第1章 その8
――さて、商館での一難が去った後、旗艦の雰囲気は以前ほど険のあるものではなくなった。イオナーヴァ島でアクアレイア人の温情を知ったマルゴー兵にとって今や最も憎らしいのはカーリス人となったのだ。
ルディアの見た限りグレッグは海軍兵士に「あんなぼったくりも見抜けずにローガンに儲けさせるとは情けない」とヒソヒソされても言い返さなかった。自分たちの失態と百万ウェルスの重みくらいは承知しているということだろう。多大な借金のあるうちは大人しくブラッドリーに従ってくれそうだった。
そんなマルゴー兵たちに幸運の星が巡ってきたのは船団がイオナーヴァ島を発ち、ミノア島を目指して漕ぎ進んでいるさなかだった。前々から出る出ると噂されていた不届き者とついに遭遇したのである。
「おい、大変だ! アクアレイアの帆船が海賊船に狙われてるぞ! あのままじゃ捕まっちまう!」
マスト頂上の見張り台から降ってきた緊迫の第一声に漕ぎ手たちは「なんだって!?」と顔を上げた。船団はどこまでも青々しかったイオナーヴァ海域を抜け、多島で知られるミノア海域に入っていた。島数が多いということは海賊たちの隠れ潜むポイントが多いということである。襲われているのが自分たちでないとはいえ、非常事態に旗艦は騒然となった。
「状況は!? まだやられてはいないんだな!?」
船長室から即座にブラッドリーが飛び出す。前方の味方船と手旗信号をやり取りしつつ、見張りの兵は「商船は一! 敵船は三! 進行方向は西南西! 我々の前方を横切ります!」と答えた。更に続いた「敵船はカーリス共和都市の旗を掲げています!」との報告にマルゴー兵まで顔色を変える。
「おいおい、またカーリスかよ!? あいつら極悪人じゃねーか!」
「三隻か。よし、軍船五隻はこのまままっすぐ進んで商船保護だ! 残り五隻は旗艦に続け! 奴らの退路を塞ぐぞ!」
ブラッドリーの発した指令はすぐにほかの船にも伝えられた。提督は賓客であるハイランバオスとコナーに奥へ引っ込んでいるよう指示を出す。防衛隊も要人に付き添うべきだったが、あいにくルディアにその気はなかった。
「アルフレッド、客室にはお前が残れ。防衛隊の戦闘指揮は私に委任しろ」
「待て、危険すぎる! むしろそっちが部屋に残るべきだ!」
「案ずるな! 白兵戦に加わるつもりは毛頭ない!」
引き留める声も聞かずにルディアは走り出す。客室から上甲板に引き返すとすぐにバジルの望遠ゴーグルをぶんどった。
レンズには逃げ惑うアクアレイア帆船と囲い込もうと追いかけるカーリスの武装帆船、そして王国民を守りに向かう五隻のアクアレイア軍船が映る。援軍の登場に動揺したらしい海賊たちは慌てて獲物から離れた。
敵船のうち二つは折からの風を受け、ルディアたちの目前をあれよと言う間に逃れていく。だが商船に食らいついていた一隻は逃げ遅れ、ブラッドリーの敷いた包囲網に捕らわれた。
最初に始まったのは矢の応酬だ。貫通力の高い弩は水兵の標準装備である。しっかりとばねを巻き上げて発射すれば強力な矢が遠くまで飛ばせる。敵船と距離のあるうちはこの弩で撃ち合うのが海戦の基本だった。
が、相手側から飛んできた矢は拍子抜けするほど少なかった。おそらく一斉掃射を何度か済ませた後だったのだろう。次の矢をつがえる準備もしない敵を見て旗艦は一気に海賊船へと近づいた。
操縦性の高さでは帆船はガレー船に遠く及ばない。戦闘員の数も雲泥の差だ。ルディアたちの船が横付けになっても敵は誰一人降りてこようとしなかった。代わりに油の入った樽や火種が頭上から降り注ぐ。
「消火良し! ロープをかけろ! 乗り込んで奴らの船を奪え!」
アクアレイア海軍は炎による撹乱ごときに惑わされはしなかった。よく訓練された動きで火を消し止め、怪我人は救護室へと運ばれる。
「よっ、ほっ、はっ!」
バジルも曲芸じみた動きで次々に矢を放っていた。彼の用いる長弓は素人の手には扱いづらいが一分間に最大六度の連射が可能な優れものである。敵陣に飛び込みたくてウズウズしているモモのため、弓兵は突破口となる板梯子付近の危険を取り除いているのだった。
「バジルぅ、まだぁ?」
「まだです! あと五つ数えてください!」
「いーち、にー、さーん、しー、ごー!」
待ての時間が終わるや否や、モモは双頭斧を振り上げて最前線に突撃した。帆船の甲板はガレー船より位置が高い。自陣に残ったルディアにモモの雄姿を見ることは叶わなかったが、彼女に薙ぎ倒されたと思しき賊の悲鳴は聞くことができた。
「お前はいいのか?」
すぐ横で槍を構えて突っ立っているレイモンドに問いかける。すると槍兵は「俺まで行っちゃまずいだろ?」とこちらにウィンクしてみせた。防衛隊長が不在なので護衛役のつもりらしい。単に恩を売る機会の多そうな場を選択しているだけの気もするが。
「それにほら、暴れるのが本業のおっさんたちが目ェ血走らせてるしさ、邪魔しちゃ悪いかなーって」
レイモンドの視線を追うと、グレッグ率いるマルゴー正規軍がカーリス船になだれ込んでいくところだった。
「イオナーヴァ島での恨みだこの野郎ーッ!」
威勢のいい掛け声とともにベキッ、グシャッと穏やかでない音が響く。
アクアレイア海軍も負けてはいなかった。制圧は二時間とかからず完了し、災難に遭った商船は無事ブラッドリーの保護下に入ったのであった。
「っしゃあッ!」
久々に晴れ晴れとした気分でグレッグは勝利の雄叫びを上げた。敵船上には輪になって小躍りする仲間たち。その中心には縄で縛られた海賊たち。これがはしゃがずにいられるかというものだ。
「はーっはっはっ! アクアレイア海軍に見つかって逃げられると思ったか? 全員虜囚にしてやるから覚悟しておけよ!」
汗ばむ頬を拭いながらレドリーとかいう海軍少尉が高笑いする。虜囚と耳にしてグレッグの頭にふと妙案が閃いた。
「なあ、とっ捕まえた賊のうち、何人くらい俺らマルゴー兵の手にかかったと思う?」
「ん? そうだな、カーリスの乗組員はざっと五、六十人だったから、十五人くらいはそっちの手柄なんじゃないか?」
「へえ、そんじゃ適当に十五人、こっちの捕虜にしてもいいよな?」
「捕虜に? ……まあ聞いてみたらいいと思うが」
レドリーはそう言うと様子を見にきた父親を顎で示した。グレッグは営業用スマイルでブラッドリーに歩み寄る。こちらが何か口にする前に有能な提督は要望を見抜いてさっさと叶えてくれたが。
「二十人そちらに渡そう。人質一人につき十万ウェルスは取れる。カーリスに帰れば彼らとてひとかどの商人だからな」
「うおおーッ! 借金帳消しだーッ!」
晴天に拳を突き上げてマルゴー兵たちは感涙に咽んだ。ブラッドリーの手を強く握り、グレッグは「ありがとう! 恩に着るぜ!」と繰り返す。
「っつーか俺たち百万ウェルスをチャラにできて、かつ百万ウェルスの収入を得る見込みになるけどいいのか!?」
「構わんさ。我々は四十人分の身代金と、一隻の帆船と、連中の積み荷を持ち帰れるのだからな」
なるほど、それで立派な衝角を持つガレー船のくせに体当たりで敵船を沈めなかったらしい。やはりアクアレイア人はちゃっかりしている。カーリス人のやり口を思えば噛みつくほどの強欲さではないけれど。
「しっかし商人が賊に化けるとはとんでもねえ話だぜ」
捕らえた敵を振り返りつつグレッグが吐き捨てるとブラッドリーは事もなげに「海運国にはよくあることだよ」と話した。曰く、脱海賊を掲げて違反者に刑罰まで与えているアクアレイアのほうが珍しい国らしい。
「へ、へえ、そうなんだなー」
答えながらグレッグは目を泳がせた。ひょっとして今まで知らなかっただけで、アクアレイア人は相当お行儀の良い部類だったのだろうか。
「この帆船の荷が売れたらミノア島で一杯奢らせてくれ。海賊退治に協力してくれた礼だ」
「お、おう」
紳士そのものの提督を前に急に居心地悪くなる。彼の目には――、否、彼らの目には自分たちがさぞかし無知な田舎者に映っていたのではなかろうか。
「いいなー」
と、唐突に腰の辺りで響いた声にグレッグは「うおっ!?」と飛び上がった。見れば先刻ピンクの髪を振り乱し、鬼神のごとき戦いぶりを演じていた少女と目と目が合う。
「い、いいなってなんだよ。分け前はそっちだって貰えるだろ」
「貰えないよー。海賊から押収した金品は全部国庫に直行だもん。それにモモがいいなって言ったのは別のことだし」
「へっ? じゃ、じゃあなんだ?」
「傭兵って戦えば戦うほどお金になるんでしょ? ほんと羨ましいなって」
モモという名の少女は深々と溜め息をついた。そう言えばアクアレイア政府は自国の民が他国の雇われ兵になることを認めておらず、傭兵業に就いた者は永久追放に処されると聞いたことがある。かの国も案外自由ではないようだ。
「あーあ、モモもマルゴーに生まれたかった! そしたら今頃大金持ちだったのに!」
ほかでもないアクアレイア人からの羨望を受け、グレッグはなんとも言えぬ喜びを味わった。いつだって貧しいマルゴー人ばかりが彼らを羨んできたのだ。公国のほうがいいと言われて頬が緩まないわけがない。
「へへっ、確かにな。嬢ちゃんほどの腕があれば稼ぎ頭になれただろうよ」
「でしょー!? アクアレイアはもっとモモの才能にお金くれてもいいと思うの!」
「うんうん、これがマルゴー公国なら実力に応じた助成金がたんまりと……」
「あーん! モモ生まれる国間違えたー!」
わっはっはっとグレッグは少女の嘆きを笑い飛ばす。そうだ、恥じ入ったり妬んだりする必要はどこにもない。マルゴーだってしぶとく図太く生き延びている素晴らしい国なのだ。
「まあいいけどねー。アクアレイアにもいいとこはあるし」
「おっ? そりゃどんなとこだ?」
「うーん、レイモンドみたいに適当でもそこそこ儲けが出るくらい商業が保護されてるところかなー」
返答にグレッグはぶっと吹き出した。確かにな、と思わず頷く。
(話してみねえとわかんねえもんだなあ)
アクアレイアに対しては少なからず偏見があったようだ。治療を拒んだ軍医でさえ金を貸そうとしてくれたのだから、これからはいい奴も皆無ではないと、まあ覚えておいてやろう。
以後船旅は何に煩わされることもなく、船団は順調に予定を消化していった。
ミノア島を出航したのが八月二十日、東パトリア帝国の首都にして世界最大の湾港都市ノウァパトリアに到着したのが八月三十日のこと。二年ぶりに商業の聖地を臨んだアクアレイア人の喜びは筆舌に尽くしがたいものだった。
ノウァパトリア――パトリア新都とも呼ばれ、古王国以上の栄華を誇るこの都市こそアクアレイアの心臓である。交易は相手なしには成り立たない。王国にとってその相手とは東パトリア帝国にほかならなかった。
ノウァパトリアの対岸には五年前にジーアンの新しい首都となったバオゾの街が広がっている。ごく狭い海峡を挟んで都と都は静かに向かい合っていた。
天帝のプレッシャーを心のどこかに感じつつルディアは海を睨み据える。
明日はいよいよバオゾ入りだ。心してかからねばならない。
(待っていろ、ヘウンバオス。絶対に通商安全保障条約を認めさせてやる)
恐れはしない。何があろうと聖預言者はこちらの味方なのだから。
拳を固め、ルディアは港に降り立った。




