第4章 その9
どうして彼には己の居場所がわかるのだろう。
不思議な人だ。前々からの友人のように──否、それよりもうんと親しげにこちらに話しかけてくる。
「ね、ドブ君。もう城に戻っちゃいけないよ」
「えっ?」
あの人に会ったのは西空が少し翳り出した頃。厩舎にいたがらぬ馬の一頭を引いてやり、湖岸を散歩していたドブの後ろにふと気づいたら立っていた。
「あれっ? えっ? サール宮におられたんじゃ……」
里の人間に姿を見られていやしないかキョロキョロと辺りを確認してしまう。人口の多い村ではないし、付近は閑散としていたし、狐顔の青年はフード付きのロングケープを着込んでいたから大丈夫だと思うけれど。
「まあまあ、そんなことはいいから。とにかくもうあの古城にもサール宮にも戻っちゃ駄目。わかった?」
聞き覚えのある響きだった。父が死に、蓄えが尽き、罪を犯した母が刑吏に捕らわれたとき、これと同じ声を聞いた。戻っては駄目、行きなさいと。
「────」
胸の奥がざわざわする。なぜか突然、今日限り二度とこの人に会えないような予感がした。
黒ケープを翻して狐男が歩き出す。彼も湖岸に馬を留めているようだ。数は二頭。一頭はあの美しい連れ合いのものだろうか。
「あ、あの」
膨らむ焦燥に突き動かされ、ドブは思わず青年を引き留める。
聞いてはいけない。忠告は受けていたのについ彼に尋ねてしまった。名前を知れば魔法は解けるものなのに。
「あなたは一体誰なんですか」
振り返った青年は何も言わなかった。ただその薄い唇に、面白がるような、慈しむような、判別しがたい微笑が浮かぶ。
「さあね」
男は急いでいるらしい。ちょうど古城のほうから戻った連れとさっさと馬に跨ると、もうドブを一瞥もせずに駆け去った。
「…………」
一体なんだったのだろう。
静まり返った湖の、無人の畔で立ち尽くす。
心を現実に引き戻したのは大きな爆発音だった。
「……ッ!?」
驚いて走り出しかけた馬を大慌てで宥めすかす。断崖に沿う古城を見やれば炎と煙が目に入り、ドブは息を飲み込んだ。──戻っちゃいけない。男の声が耳の奥にこだまする。
(な、なんで?)
知っていたとしか思えないタイミングと口ぶりだ。まさか彼らがやったのかと道の先に姿を探すが気配はどこにも残っていない。
そうこうする間に炎上は進む。勢いを増した火は城壁を舐め焦がし、黒煙がもくもくと窓や矢間から吐き出された。
傭兵団の仲間は皆あの中にいるはずだ。早く助けに行かなければ。馬を近くの木に繋ぎ、ドブは城へと駆け出した。
(使者ってまだ遠乗りから帰ってないよな? モモも確か一緒のはず。客室にいたのって誰だっけ。レイモンドと鉄仮面の騎士?)
滲む汗とは裏腹に心臓は凍りつきそうだ。山岳湖を迂回して、坂道を猛然と突っ走り、小さな城の玄関口──大扉の前まで戻る。
そこでドブはまたも頭が真っ白になってしまった。大扉に、外側から頑丈な鎖がかけられているのである。まるで誰も逃がすまいとするように。
(なんで? 鍵は? 鎖を壊せそうなものは──)
手斧か何か探そうと踵を返したその瞬間、ぶんと耳元で刃の空振る音がした。
本能的に跳び退り、空堀に架かる橋の上にすっ転ぶ。見間違いでなかったらこちらに剣を向けていたのはサール宮の衛兵だった。
「は? 何……」
なぜ戦場で鉢合わせたわけでもないのにマルゴー人がマルゴー人を襲うのだ。尋ねる間もなく再び刃が振り下ろされる。避けきれない。直感がドブの全身をすくませた。
「…………?」
だが剣はいつまでも斬りつけてこなかった。衝撃に耐えるべく縮こめていた身を起こす。おっかなびっくり瞼を開けば兵は橋の向こうまで吹っ飛ばされて伸びていた。代わりにもっと大きな影が息を切らしてドブを見下ろす。
「大丈夫? 怪我はない?」
「あ、は、はい」
どうやらこの青髪の剣士が助けてくれたらしい。彼が乗るのは日頃からよく世話をしている馬だった。栗色の、王子の愛馬。
彼らはここまで全力疾走してきたようだ。大粒の汗を垂らして剣士はドブに問いかけた。
「マルゴー公が使者を殺すのに古城を爆破させたんだ。中の人たちを助けたいから手伝ってくれるかな?」




