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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第4章 迷い子たちの答え合わせ
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第4章 その14

 記憶は常に己が与える側だった。真の意味で誰かとそれを分かち合ったのは千年生きてきて初めてだ。

 こんな風だったのか。聞いて想像していたものと同じようで異なる事象に心は大いに戸惑った。

 歌物語を愛でるより近しく、遠く、重なったかと思えば離れ、次第にそれはそれ自身の輪郭を露わにした。喜びも悲しみも引かれた線の向こう側だ。まだ自我の育たぬうちは己のものと思い違うかもしれないが。

 生まれ落ちた瞬間から一歩ずつ遠ざかったのだろう。あれと私は。──否、初めから同じだったことなどなかったに違いない。胸の深くに有していたのは別々の核だったのだから。

 根だと思っていたものは(つる)だった。我々は同じ樹の別の枝ですらなかった。

 だからお前を理解できない。

 あんなに大切だったのに。


「おいでになられたのですね」


 青く淡い、波打つような光を纏う巨石の前に着くと同時、片割れが呟いた。こちらに背中を向けたまま彼はクリスタル表面に掌を張りつかせている。

 浮かび上がっている文字は相変わらずほとんど読めなかった。パトリア語を完全習得したと言える今でもだ。だが詩人がろくでもないことをしているのはひと目見れば明らかだった。


「やめろ。アークから離れろ」


 命じるがハイランバオスは手を止めない。あちらに触れてこちらに触れてを繰り返す。言うことを聞かぬならと抜刀してみせてようやく彼はヘウンバオスを振り返った。


「申し訳ありません。まだ機能を使いこなせていないのです。さすがにアーク中枢部には簡単に至れなくて……」


 日常生活の小問題を詫びるように片割れは段取りの悪さを詫びる。うーんと真剣な唸り声が薄青く照らされた暗闇の中に響いた。

 長い指がいくつかの文字をなぞる。光る文字が溶けて崩れて変形する。彼はその残骸を繋ぎ合わせ、熟考しつつ並べ替えた。


「せめてもう一段階解除できれば──あ、なるほど! こうですね!」


 明るく弾んだ声と同時、穴ぐらの景色が塗り替わった。

 音もなく緑が侵食する。テイアンスアンでコナーが見せた幻と同じように。

 眼前に広がったのはあまりにも馴染んだ草原。見上げれば空は青。天井などないかのごとく明るく晴れ渡っている。

 再現された草の匂いに眩暈がした。どこから流れてきたのやら、風がざあと吹き抜ける。果てなく続いて見える大地を。


「やはりあなたとお話するにはこれくらいできないとですからね」


 偽物の情景だ。知ってはいても感覚は騙された。

 気がつけば目線の高さまで変わっている。ウヤはもう少し背が低かったはずなのに、今は正面に立つ男とまっすぐ目が合っていた。

 服装も着ていた立襟装束とは違っている。縁取りされた白の聖衣に右前開きの革カフタン。金髪頭が戴くのは高位の人間であるのを示す宝飾つきの高帽子。着慣れた君主の衣装だった。


「ウヤの姿よりそちらのほうがあなたらしくて私は好きです」


 水に浸した棒が曲がって映るように、瞳がガラスを認識できなくなるように、片割れもそこにある風景を別の何かに見せかける幻術を得たらしい。

 天の帝と聖なる預言者。双子の姿で対峙した。彼にはこれが一番気に入りの器だったのだろう。肉体を決めたときも「光栄です」とはしゃいでいた。兄弟を名乗れるなんて初めてですねと。


「まあ見た目がなんであれあなた自身の素晴らしさに変わりありませんけれど。思い出話をするのなら相応しいやり方でしょう?」


 にこやかに弟は微笑む。目まぐるしく様々に風貌を変化させながら。

 それはディランであったりスーであったりほかの彼であったりした。いつの時代も己の側に当たり前に存在した。


「やはり記憶は刺激を受けて想起されるものですから」


 最後に彼はあの書記官の姿を取る。黒髪の、さも貧弱げな。対するこちらはゾンシン国の老いた将軍ジリュウにまで戻されていた。

 ヘウンバオスは周囲を見回す。片割れが次々と変えた風景を。

 豊かな緑は枯れきって、塩の噴き出た酷暑の砂漠が一帯を取り囲んでいた。嫌な記憶だ。こびりついたまま離れない。

 そこに一つだけ不自然に輝く石柱が立っていた。レンムレン湖の成れの果て。最後の水溜まりがあった場所に。


「あなたはお優しい方ですね」


 ハイランバオスは眩しげに目を細める。いつも、いつも、彼は同じ眼差しでこちらを見つめる。慕わしさなど言葉にせずとも伝わった。ただそれが、己の思う慕わしさとは甚だ違っていただけだ。


「今すぐ私を殺めればいいのにそうなさらないのはなぜですか? もしやまだお迷いです? 私を諦めきれなくて?」

「…………」


 問いには答えられなかった。答えてはいけなかった。

 成す術もなく沈黙する。できるのは別の要求を告げることだけだった。


「……手を下ろせ。早くアークから離れろ」


 片割れの掌はなお聖櫃との接触をやめない。そのうち浮かぶのは文字だけでなく複雑怪奇な図になった。組み合わさった二つの螺旋。それにどんな意味があるかまでヘウンバオスにはわからない。しかし放置してはまずいのだろう。警告を発するようにアークは激しく明滅した。


「殺して止めればいいのです。早くしないともう中枢に到達してしまいますよ? 管理者権限さえ手に入れば即座に聖櫃の全機能を停止させられること、もちろんご存知なのでしょう?」


 右の手に力をこめる。先程抜いた曲刀はまだ持っていた。ジリュウの腰にはなかったはずの代物だが柄を握る感覚もある。

 ハイランバオスはまたもこちらに背を向けた。虚空に浮かべた文字と記号を追いかけて片割れは細い指を舞わせている。

 隙だらけだ。一撃で殺せる確信を持てるほど。それなのにヘウンバオスには武器を構えもできなかった。


「どうなさったのです? 我が君よ」


 問う声は優しげだ。官服の詩人は頭だけこちらを振り返る。防御は放棄したままで彼は穏やかに語りかけた。


「私はあなたに何もしません。アークを破壊できる段階に至ったら破壊する。それだけです。あなたはあなたの思うままになさってください。私を殺すも、アークが死ぬのを見届けるも」


 微笑は落ち着いたものだった。頬を薔薇色に上気させるのとはまた別の昂揚が祝福の時を迎えた瞳に満ちている。


「私の詩は既に完成を約束されておりますから」


 歌うように詩人は告げた。この形勢を整えた時点で望みはほとんど叶ったも同然だったと。


「……どういう意味だ」


 日射が、熱砂が、老将の身を焦がす。

 塩を散らして滅びの風が吹き荒ぶ。

 低く抑えた声の問いに片割れはにこやかに頬を緩ませた。


「アークが死ねばあなたの夢は叶わない。私が死ねばあなたの心は埋まらない。どちらにしてもあなたは絶望に至るのです。そうでしょう?」


 息を飲む。返す言葉を失ってヘウンバオスは立ち尽くした。

 その通りだった。詩人の預言は正しかった。空虚を抱える覚悟を決めてここまでやって来たくせに、己は彼を殺したくなかった。

 蟲たちの父としての己がではない。一人で歩み、一人で戦い、一人で故郷の死に直面した孤独な(ヨルク)がまだ半身を求めているのだ。千年ずっと信じてきた、己の支えであった希望を。


「今ここに、私の記憶の複製を保存しています。私が死んでも私の紡いだ詩は永久に残るでしょう。逆にアークの破壊に成功した際は隠居でもして長大な書を手がけなければなりませんね。私はどちらでも構いません。私たちの結末はあなたがお決めになってください」


 青い光を帯びた目が伏せられる。再びアークに向き合うと彼はもうこちらを一瞥もしなかった。

 絶望の淵で膝をつく背中が見たい。そう言ったのはお前なのにどうして私を見ないのだ。それとも聖櫃を通じてならば今の私の無様な姿も覗けるのか。

 汗が伝う。歯を食いしばる。


 ──殺さなければ。


 言い聞かせてきた言葉を今一度繰り返した。

 湿った手から曲刀が落ちないように持ち直す。ざくり、ざくり、塩の結晶を踏みつけて歩く。数歩も行けば片割れの背中は目と鼻の先だった。

 砂漠を照らす太陽の光が強い。クリスタルの操作を続ける書記官の後ろ姿に細い刃の影が落ちた。ああ次は早く振り下ろさなくては。


「うふふ」


 と、片割れが笑い出す。こちらと目を合わさないまま彼は昔話を始めた。


「覚えていますか? 初めの百年はずっと二人きりでしたね。行商人に紛れてあちこち行きました。どこも知らない土地ばかりで、生活するにも毎日苦労が絶えませんでしたねえ」


 持ち上げた手が震える。ハイランバオスは舌を止めない。馬を並べ、焚火を囲んで、泉のほとりで、星を見上げて、さんざん交わした談笑の延長のように楽しげに喋り続ける。


「新しい器を探すのも大変でした。都合のいい死体などそう手に入るものではありませんし。百年経ってダレエンたちが生まれたときも、どうしても人間が一体しか用意できずに狼の溺死体に入れてみたのでしたよね」


 言葉とともに思い出が甦る。もう戻らない、騒がしかったあの日々が。

 孤独を感じなくなったのは彼が寄り添ってくれていたからだ。故郷を失ってなお今日まで歩き続けられたのは。

 己の影を断ち切れる生者がはたしてどこにいよう? 生きながら魂の欠けた存在にでもならなければそんなことは不可能だ。

 私の湖。ずっとお前に隣にいてほしかったのに。


「──ああ。間に合いましたね。もう少し引き延ばせれば管理者画面に入れたのです……けど…………」


 書記官が倒れた瞬間、周囲は暗闇に戻った。灯りは転がったランタンだけ。拾い上げて見渡せばアークの側に横たわる骸が映る。

 心臓をひと突きにされた片割れは聖預言者の姿に戻って眠っていた。か細い光で弟の頬を照らして傍らに膝をつく。

 地面を流れる血は己にも染み込んだ。温かだったはずのそれは外気に触れてみるみる温度を失っていく。

 待っていたものは間もなく長い睫毛の隙間から現れた。かつて己から零れた半身。半透明の小さな蟲。

 見下ろした。何もしないでただじっと。小瓶に収めることもせず。

 見つめていた。無言のまま。愛したものが灰になるまで。


(お前もあの水溜まりと同じに消えてしまうのか)


 答えるものは何もない。

 静かで、静かで、やりきれない。

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