第4章 その2
己の思い上がりだった。あの人なら味方になってくれると期待したことも、説得すれば結婚を止められると考えたことも。チャドにはチャドの立場があり、祖国を案じる気持ちがあるのに。
(僕、いつまで自分が配偶者のつもりなんだろう? とっくに振られてるくせにな……)
グレッグの半歩後ろをブルーノはとぼとぼ歩く。終わったことだと首を横に振られたら反論なんてできなかった。こうしてどんどん無関係の他人になっていくのだろうか。少しずつ父が己を認識しなくなったように。
「なあ、あんた王子となんかあったのか?」
と、石の通路を先導していた元傭兵団長がぎこちなくブルーノを振り返る。目尻に残る涙を拭いて「いえ、何も」と否定した。中での会話は聞こえていたに違いない。グレッグは嘘をつけという顔をしている。
妙な疑いを持たれたくなかったのでしばし無言を貫いた。ずっと反応せずにいるとあちらも追及は諦めてくれる。
(なんで上手く行かないのかな)
いつだってチャドは心から伴侶を愛し、大切にしてくれた。まだその想いが残っていると過信したのかもしれない。差し伸べればこの手を取ってもらえるに違いないと。
(やっぱり馬鹿だよ、僕)
かぶりを振って失意を払う。もう忘れねば。チャドは応じられないと明確に拒んだのだから。
あの人もルディア側の人間なのだ。決して責務を放り出さない。思うままに生きることなどそもそも考えてもいない。それでも彼には不幸になってほしくなかったのに。
(もうやめろ。ここへ来た目的を思い出せ)
ブルーノは己の胸に言い聞かせた。こんなところまで足を運んだのは自分のためでもチャドのためでもないはずだ。ルディアに成果を持ち帰らねば。意を決めてグレッグに「あの」と小さく呼びかける。
「案内はここまでで結構です。あなたは王子の側にいてもらえますか?」
「へっ」
申し出に驚いて元傭兵団長が足を止めた。賓客を放って戻るなど普通の兵はまずしない。だが彼はじきに城を去る主君とブルーノを秤にかけ、主君のほうを取ったようだった。
「そ、そうか? まあちょいと入り組んだ城だけど、そこの階段降りれば後はまっすぐに行きゃいいから」
グレッグの関心はもう上階の、出てきた部屋に向いている。客人を送る間にチャドが行ってしまうかもと心配だったのかもしれない。腰から下は大急ぎで引き返す体勢に変わっていた。
「わかりました。ありがとうございます」
お辞儀と同時、グレッグは駆け足でいなくなる。その足音が聞こえなくなるとブルーノは息を潜めて道案内とは逆方向に進んでいった。
(気を取り直して頑張らなきゃ)
亡命者として初めて宮殿入りしたとき、使ったのは裏口だった。サール宮は表と裏が非常にはっきり分かれている。通路は一部しか交わらず、小間使いが不便な思いをしているのではと気がかりになるほどだ。
今にして思えばやましい用件で公爵家を訪ねた者は皆裏から招かれていたのだろう。つまりハイランバオスとラオタオが見つかるとしたら、そちら側以外有り得なかった。
(客室……は場所はわかるけどさすがに入れないだろうな。本当にあの二人が城にいて、今から何か動く気なら裏口のほうに来るかも?)
そろそろと足音を忍ばせて裏手の森に繋がっている出口へと向かう。誰にも見つからないように冷たい石壁にへばりつき、見つかったときのために旅券を握りしめながら。
だが異なことに通路に兵士の姿はなかった。下男や下女も同じくだ。石造りの暗い廊下はしんと静まり返っている。
(王子が出立間近だから人手が取られてる、のかな……?)
それにしても妙な話だ。召使いだけならまだしも衛兵まで見かけない理由は浮かばない。見張りのほかに別の任務を与えられているのだろうか? しかしそれこそ一体何を?
「ではそろそろ行ってまいりますね。花婿行列の最後の支度に皆さんの注意が逸れている隙に」
「くれぐれもお気をつけくだされ。うちの兵士に手伝えるのは古城の封鎖までですので」
不意に響いた話し声にブルーノは呼吸ごと停止した。即座に壁に張りついて曲がり角の先にわずかだけ顔を出す。
(ハイランバオス……!)
あっさり辿り着いた裏口には目当ての男と公爵がいた。なんの打ち合わせをしているのだろう。漂う不穏な雰囲気にごくりと思わず息を飲む。
「古城の封鎖ねー、ふふふ。古くなっちゃった鍵なら非常時に開かないこともあるかもだもんね」
この集まりにはハイランバオスだけでなくラオタオも参加しているようだ。聞き捨てならない狐の台詞に耳が跳ねた。
(古城ってグロリアスの城のこと? 封鎖? 非常時って何?)
疑問は尽きぬが直接尋ねるわけにもいかない。もどかしく見守るうちに詩人たちが馬に乗った気配がした。響いたいななきは複数。少なくとも十頭は門の先にいるらしい。
「どかんと爆破いたしますが、恨まないでくださいね。我々はあなたの代わりに使者を仕留めてさしあげるのですから」
指先が凍りつく。
なんだって? 今ハイランバオスはなんと言った?
古城を破壊するつもりなのか。ルディアたちの留まる城を。
「朗報をお待ちください。大船に乗ったおつもりで!」
蹄の足音が遠ざかる。だがそれよりも心臓の音が大きくてほとんど耳に入らなかった。がくがくと身震いしつつブルーノはどうにか通路を戻り始める。
(し、知らせなきゃ。早く皆に)
冷静では多分なかった。声を上げたり物音を立てたりこそしなかったが。
手元から旅券がひらりと舞い落ちたことにブルーノは気づかなかった。己が去ったすぐ後に公爵がそれを拾い上げたことにも。
(なんで爆破? アークのほうに来られると邪魔だから?)
足早に引き返す。走っているのと変わらぬ速度で。グレッグと別れた通路が見えてくると汗を拭い、何食わぬ顔で城門塔へ入っていった。
ここさえ抜ければ安全だ。手早く馬を引き取ってハイランバオスたちよりも先にグロリアスへ戻らなければ。惨劇が起きるその前に。
「ああ、お祝いは終わったので?」
門番がどうぞと道を空けてくれる。じきに婚礼行列が出発する予定だからか格子門は一番高くに上がっていた。河に架かった橋のほうも開放されているとしたら関所ではさして手間取らずに済むかもしれない。
(急いで帰って何時間だ? 馬の足はもつのか?)
跳ね橋のたもとでブルーノは馬を待った。まだだろうかと気を焦らせて。
旅券がないのに気がついたのと公爵が駆けてきたのは同時だった。
老君主は血相を変えている。息を切らし、目を見開き、ティボルトは大きく声を張り上げた。
「その者をひっ捕らえよ! 抵抗するなら殺してもいい!」
預けた馬はまだ連れられていなかった。
自分の足でここから逃げ延びるしかなかった。