第4章 その12
防戦に転じた割にラオタオの体捌きには余裕がある。わざと道を譲ったことには疑いの余地もなかった。その証拠に天帝が暗がりへ消えた途端に狐の動きが機敏になる。薄らいでいた彼の害意が濃度を取り戻すのを感じた。
「こんなことして無事に帰れると思ってんの? 言っとくけど、もうすぐ村の人たちだって加勢しに来るからね」
「帰る? おかしなこと言うね。ここが終着点なのに」
戦意を鈍らせようとして逆に自分が惑わされる。何を考えているのだろう。人を食った表情から読み取れるものはない。
「君のほうこそなんで俺と戦うの? 危ないってわかってるでしょ?」
ほら、とラオタオは腕をひねり、縄鞭を扱うかのごとく曲刀をしならせた。掴みづらい攻撃に翻弄される。どこでどう曲がるか知れぬ斬撃に気を取られ、受け身にばかり回ってしまう。
「……っそんなのあんたたちがアンバーを殺したからに決まってるでしょ!」
それでも反撃の隙を逃すことはなかった。武器を叩き折ってやろうとモモは刀身に狙い定める。力をこめても銀の刃は軽すぎる羽毛のごとくモモの前から逃れていったが。
「あはははは! 見てもないのに自信たっぷりなんだねえ?」
少し開いた間合いの先で愉快そうに狐が笑う。「モモちゃんはさ」と親しげに名前を呼ばれ、ぞくりと背筋が粟立った。この男は一体誰に化けているつもりなのだろう。場にも彼にも不釣り合いな穏やかな声で諭される。
「ダレエンとウァーリが殺ったとは考えないの? 俺たちが逃げおおせたのはアンバーがこっちの味方でいてくれたからなんだよ?」
は、と喉が浅く短い息を吐いた。怒りのあまり指が震える。そんな嘘八百で言い逃れできると思っているのか。
アンバーは考えなしに動く女ではない。テイアンスアンから二人で下山した詩人たちを怪しんだはずである。協力関係にあるからとすぐに力を貸すような真似はしなかった。モモにはそう確信できた。
「そんなわけ……」
だが狐はあっさりとその信頼を否定する。
「だからさあ、手足みたいに使ってたわけ。有能だったし、脅せばなんだって聞いたからね。言っとくけど宿営地に火をつけたのあの女だよ? 俺が息子になんかするかもってずっとビビってたからさあ」
瞬時に冷たくなった声に再び呼吸が停止した。白く染まった脳内を「は?」と疑問符が駆け巡る。
脅されていた? アンバーがずっと?
思わず飲んだ唾の音が喉元でいやに大きく響く。あの火事のとき、彼女だけ一度も現場に来なかった。そのことが急に脳裏に甦った。
「あー、やっぱ知らなかったんだ。まあ普通教えないよねえ。いつまた寝返ることになるかわかんなかったわけだしねえ」
暮れゆく空は影をより濃いものにした。可哀想、と狐の口角が吊り上がる。瞬間、考えるよりも早くモモはその場から飛びのいた。
眼前を横払いの刃が空振りする。「ありゃ」とラオタオが瞬きした。
「動揺してたのに反応いいじゃん」
楽しげな声とともに連続で打ち込まれる。ラオタオは決して俊足の部類ではなかったが、踏み込みも腕の振りも緩急自在でやたらに身体が柔らかかった。思った以上に手首が返る。どんな傾いた姿勢からでも攻撃を繰り出してくる。かわしたはずの切っ先は腕や脚を滑っていった。
「ッあんたがアンバーを脅してたなら余計許せるわけないでしょ……!」
細かな傷には構いもせずに敵の懐へと突っ込む。当てさえすれば重量のある斧のほうが深いダメージを与えられる。肉などいくら切らせてもいいから骨を断ってしまいたかった。こういうタイプは動きを止めれば怖くない。──怖くない、はずだった。
「君って案外薄情だよね」
蔑む声と眼差しに強く注意を奪われる。いけない。これは当たらない。危険を察して横跳びする。
だがなぜか追ってくると思った刃はモモを追いかけようとしない。ラオタオは完全に足を止め、曲刀の先を下げたまま冷淡にこちらを見据えた。
「ほんとに俺を殺しちゃっていいの? 俺が死んだらアンバーの記憶は永久に、この世のどこからも失われるんだよ?」
どうしたら──。どうしたらそんな酷薄な微笑を浮かべられるのだろう。
聞いた瞬間硬直した。全身を巡る血潮ごと凍りついた。何を言われても耳を貸す気などなかったのに。
狐は続ける。くつくつと笑いながら。
「ドブ君てわかる? アンバーの一人息子。サール宮で会ったんだ。ちょっと優しくしただけで真っ赤になっちゃって可愛かったなあ」
動けなかった。動けなくなった。聞くほどに膝が震えて。
この男は知っているのだ。己と出会う前のアンバーを。
彼女がどんな人生を歩み、何を大切にしてきたかを。己にはもはや知りようもないこと全部。
指先から力が抜ける。斧を取り落としそうになる。
倒さねばならぬ仇なのに。こいつらがアンバーを殺したのに。
「あっと言う間に懐いてくれたよ。俺が死んだらあの子一人ぼっちになるね? それでも俺を殺したいの?」
ねえモモちゃん、と問う声は友人のそれに酷似していた。これは狐だ。本物じゃない。言い聞かせても力は戻ってこなかった。
彼女のやり残したことを、記憶もなしに自分が代わってやれるのか。疑念が勇気をしぼませる。だがラオタオは倒さなくては。彼は主君の敵であり、己は部隊の兵なのだから。
「決まってるでしょ……!」
無理やり斧の柄を握る。腰を落とし、勢いをつけ、体重移動を利用して加速した刃を斜め上へと振り上げた。──だが。
「迷っちゃ駄目じゃん。殺すのに」
無意識に小振りになった一撃は軽々とかわされた。
膝を曲げ、胸を反らしたラオタオは右手にしていた曲刀を左側から覗かせる。背後で武器を持ち替えたのだ。気づいたときにはもう遅かった。
「……ッ!」
がら空きの右胴を庇う前に鋭い一閃が放たれる。最初に切られたスカートの、切断跡をなぞるように曲刀は腿から下腹を抉った。




