第4章 その10
アルタルーペの夕暮れは美しい。太陽が傾くにつれて聳える岩壁が薔薇色に染まり、この世のものとは思えない巨大な宝石のごとく輝く。
だが黄昏がどんなに壮麗であろうとも深まる闇を歓迎はできなかった。
夜はこの頃ずっと苦手だ。涙の止め方がわからないから。
(アンバー……)
胸中に友人の名を呟いてモモは沈む夕日を眺めた。マルゴー杉の林を染める眩い赤に目を細める。
岩塩窟の周辺はごく静かなものだった。集落からは距離があるので生活音は響かない。聞こえるのは風の音と鳥のさえずり程度である。正面の林を抜ける坂道を横切るような野生動物もいなかった。
空舞う鷹も特に異状は知らせてこない。その昔、岩塩を荷車に載せるために拓かれた坑道前の小広場では短い草がそよそよ揺れるのみだった。
(そろそろ交代だったよね。寝床って一人で使えるやつかな)
前線に立つことより休息を取ることのほうが不安とは妙な話だ。だが身体はいつでも動けるようにしておかなければならなかった。眠れないなど泣き言を零している場合ではない。彼女の仇を討つのだから。
(ちょっと無理するくらい平気。ここまで来たら長くはかからないはずだし。全部済んだら、そしたらドブともまた話すんだ)
腰に下げた斧の柄を握って唇を引き結ぶ。今のところ見張りの時間は何事もなく過ぎそうだった。山深くでは暗くなるほど行動を取りにくくなるだろうし、今夜の敵襲はないかもしれない。──そう考えて少し油断はしていたと思う。
モモがそれに気づいたのは隣のバジルが声を上げてからだった。目を瞠った弓兵が「え?」と肩を強張らせる。彼の視線の先を見やってモモも驚愕に息を飲んだ。
(──は?)
一瞬思考が停止する。細い林道にはゆったりとこちらに向かって歩いてくる詩人と狐の姿があった。目のいい鷹なら見えていたはずだ。それなのに一度もなんの警告もなされなかった。
「ハイランバオ──」
引き絞られたバジルの弓は、しかし矢を放てなかった。標的のすぐ横を歩く男が前へ出てきたからだ。アークの里の村人が。
(あ、あれって鷹の世話してくれてる……!?)
出し抜かれた。咄嗟に理解できたのはそれだけだった。
こちらはこうも堂々と岩塩窟まで出てこられるとは想定していなかったのだ。少なくとも村民と敵襲を知らせ合う程度の連携は取れるものと考えていた。
どうする、と斧を構えつつ逡巡する。あの鷹飼いがなんなのかわからないと迂闊に攻撃もできない。脅されているのだろうか。それとも元々グルだった? 迷う間に彼らは十数歩の距離までモモたちに接近した。
「……っ!」
バジルが上方に矢を飛ばす。里で待機する誰かの目に留まるように。今ここを守るのは彼とモモの二人だけだ。応援を呼ばねばならなかった。
「うん、いい頃合いに案内してくださいましたね。この人数なら十分に凌げるでしょう。それでは最後の仕上げに入るとしましょうか」
微笑の聖預言者は片手を上げて狐と鷹飼いに合図を送る。腰の曲刀を抜いたラオタオと、がくがく震えて日常使いの草刈鎌を手にした男がモモたちの前に立ちはだかった。
二人を残してハイランバオスはアークのもとへ向かう気らしい。入口の鍵は既に受け取っていたようで、迷うことなく彼は歩を踏み出した。
「行かせるわけないでしょ!」
双頭斧を閃かせ、モモは詩人に振りかぶる。足を狙った攻撃は何気ない軽い仕草でかわされた。即時追撃を試みるも一瞬の間に狐に割り込まれてしまう。
「君の相手はこっちね、モモちゃん」
眼前を旋回した曲刀の切っ先と薄笑いにぞっとした。三日月の形に歪む双眸には猛攻を踏み止まらせる何かがあった。彼は危険だ。本能的にモモは間合いを取り直す。
ちらとバジルに目をやれば鷹飼いを前に彼は取るべき行動を決めかねているようだった。弓に矢をつがえてはいるが腕は少しも動かない。
「射て! ハイランバオスに!」
モモの叫びにハッとバジルは聖預言者を振り返った。三重の鉄鎖は解かれ、扉は開かれ、まさに敵は坑道へ進まんとしている。
至近距離からの速射だったが矢は詩人の身から逸れた。同時に弓兵の甲高い悲鳴がこだまする。
「うわっ! やめ! な、なんなんですか!?」
上空にいた鷹たちがバジルを囲んで攻撃を繰り返すのをモモは愕然と見やるしかなかった。妨害を受けた弓兵はもう預言者の足止めなどできそうもない。
(昼間に飛んでた鷹と違う!? じゃあこいつらジーアンの──)
何も知らせぬはずである。いつからどこまで仕組まれていたのか考える暇もないまま斧を振るう。こちらを撫で斬ろうとしていた曲刀を受け止めると狐は楽しげに「あは!」と明るい声を立てた。
「君、地獄より強いんだっけ? じゃあすぐやられたりしないよね?」
しなやかに身をひねり、ラオタオが二撃目を繰り出す。革スカートを裂いた彼は遠慮など微塵もする気はなさそうだった。




