第4章 その7
ぐらぐら視界が揺れていた。混乱のあまり。何を考えるべきかもわからず。
ルディアに聞かれた。荒らげた声を。彼女に見られた。取り繕えなくなった自分を。
全部おしまいになったのだと確信する。この失態は取り返せない。今度こそ別れを切り出される。一度決めたら覆すことのない人だ。こちらの言い分などきっと聞き入れてはくれない。──置いていかれる。今度こそ。
(姫様……)
レイモンドはよろけつつ螺旋階段を下りていく。逃げたところで何が変わるとも思えなかったが、それでも少しでも終わりを引き延ばしたかった。
どこで間違えたのだろう。考えるほど胸が苦しい。自分のためにも、彼女のためにも、故郷のためにもいいことをしているのだと信じていたのに。
──惨めじゃないよ。
逃げても逃げても騎士の言葉が追ってくる。そんなはずないと振り払っても。
──『アルフレッド』は本当に欲しかったもの一つ手に入れた。だから惨めなんかじゃない。
許された気になりたくなかった。同じ顔をした別人の言うことなど信じてはならなかった。まだ彼の友人でいたいなら。
それなのにわからなくなってしまう。違うはずなのに似すぎていて。自分は信じかけている。あいつは確かに「アルフレッド」の続きなのだと。
「おーい、誰か見回りサボったか? さっき行ったら門の鍵開いてたぞー」
と、間近で響いた男の声にレイモンドはびくりと立ちすくんだ。一階通路に向かいかけていた足を止め、気配を殺して周囲を窺う。男二人並ぶのがやっとの狭い廊下に目をやれば屯所と思しき一室から兵士が出てくるところだった。
「門が開いてた? おかしいな。俺ちゃんと閉めたのに」
「馬番が忘れたんじゃねえの? ほら、出てったのお前の後だろ」
「ああ、そうかも」
元傭兵団の彼らとは顔見知りだ。見つかれば声をかけられるのは間違いない。今は明るく接する余裕などないし、しばらく一人でいたかった。階段塔に引き返し、そろそろと無人の地下へ降りていく。
こういうとき厨房に来てしまうのは馴染んだ場所だからだろうか。調理台の脇を抜け、火のない箱型かまどの側にようやく身を落ち着ける。ここにもじきに料理当番がやって来るのだとは思うが。
(そしたら上に戻らなきゃな……)
頭のまだしも冷静な部分で思考した。けじめはつけねばならないと。
何もかも失っても自分にはお似合いだ。王女の生きる世界のことも、友人に抱かせた苦しみも、少しもわかっていなかった。一人で成長した気になって、本当は全然何も。
房は暗い。壁掛け燭台で数本の蠟燭がゆらゆら燃えているだけだ。ぼんやりそれを眺めていると幾多の思い出が脳裏をよぎった。
国籍がなく学校にも病院にも行けなかった自分のために、幼馴染が何度力になってくれただろう。将来必ず役に立つと読み書きを教え、計算を教え、病に伏せれば薬を飲ませ、窮地には大金まで用意してくれた。さんざん恩を受けたくせに自分は仇で返したのだ。掴んだ幸せが零れ落ちて当然だ。
ルディアのことも、きっと彼が一番正しく理解していたのだろう。根差した不信を薙ぎ倒す力を手にする覚悟もあった。敗北したのは騎士ではなくて己のほうだ。
(姫様の隣にいていいのは俺じゃない……)
とっくにわかっていたことだった。考えないようにしていただけで。
頭の中で言葉にしてみて痛感する。己の幕は終わったのだと。
悪あがきはもうやめよう。ルディアの考えを受け入れよう。重荷になる前に去らなければ。彼女はそんなに強い女ではないのだから。
(ほんとに好きだったのにな……)
かぶりを振って想いを散らす。諦め悪く生き残ろうとする思慕を。
痛みの生じぬときにしか側にいられない人だった。弱い心を守れなくなればそれきり終わる恋だった。自分なら、とどうして思い上がれたのか。
(俺がしがみついたって姫様を困らせるだけだ──)
そのとき誰かの足音がしてレイモンドは顔を上げた。戻ってから話すつもりだったのに、あちらのほうから後を追いかけてきたらしい。
「レイモンド……」
入口に立っていたのは愛らしい顔立ちの村娘。初めてこの手に抱きしめた女を前に苦く笑う。あの夜はなんて幸福だったことか。己が誰を押しのけたかも露知らず。
ルディアが厨房に踏み込む。レイモンドの正面に歩いてくる。
決然とした王女の顔は嫌いじゃない。最後を飾るにも相応しかった。
「今いいか?」
誤魔化しに付き合うのをやめたのだ。声の響きで伝わった。何を言われても平気なように心を決める。
「……何?」
レイモンドは彼女に問いかけた。できるだけなんでもない風に。荒んだ態度で傷つけてしまうのは別れ際でも嫌だったから。
薄く開かれた唇はしばらく何も告げなかった。どう切り出せばいいか迷っているらしい。ひと言でいいのにと思う。互いのために距離を置いたほうがいいと、それだけ言えば終わるのに。
判決を前にした罪人の気分で待つ。間もなく彼女が詰まり気味に声を発した。
「……アルフレッドに諭されたんだ。お前とちゃんと話をしろと」
だがルディアの口から出てきたのは予測もしない台詞だった。レイモンドは思わず「え?」と聞き返す。
アルフレッドに諭された? なんだそれは? 確かに先程あの騎士は自分のせいで二人の関係がおかしくなったなら忍びないとか言っていたが。
「絶対に側を離れない男が一人いるのだから勇気を持て、何度不信に傾いても信じたいと願う相手を信じてみろと……」
もう遅いかな。小さく問われてレイモンドは息を飲んだ。
別れ話に来たんじゃないのか? 信じられずに見つめ返す。
「お前のせいじゃない。『アルフレッド』を追いつめたのも、死なせたのも両方私だ。私があいつに騎士を夢見させたから。なのにあいつから逃げたくなって突き放したから。だからお前が自分を責めることはないんだ」
「……ッ」
悔恨を耳にした瞬間レイモンドは「んなわけねーだろ!」と否定していた。悲しい自責はやめさせたくて声を張る。
「あんたのせいなんかじゃない。だってどうしようもねーことだろ? あんたが誰も信じられないのは、そういう風に生まれてきたのは……!」
反論に返されたのは穏やかな眼差しだった。どんな心境に至ったらそうまで美しく笑えるのだろう。
ルディアは静かに首を振る。長く豊かな髪を揺らして。
「私だって、お前が私にそう思ってくれるように、お前は何も悪くなかったと考えているんだよ」
細い手が伸びてきて、レイモンドの両手をそっと握りしめた。
なあ、と小さく呼びかけられる。泣きたくなるほど優しい声で。
「いつか言ってくれたよな。不安なら一緒に信じると。今度は私が信じるよ。……信じたいんだ。上手くできなかったとしても」
緩くうねった髪がはらりとレイモンドの胸に落ちた。押しつけられた白い額が震えている。
去っていく者にルディアはこんなことはしない。──しなかった。今までの彼女なら。
「お前のせいじゃない。お前のせいだったとしても私が一緒に背負っていく。だからもう、一人で苦しまないでくれ……」
まだ側にいたいんだ。か細い声が囁いた。
痛みより孤独を選ぶ人なのに。崩れそうな幸福なら捨ててしまう人なのに。
必要なんだと言ってくれる。どうしたら一緒にいられると。
「姫様……」
気がつけば握り合った指先に強い力がこもっていた。わななきながら両手を離す。華奢な背中を、強張った肩を掻き抱くために。
考えてくれるのか。一人で頑張らなくていいのか。それなら己も続けられるかもしれない。ルディアとのことだけではなく。
「姫様、俺──」
耳をつんざく爆発音が轟いたのはそのときだった。
胸にこみあげる愛しさも、安堵の涙も、何もかも吹き飛ばし、グロリアスの古城が揺れた。




