第4章 その1
父に無視されるようになったのはいつ頃からだっただろう。「忙しいから」とモリスの家に預けられ、そのまま数日放っておかれることが増えたのは。
拒絶された。愛されなかった。ブルーノが「ブルーノ」とは違うから。
仕方ないと諦めたのはいつ頃からだっただろう。何度も何度も傷つくことに耐えられず、己も父も互いを無色透明にした。
王女の身体を失って猫に本体を移してもチャドは変わらなかったから、少し期待してしまったのだ。この人なら愛し続けてくれるかもと。
自分という不確かなものを誰かに認めてほしかった。ここにいていいのだとわかるように名前を呼んでほしかった。本当のことを知った後でも。
身勝手な考えだったと思う。嘘をつかれた側にとって偽者は偽者でしかないのに。己が本当に手を尽くすべきは真実と対峙する人の衝撃をやわらげることだったのに。
何もできない。彼のためにはもう何も。ずっとそう思っていた。
だがまだ助けになれるだろうか? こんな自分でも、嵐の中に身を置かれてしまった彼の。
「王子に会わせていただけますか」
早馬を駆けさせてブルーノがサール宮を訪ねたのは正午過ぎ。要望は意外にすんなり聞き入れられた。天帝に遣わされた使者の通訳という立場は相当強いものらしい。
普通は半日かかる道程を倍速以上で駆けてくれたジーアン馬を馬丁に預け、跳ね橋を渡る。城門前には黄金細工の施された壮麗な婚礼馬車が何台も何台も並んでいた。これが出る前に間に合って良かったと息をつく。
初めは謁見の間にと言われたが「個人的なお祝いなので」と固辞すると私室で話す許可も下りた。天帝印の捺された旅券はやはりすこぶる強かった。
サール宮は久々だ。一度目は王女の姿で、二度目は白猫の姿を取ってここへ来た。今初めて自分自身の名と肉体であの人の生家にいる。
通路を一歩進むたびに膝の震えはいや増した。力をこめて歩んでいく。胸の勇気が消えないように。
「こちらです」
案内の兵はチャドの部屋の前まで来ると二、三度ドアをノックした。誰かが中で「はい」と応じる。
衛兵用の前室から顔を出したのは元傭兵団長のグレッグだった。上等そうなお仕着せに身を包む彼はブルーノを一瞥するなり顔をしかめる。防衛隊が今更なんの用だよと言いたげに。
「殿下に結婚祝いを伝えたいそうで」
端的な説明だけして兵は前室の片隅に陣取った。槍を床に立て、完全待機の体勢だ。話が終わればまた城門まで案内してくれるらしい。できれば盗み聞きされそうな場所には誰もいてほしくないのだが。
「ああ、いい、いい。帰りは俺がお客さんを送ってくから。そっちは持ち場に戻ってな」
知り合いなんだとグレッグが言えば男は「そうか?」と顔を上げた。客人を監視しろとの命令はされていないらしく、面倒事を託すと兵は「ありがとよ。任せたぜ」とにこやかに踵を返す。
内密の話に来たのはグレッグも察してくれたようである。人払いを済ませた元傭兵団長は押し開いたドアの奥、潜めた声で部屋の主に呼びかけた。
「チャド王子。防衛隊のブルーノが来てます」
ざわり。空気が変わった気がした。中に招かれるまでの間、酷く奇妙な沈黙が流れる。きっと「どちら」が来たのか彼は悩んだのだ。
「……わかった。入りたまえ」
緊張を孕む低い声。どきんどきんと波打つ胸を掌で押さえつけ、ブルーノは忘れがたい男の待つ室内に足を踏み入れた。
どうか彼が望むまま生きられますように。
小さな祈りを胸に抱いて。
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忘れようとするほどに真逆の力が強く働くものらしい。二度と会わないはずだった、夢まぼろしの類なのだと言い聞かせた存在を前に立ち尽くす。
予感はあった。「ジーアン帝国の使者が来た」「通訳はアクアレイア人がしていた」と噂は小耳に挟んでいたから。己が旅立つその前に彼が来るのではないのかと。
「あ、あの……お久しぶりです……」
剣士が挨拶するより先にチャドには彼がブルーノと知れた。ルディアが持つほど鋭い空気を彼は纏ったことがない。いつも震えて、いつも申し訳なさそうで、だから時々真剣にこちらを見るのが嬉しかった。伴侶の中の確かな信頼を感じられて。
「……しばらくぶりだね。すまないが手短に頼めるかい? 今日には城を出る予定なのだ」
ほとんど空になった部屋を身振りで示してチャドは告げる。先程漏れてきた兵の声は結婚祝いが云々と言っていた。なら彼も知っているのだろう。室内を見渡したブルーノは城を出るとはどういうことかと尋ねさえしなかった。
「座ってもらう椅子も出せなくてすまないな。持っていけるものは全部馬車に載せてしまった後だから」
私室にはもう備え付けの暖炉だとか、大きすぎる寝台だとか、そういうものしか残っていない。死ぬまで帰郷できないことは言わずにおいた。恋しいときの慰めにするために何もかも持っていくのだとは。
「それで私になんの用だい? 例の件ならドブからあの里の者に……」
「あ、いえ、違うんです。小姫様のことは僕たちも聞きました。その、今日は殿下に確認したいことがあって」
違うのか、とチャドはやや拍子抜けする。防衛隊が来るとしたらアウローラの話しかないと思ったのに。
「私に確認したいこと?」
まさか再婚を止めにきたのではと考えて心臓が跳ねた。けれどすぐにそんな雑念は振り払う。駆け落ちなど持ちかけるほど彼は自分本位ではない。ならばなんだ? 怪訝にチャドは青髪の剣士を見つめた。
「はい。ええと……」
ちらとブルーノが後方を振り返る。部外者を中に入れないためにグレッグは前室に残っていた。扉がきちんと閉まっており、部屋に二人しかいないことを確かめてから彼は慎重に切り出す。強張った声になされたのはついぞ予期せぬ問いかけだった。
「この城に、ハイランバオスとラオタオが来ていませんか?」
「!」
チャドはごくりと息を飲む。今の反応が答えのようなものだけれど、正直に肯定はできなかった。あの二人は古王国側の使者としてサール宮を訪れたのだ。そして今、彼らはほかの者の目につかない秘密の客室を使っている。亡命直後の「ルディア王女」が通されたのと同じ部屋を。
「……それを聞いて一体どうするつもりだい?」
なるべく冷静に問いかけた。返答次第では上手くはぐらかさねばならない。ジーアン帝国から来た使者は裏切り者の──預言者たちの引き渡しを求めたと聞いている。防衛隊が帝国の意に従って彼らを連行するつもりなら己は客人を守らなくてはならなかった。
「捕まえて連れて帰ります。天帝のところまで」
やはりかと指先を握り込む。静かに首を横に振り、チャドは話を切り上げにかかった。
「残念だがあなたの問いには答えられない。確認したいことはそれだけかい? ならばお早くお引き取り願おう」
出ていくように命じるとブルーノは瞠目する。「なぜですか?」と剣士は理解できないという顔で問いかけた。
「なぜも何もない。あなたにマルゴーの内情を明かす義理はないのだ。私には答えられないとしか言えないよ」
「二人を渡せば聖王に背いたことになるからですか? マルゴーにはジーアンとの軍事同盟がそんなに信じられませんか?」
矢継ぎ早の質問にチャドは無言で視線を逸らす。どうにか口を割らせようと剣士は必死に食い下がった。
「天帝は本気です! 聖王軍がマルゴーに手を出せば何万人でも派兵します! 姫様ともそう約束してるんです。僕からは、あまり詳しく話せませんが……」
珍しく大きな声で彼はチャドに訴える。ヘウンバオスは信用に足る相手だと。ジーアンの力を借りてもマルゴーが困ることはないと。熱心に説かれたところで己には応じようもなかったが。
帝国との軍事同盟。接見でそんな話が出ていたのか。父も姉も言わないから知らなかった。おそらくこれから古王国に発つ人質には聞かせたくなかったのだろう。二人の考えなら予測がつく。
「悪いが何を言っているのかさっぱりだ。ジーアンの使者殿は休戦協定の延長について話し合いに来たのではないのかね?」
「ち、違います。休戦だけじゃなく聖王からマルゴーを守ろうと……」
ブルーノは懸命に、預言者たちの捕縛協力が同盟の条件なのだと説明した。ジーアンの傘下に入る利点や安全性についても。確かに魅力的な話だ。天帝が力を貸してくれるなら公国に降りかかった外交上の諸問題はおよそ解決に至るだろう。──だが。
「お願いですから信じてください……! ジーアンにハイランバオスを渡してくれれば銀山は手放さなくても良くなるし、再婚だって白紙に戻せるはずなんです……!」
宮殿に来たかだけでも教えてほしいとブルーノは懇願した。誰に聞いたのか彼はマルゴーが聖王に突きつけられた難題を承知している風である。チャドの二度目の婚姻がどんな性質を持ったものかを。
やはり止めにきてくれたらしいと苦笑した。駆け落ちの誘いよりも現実的な手段を講じて。それでも答えに変わりはなかった。
「父上のお決めになることだよ」
首を振る。ゆっくりと。この国を統治するのは己ではないと。
「出立を取りやめるようには言われていない。だから私は行かなくては」
青い瞳を揺らがせて青年は息を飲んだ。どうしてと縋る響きの声が零れる。
父が何も言わないのは道を決めかねているからだ。天帝になびいても、聖王にへつらっても、失うものは大きいのだ。
ここで自分が預言者たちの所在を明かせば縁談くらいはなかったことになるのかもしれない。ただやはりそうする気にはなれなかった。公爵家のしてきたことを考えると。
「私が人質婿になれば多少は民の溜飲が下がる。財産隠しに怒って出ていった傭兵たちも国に戻る気になるかもしれない」
破談にしない理由を明かせばブルーノは声を失った。
チャドは続ける。見せしめになる者がいなければ、罪が清算されなければ、マルゴー人は君主を許せないのだと。
民はばらばらになったままだ。たとえジーアンの介入があったとしても。
「あ、あなたは、銀山のこと知らなかったんじゃないんですか?」
「知らなかったよ。だが私の地位で無知は罪だ。それに大多数の人間にとって私もまた公爵家の一員だからね」
パトリシアとの縁談を受けてから少しずつ覚悟を固めていた。銀が民を豊かにすること。誰かが罰を受けること。どちらが欠けても人々の心にはしこりが残る。父がジーアンを信じようと信じまいと己は囚われにいかねばならない。わかりやすい不幸を皆に示すために。
「でも、そんな……」
泣き出しそうな顔をしてブルーノは肩を震わせる。なぜあなたがと言いたげに。自分でもそう思う。けれどいつも同じ答えに戻ってくるのだ。己一人だけ安穏と生きているわけにいかないと。
疎外され、政治に関われないとしても別の形でできることをするべきだ。
銀はあまりに多くを殺した。己の人生程度ではきっと贖えないほどに。
「本当にそれでいいんですか……?」
今なら間に合う。言外に彼が訴える。
チャドは「ああ」と頷いた。何もかも納得ずくだと。
考えてみれば次の結婚も一度目とそう大差ないのだ。あのときもマルゴーとアクアレイアの同盟強化が本題で自分はそのおまけだった。
おまけだったのに浮かれてしまった。素晴らしい姫と巡り会えて。
「相手はとてもいい人だから安心してくれ」
微笑を浮かべてそう諭した。もうお行き、と肩を押す。
椅子もないからお互い突っ立ったままだった。絵画も何もかも取り払われた部屋は広く、荷物を運んだ後で良かったと安堵する。この瞬間、ここにあったものを眺めて今日のことを思い出すのはつらそうだから。
「僕は……っ」
行ってほしくないですと、小さな小さな声が掠れる。裸の床にぽたりと滴が跳ね落ちた。
「ブルーノ君」
慰めるべきか少し迷って結局やめる。彼の望む言葉を自分は伝えられない。ほかの伴侶は誰もとは、自分には。
「……あなたとのことは終わったのだ。涙を拭いて仲間のもとへ帰りたまえ。私もそろそろ発たなくては」
「…………」
別れを告げてもブルーノは動こうとしなかった。仕方なく自らドアを開けにいく。前室で控えていたグレッグに「送ってやってくれ」と頼めば彼は大いに当惑しつつも剣士の腕を引いて立ち去った。
さようなら。今度こそ本当に。
私はこれから二人目の妻を愛せるように努力していこう。あの誠実で温かな人を。




