第4章 その5
「謝らないといけないんです」
男は言った。落ち着いた葡萄酒色の双眸に確かに悔いを滲ませて。
暗い部屋に持ち込まれた応接ソファのテーブルにはインクの乾きを待つ便箋。視線がそちらへ引き寄せられる。癖のある、だが几帳面な字で「悪かった」と綴られた。
「酷いことを言ってしまって……」
語りながら彼は書き終えた二枚目を一枚目の隣に並べる。読んでいいものかわからずに記憶の主──アニークはついと目を横に滑らせた。
幼馴染のレイモンド。死刑囚が最後に過ごした貴人用の独房でよく出た名前の一つである。アニークはほとんど会ったことがない。レーギア宮にパディを連れてきた彼と挨拶を交わし、レガッタの日にガレー船で声を張る姿を遠目に眺めたくらいだ。
「喧嘩したの?」
案じる響きの声は自身から発された。所在なさげに胸の前で褐色の細い指が絡んでいる。
問いかけに「アルフレッド」は苦笑した。ええ、と短く声が返る。
「俺がどうかしていたんです。あいつは何も悪くないのに、一生懸命頑張ったのに、褒めるどころか認めることもできなかった。……本当に、すまなかったと思います」
詳細は依然不明のままだった。わかるのは騎士物語と同じように主君を巡る恋の争いがあったこと、それだけだ。レイモンドが勝利して「アルフレッド」は敗北した。どうやらその鬱憤を──厳密には異なる感情かもしれないが──相手にぶつけてしまったようだと。
「…………」
アニークは何も言わなかった。迂闊なことを尋ねて傷を抉りたくないのだ。
彼女は黙って慕う男を見つめている。残り火に胸を焦がして。
「でもこの遺書は届かないと思います。国家反逆罪の死刑囚と関わりがあると困るので、委員会が燃やすだろうなと。あいつ偉くなったから」
目線は一瞬、再び遺書に向けられた。逆さまのアレイア語。どうにかそれを読み取ろうと努力する。
そこにヒントがあるはずだった。レイモンドだけがいまだ己に寄りつこうとしない理由。槍兵のわだかまりを知るための。
「私が預かる? 何があっても届けるわよ」
申し出に「アルフレッド」は首を振った。支給された便箋は数を数えられているから誤魔化せない。それに十人委員会が国のためにすることに逆らう気は毛頭ないと。諭されてアニークが小さく唇を尖らせる。
「……届かないのになぜ書くの?」
返事はすぐにはなされなかった。ゆっくりと「アルフレッド」がアニークを見つめ返す。口元に静かに優しい微笑を浮かべて。
「もしかしたら、思い出せるかもしれないので」
あのとき彼はもう考えていたのだろう。自分が誰と接合することになるか。何も知らないアニークは「そんな奇跡は起きないわ」と悲しんでいたけれど。
──謝らないといけないんです。
きっぱりとした声がまだ耳の奥に残っている。
閉じた瞼を開いても。
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サール宮へと急行するブルーノを三人で送り出した後、グロリアスの古城は微妙な雰囲気に包まれていた。今まではモモにバジル、ヘウンバオスまで一緒だったから緩和されていた緊張がありありと浮かび上がって。
今のうちに仮眠を取ろう。そう言い出したのは槍兵だ。主君も彼に頷いて、アルフレッドは従った。二人の眠りを守ったり、自分が休ませてもらったり、何時間かは穏便に消化できたと思う。睦み合ってゆっくり過ごせるはずなのに甘い視線すら交わさないルディアとレイモンドを気にかけながら。
(ああ、夢か。アニーク陛下の──)
目を覚ましたのは夕暮れ前。もう一時間もすれば西空が赤くなりだす頃合いだった。
あてがわれた客室の柔らかなベッドで起き上がる。相変わらず隣室から響く談笑の声はなく、ずっとばらばらでいるつもりかと嘆息した。
わかっている。不協和音の原因が己にあるということは。
アークの件が片付いたら。そう考えていたけれど、あまり悠長に構えるべきではないかもしれない。放っておくほど身動き取れなくなりそうだ。
(……今行くか)
意を決し、アルフレッドは身支度を整えた。胸甲、腕甲、脚甲は着けたまま横になったからベルトを正して剣を帯び直すだけである。
コンコンとドアをノックした。続き部屋の客室で椅子の揺れた音がする。
「姫様は?」
開口一番アルフレッドはそう尋ねた。豪華な調度品に囲まれたレイモンドの客室にやはり主君の姿はない。なぜ二人とも互いを恐れているのだろう。恋人だと、誰に聞いても同じ答えが返るのに。
「……あっちの部屋でまだ寝てる」
半端に椅子から立ち上がった槍兵は顎で奥の客室を示した。彼の濁った目に滲むのは敵意や害意の類ではない。そうではないのに翳りが消えない。
どう問えばいいのだろう。悩んで結局別の話を持ちかけた。「暇なら手合わせでもしないか?」と。
「いや、俺はいいよ。大体客室でそんなことできねーだろ」
「バジルの部屋を空ければいい。あそこは物が少ないから運べばすぐだ」
「……遠慮しとく」
「だが待つ以外何もすることがないだろう?」
「気分じゃねーんだ。悪ィけど」
つるむ気はないと主張するようにレイモンドは円卓の小椅子に腰を下ろす。卓上には急な商談用に彼が持ち歩いている騎士物語が置かれていた。本の中に逃げ込めば諦めると思ったか、ページを捲って読んでいるふりなどされる。
希望通りに行動するなら部屋を出ていくべきなのだろう。だがアルフレッドはそうしなかった。今までのような様子見は。
「どうして俺を避けるんだ?」
真正面から問いかける。レイモンドはぴたりと全身の動きを止め、それからゆっくり顔を上げた。
「避けてねーよ。何言ってんだ?」
口元は笑っているが目はまったく笑っていない。けれどまだ噛みつくまいとする理性は感じる。どこまでまともに話し合えるのか。先は見通せなかったが怯むことなく話を続けた。
「嘘をつかないでくれ。お前が一番俺に関わろうとしない」
ぱたりと本が閉ざされる。槍兵の表情はかけらも穏やかでなくなっていた。取り乱さないのが不思議なほどだ。彼は冷たく双眸を歪め、先程と同じ台詞を繰り返した。
「だから避けてねーって」
今だったら見逃してやる。そう脅かされている気がした。
だが聞かない。こちらにも言っておかねばならないことがあったから。
「何が受け入れられない? 俺が『アルフレッド』とは別人だということか?」
「いい加減にしろ。お前しつこいぞ」
応対の声は次第に荒れたものに変わった。
レイモンドが立ち上がる。おそらくこちらを追い払うために。
──思い出せるかもしれないので。囁きの後「アルフレッド」の続けた懺悔が甦る。それだけは今どうしても彼に伝えておきたかった。
「『アルフレッド』を追いつめたのは自分だと悔いているからか? 死んだ男の代わりを受け入れられないのは」
聞いた途端に絶句する。アルフレッドを黙らせるべく眼前に歩んできていたレイモンドが。
どうしてお前にわかるんだ。瞠られた両の目がそう言っていた。
赤を映して瞳が揺れる。呼吸までも停止させて。
「……アニーク陛下と過ごした最後の一週間『アルフレッド』はずっとお前を気にしていたよ。お前が一番自分を責める。何も悪くないのにと」
仲直りできなかったから、と言えば槍兵は震えて半歩後退した。
強張った顔。こちらを見やる凍えた双眸。
できるだけ真摯に向かい合う。自分はきっと彼にとっては他人だけれど。
「『アルフレッド』はお前を責めていなかった。自分のせいで罪悪感を抱かせたかもと悔いていたくらいだ。本当に」
「…………」
レイモンドはしばし無言で立ち尽くした。ほかにどうしようもなさそうに。
わななく唇が吐き出すのは苦しげな息ばかりだ。握り拳にも行き場がない。
何が巡っているのだろう。その思考に。その胸に。
覚えていないのがもどかしい。「アルフレッド」の声を届けられるのはきっと己だけなのに。
「……あいつが責めてなくたって俺のせいだろ。あいつが一人で悩んでたのに気づかなかった俺のせいだろ? 頼むからもう黙っててくれ! アルの顔で、アルみたいに、許そうとしないでくれよ……!」
逸らされて目が合わなくなる。余計なお世話だと全身が拒絶していた。
罪の意識を手放せぬ彼を見つめてアルフレッドは嘆息する。「放っておけないだろう」と。
「お前が苦しむことはないんだ、レイモンド。姫様と笑って楽しく過ごしても『アルフレッド』は恨まない。婚約者なんだろう? 俺のせいで二人の関係がおかしくなったなら忍びないよ」
槍兵は首を振った。本当にもうやめてくれ、と掠れ声が小さく乞う。
「俺のせいだっつってるだろ! 人を妬むような奴じゃなかった。それなのに俺があんなこと言わせたんだ。お前といると惨めになるって、自分だけ何も手にできなかったって……!」
息継ぎできずに槍兵の肩は上下に震えていた。汗か涙かわからない滴が彼の足元で跳ねる。
伸ばそうとした手は力任せに撥ねのけられた。レイモンドは顔を上げない。ただ己の罪状を、彼が罪だと信じる罪を嘆くだけだ。
「あいつは俺をずっと助けてくれたのに……! 俺はあいつに恩返ししなきゃならなかったのに……!」
重すぎる荷に潰されたような猫背。どう支えればいいのだろう。
わからない。聞いて受け止めるしかできない。
「俺がしてきたこと全部、アルを苦しめただけだった……!」
幸せになろうと思ってしたこと全部。そう呟いて彼が泣く。肩を落として、さめざめと。
それを聞いて、ああ、とようやく合点した。酔っ払った「アルフレッド」の吐いた暴言がどんな暴言だったのか。酷いことを言ってしまったと悔やむはずだ。祝福すべき成功に彼は呪いをかけたのだ。二度と自分の幸せを純粋に喜ぶことができなくなる、そういう忌まわしい呪いを。
何をしていてもレイモンドは苦しかったに違いない。当たり前に信じてきた正しさを、良かれと思って積み上げた一つ一つの行いをすっかり信じられなくなって。
彼の時間はそこで止まったままなのだ。
だから二人目を認められない。
「惨めじゃないよ」
言葉はするりと口をついた。
レイモンドの目がこちらを向く。疑わしげに。縋るように。
見つめ返して断言した。
「『アルフレッド』は本当に欲しかったもの一つ手に入れた。だから惨めなんかじゃない」
絶対に、と強く告げる。ここにいる己がその証明だから。
かじかんだ唇が「でも」と動くのが見えた。震える問いに首を振る。
「思うようにならなくて追いつめられていたかもしれない。だけど彼は自分の道を見つけたんだ。でなきゃ俺はもっと違う俺だった。そうだろう?」
返事はなかった。それでも語りかけるのをやめなかった。
今すぐにでなくてもいい。いつかわかってくれればと。
「お前の努力は正しかった。望みを叶えて当然だ。『アルフレッド』も俺と同じことを言うよ。……だからレイモンド、もう気に病まなくていいんだ。お前は何も悪くない」
そのときギイと音を立て、奥の部屋の扉が開いた。不穏を察してルディアが中から出てきたのだ。
レイモンドが身を翻すのは早かった。恋人に何を言われると思ったか、彼は額を真っ青にして客室を飛び出した。




