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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第4章 迷い子たちの答え合わせ
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第4章 その3

 一人きりになった部屋を見渡して息をつく。室内はあまりに静かで、ほんの一分前のやり取りが未練の見せた幻のように感じられた。

 チャドは何も掛かっていない壁を仰ぐ。そこに飾られていた一幅の絵は目にしなくても思い出せた。物心ついた頃から身近にあったものだから。

 パトリア神話の英雄譚。水害をもたらす蛇に捧げられた生贄姫を救うべく、半神半人の英雄が戦う。不死の力と引き換えに大蛇を滅ぼす矢を得た彼は最後に愛する人を救い、自らは命果てるのだ。

 死せるさだめを受け入れよ。さすれば汝は真に不滅なものとなろう。

 詩人の紡ぐその言葉はマルゴーという国にどこまでも相応しかった。多くの人命を失って達成されたサールリヴィス河の護岸工事は岩塩業の基盤を確かなものにした。同じように父は数多の犠牲を払って銀を掘り、永遠の王権を手に入れようとしたのである。だが己にとってここにあった絵は、そんなこととは関係なかった。

 愛とは我が身を滅ぼしても想う人のもとへと向かう心である。チャドにそう教えたのは同じ絵だ。

 滅びても構わなかった。ドナ・ヴラシィの連合軍にアクアレイアが襲われたときも、祖国から北パトリアへと逃げ出すときも、妻のためならいつでも我が身を投げ出せた。──けれど今は。


(所詮は私も公爵家の男なのだな)


 愛は揺らいだ。姫の正体をこの目にして。

 わからなくなってしまった。自分が何を愛していたのか。

 幻だったのではないか? そう疑った。妻と思っていた人の、わかった気でいたこと全部。何も知らなかったから、言葉も態度も都合良く解釈して一人で夢に浸っていたのではないのかと。

 その程度だったのだ。だから彼の想いから逃げた。あのときもっときちんと話し合うべきだったのに。


 ──僕はもう、誰とも結婚しないし誰も好きになりません……!


 悲痛な叫びを何度思い返しただろう。偽りを詫び、本心を告げてくれた人を突き放した日のことを。彼の嘘を責めたくせに己自身は欺瞞に頼った。本当は父や姉を糾弾する資格もない。自分だって二人と同罪なのだから。

 仕方ない。貴族とは、政治とはこういうものだ。言い訳して立ち向かおうとしなかった。己の想いが本物だったかどうしても信じられなかった。

 国のためと言ったことに嘘はない。ないけれど、やはりそれは逃げだった。応える自信がないだけだ。こんな未練に立派な名前をつけるだけの。議会にも入れぬ身なら愛に生きようと固く誓ったはずだったのに。


「チャド? ここにいるかしら?」


 と、ノックの音が室内に響く。扉を開けたのはティルダだった。前室に兵が一人も待機していなかったせいか姉は訝しげにチャドを見やる。だが特に小言を受けることはなかった。彼女の横に高位の客がいたからだろう。


「チャド様、準備は整いましたか? なさりたいことは今のうちにお済ませになってくださいね」


 優しいパトリアグリーンの目がとりわけ柔らかに細められる。パトリシアは金の縁取り華やかな外套を身に纏い、もういつでも婚礼馬車に乗り込めそうな雰囲気だった。本当にマルゴーでの生活は終わるのだ。寂寞を伴う実感に少しだけ苦しくなる。


「そうですね。最後に城を見て回ってもいいですか?」


 今なら胸壁の歩廊からブルーノを見送るくらいできるだろうか。そう思い、チャドは散歩の提案をする。パトリシアは断らなかった。隣の公女と、いつも連れ歩いている女騎士に目配せして「ご一緒しますわ」と歩き出す。

 女たちの軽やかな歩みに続き、チャドも静かに自室を離れた。もう戻ることはないだろう。長く過ごした一室に心の中で別れを告げた。


「あ、王子! ひょっとして今から出発ですか!?」


 グレッグが合流したのは外へと続く通路を進む途中だった。客人を送り終え、彼は急いで駆け戻ってきたらしい。乱れたお仕着せにティルダは眉をしかめたが、こちらは気にせず彼も一行に迎えた。


「いや、もう少し城の空気を吸っていくよ」


 お前も来いとチャドが誘えばグレッグはこくこく頷く。そうして総勢五名で屋根のない歩廊に出た。跳ね橋を見下ろす城門塔のすぐ脇に。

 広がる景色は壮観だ。アルタルーペを背に負って青く輝くサールリヴィスと白い街並み。眼下には黄金細工の馬車の列。

 ブルーノの姿は見つけられなかった。おそらく彼はまだどこかで馬を待っているのだろう。婚礼馬車の傍らにはパトリシアの護衛兵たちが行儀良く控えるのみだった。


「寂しくなるわね」


 馬車の一群に目をやってティルダが小さく声を落とす。我が姉ながら呆れた台詞だ。チャドの結婚に関して結局彼女はなんの見解も示さなかった。きっと祖国のためだからと諦めたのに違いない。これまでとなんら変わらず。

 あなたには知らないでいてほしかった。ティルダは秘密を明かすとき、必ずそう前置きした。ルースに頼んだ仕事のことも、銀山のことも、チャドの耳に伝えられたのはどうあっても隠し通すのが不可能になってからだった。

 愛されてはいたのかもしれない。だが信頼はされていなかったし、愛もまたそれほど強固ではなかった。姉には姉の苦悩があったのだと思うが。

 ふと目を移せばグレッグが思いきり不愉快そうに眉間にしわを寄せている。彼のこの正直さが己にはよほど好ましい。残していくのが不憫なほどに。


「すぐにお慣れになりますよ。私がサール宮を出るのだってこれが初めてではないのですから」


 返事はない。誰からも。ティルダも、パトリシアも、マーシャも、グレッグも、チャドの気が済んでほかの場所に移るのをじっと黙って待っている。

 立ち込める空気のせいで胸壁を守る衛兵たちまで気まずそうだ。婚礼馬車を送り出す関係か、今日は階下の警備が厚く歩廊の人員は数名だった。いつもの己なら気を回して早めに立ち去るところだが、今だけは許してもらおう。明日にはいなくなる男なのだから。

 どれくらい風に吹かれて城門を眺めていただろう。やがて濃紺の髪の青年が跳ね橋に現れる。こちらには気づいていない。不安げな彼の眼差しは門の奥、預けた馬が連れられるはずの方向に注がれていた。


(ブルーノ君……)


 苦笑を浮かべて見下ろした。

 幸せになるといい。私に言ったことなど忘れて。

 ほんの短い祈りを捧げる。優しい彼に多くの祝福があるように。

 さあもう行こう。高貴な聖女を待たせすぎた。


「うわっ!? な、何事ですか!?」


 誰かの駆け込む足音が城門を騒がせたのはそのときだ。

 チャドは聞いた。逼迫した父の怒号を。

 良からぬ事態が起きたのだと知らしめる強い命令を。


「その者をひっ捕らえよ! 抵抗するなら殺してもいい!」


 ブルーノは駆け出した。

 短いマントを翻し、まだ馬も返らぬうちに。

 目を瞠る。逃げた剣士の後を追い、城門塔から何人も兵が飛び出てくる。

 小堀の前の坂道は大捕り物の舞台に変わった。足の速い兵が彼に追いついて長い槍の先を突き出す。ブルーノはからくも攻撃をかわしたが、逃げる速度は殺がれてしまった。


(な、なぜだ? なぜ彼を攻撃する? ジーアンの使者なのだろう?)


 チャドはごくりと息を飲む。殺してでも捕えよなど正気の指示には思えない。そんなことをしなければならないほどまずいものを目撃されたのでなかったら。


(まさか城内でハイランバオスに会ったのか?)


 自分が「いる」と言わなかったから、自力で探し出そうとしたのでは。城の裏への回り方なら彼は知っているのだから。

 はっとチャドはすぐ横の衛兵を振り返った。男の構えた弓と矢はキリキリと音を立て、ブルーノの背を狙っている。何を考える暇もなく気づけば体当たりしていた。


「うわっ!」


 よろめいた兵は弓を取り落とす。矢筒からも数本の矢が転がった。


「……ッ!」


 何をする気だと自問する。だが見ぬふりはできなかった。今にも数人の兵に囲まれそうな彼を。


「ぐわッ!?」

「あぐ……ッ!?」


 鎖帷子を貫通して矢を受けた兵士たちがうずくまる。軌道を辿ってこちらを見上げた青年が顔色を変えた。どうしてと唇が動く。


「な、何やってるんすか王子!」


 グレッグの問いには答えなかった。答えている余裕などなかった。

 足が勝手にパトリシアのもとへ駆ける。腕が勝手に聖なる王女を拘束する。

 手には剣。つい今グレッグの腰から抜いた。


「誰も動くな! 彼を追いかけるのをやめろ!」


 歩廊から響かせた絶叫は下の兵にも伝わったようだった。細い首に剣の刃を添わされたパトリシアを見て古王国の護衛兵がマルゴー兵を押し留める。時計の針が止まったように全員その場に固まった。


「チャ、チャド? どういうつもり? パトリシア殿下を離しなさい!」


 突然乱心した弟にティルダは真っ青になっている。ツインテールの女騎士は敵意のこもった双眸でチャドを睨みつけた。


「貴様、自分が何をしているかわかっているのか!?」


 そんなこと己が一番己に問いたい。終わりにしたはずなのに、すべて忘れるはずだったのに、なぜ反逆としか言えない真似をしているのか。

 彼はこの隙に逃げただろうか。まだもたついているだろうか。いずれにせよこのままでは逃げきれないのは明らかだった。


「……グレッグ。下に私の馬がいる。車にはまだ繋がれていないはずだ。彼を助けにいってくれ」


 藪から棒の命令に元傭兵団長は「は!?」と声を裏返した。姉も「チャド!」と諫める口調で怒鳴りつける。


「お前の主君としてではない。友人として一生のお願いだ。頼むからあの子を死なせないでくれ……!」

「なっ……」


 グレッグは狼狽した。当然だ。チャドとブルーノの関係も、城に来た秘密の客が誰なのかも、この男は一切何も知らないのだ。

 卑怯だとわかっていながら友人という言葉を使った。巻き込む危険の大きさも承知のうえで。


「お前にしか頼めないんだ……! グレッグ……!」


 泣き落としに折れた彼は「だあーっ!」と大声で叫んだ。疑問は飲み込んでくれたらしい。歩廊を塞いでいた兵士らを突き飛ばし、歴戦の戦士はそのまま階下へと走り出す。


「あんたのお願いじゃなきゃ聞いてないですからね!」


 残響は足音とともに遠ざかった。それからすぐに誰かが門を抜け、跳ね橋を渡り、馬に跨った気配がする。

 愛馬のいななき。聞いて少しほっとした。その隙をつき、捕らえていた聖女が肘でチャドの肋骨を痛打した。


「っ……!」

「パトリシア様!」


 間を置かず、ぴったりの呼吸で女騎士がレイピアを振り翳す。

 こちらの剣は振り遅れた。気づいたときには武器は弾き飛ばされていた。


「チャド! 大人しくなさい!」


 ティルダの合図で四方から兵がにじり寄る。

 丸腰では抵抗の余地もない。できたのは眼下にブルーノとグレッグがいないのを確かめることだけだった。


「……獄に繋いで。処分は後で伝えるわ」


 唇を噛む姉は、暗に公爵家の次男だろうと無事では済まないと言っている。暴挙に出た自覚はあった。古王国への詫びとして自害を求められるほどの。

 死せるさだめを受け入れよ。さすれば汝は真に不滅なものとなろう。

 どうしてかあの言葉を思い出す。取った行動は英雄的とは言いがたいのに。

 それともこれが神話の真実なのだろうか。最初から最後まで衝動だけだった。守り通したいという。たとえ我が身を滅ぼしても──。


(なんだ。ちゃんと愛していたんじゃないか)


 馬鹿だなと笑う。今頃になって気づくなんて。

 兵の手がチャドに縄をかけた。きっともう届かない。

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