクアレイア王国王都防衛隊の隊長、アルフレッド・ハートフィールドです。……あの、失礼ですがあなたは?」
優しく尋ねたアルフレッドに彼女はうるうると双眸を潤ませた。華奢な手にがばりとすがられ、危うく後ろに転びかける。
「私、私……っ! 東パトリア帝国皇女、アニーク・ドムス・インペリウム・ノウァパトリアですうう!」
大粒の涙を散らしつつアニークはアルフレッドの腕にしがみついた。
これが彼女との長い長い、数奇な縁の始まりだった。




