第3章 その8
パトリア聖暦一四四三年六月三十日。後世の歴史学者は言う。全パトリアの運命が──否、もっと広い世界の行く末がこの日に決定づけられたと。
山の端が仄かに白んできた早朝、ルディアは護衛兵たちに「遠乗りしてくる」とだけ告げ、アークの里へと出発した。徒歩ではおよそ三時間の道のりだが馬の足なら倍は早い。寂れた山道に沿って立つ十戸ほどの集落に辿り着いたのは日がまだ低いうちだった。
「姫様!」
画家の隠れ家が見えてくる頃、前回の来訪時にコナーから「差し上げます」と譲られた清楚な娘が駆けてくる。柔らかな髪を乱す彼女の中身はブルーノか。その後方には数人の村人がわらわらとついてきていた。
ブルーノが事情を伝えてくれたおかげでルディアから改めて説明することはほとんどなかった。ジーアンの使者としてヘウンバオスが同行していること、マルゴー公との接見で軍事同盟が成立したこと、追加で聞かせた話はその二点くらいである。モモがドブから明かされたチャドの再婚話についても既に村人の知るところだった。
「そっちはどうだ? アクアレイアで何か新しい情報は入ったか?」
王子と聞いてぼんやりしていたブルーノはルディアの問いかけにハッとしてあれこれ喋り出す。海軍が小砦に兵を置いて聖王軍の侵入を警戒していること、トレヴァー・オーウェンが捕縛ののち獄中で死亡したこと、王国史の流出元はどうやら彼らしいこと。一つ耳にするたびに溜め息をつきたくなった。聞けばなぜそんなことが起きたか思い当たるのに、実際事が起きるまで危機を察せぬ己の愚鈍さが嫌になる。
(トレヴァー・オーウェン。そうか、彼の仕業だったか……)
脳裏には海色の髪の娘が甦る。王女の代わりに散っていったジャクリーン。
トレヴァーが娘を想ってやったことなら責を負うべきは己である。また一つあの国を守らねばならぬ理由が増えた。
「アクアレイアにもそろそろジーアン軍が着いている頃合いだ。あまり心配はしなくていい」
チャドがサールを発っていないから聖王もまだ動いてはいないはず。軍勢に潟湖が荒らされる可能性は以前より低まった。
ルディアが告げるとブルーノはこくり頷く。続いて彼はドナの街で退役兵の死体が見つかる事件があったと報告した。
「退役兵の死体だと?」
顔を歪めたのはヘウンバオスだ。またも同胞が手にかけられたと知って彼はぎりぎり歯を軋ませた。気圧されながらもブルーノは「犯人は不明のままで、それでドナの港が封鎖されたみたいです」と補足する。
なるほどとルディアは納得した。どこまでも嫌なことをしてくれる連中だ。
だが同時に何か引っかかる。違和感は言葉になる前に霧散してしまったが。
「あの、それともう一つ。実はコナー先生から、姫様たちが着き次第岩塩窟に連れてきてくれと頼まれていまして……」
「は? コナー先生に?」
器も本体も殺されたはずの師の名に驚き、ルディアは思わず問い返す。だがブルーノは難解な顔で「息を吹き返したとかではないんです。会えばわかると思います」と言うのみだった。
「その子は視える子だからね。あんたたちは手を繋いでもらえばいいよ」
と、部隊を囲む輪の中から出てきた農婦が補足する。理解不能のままだったが聖櫃の無事を確かめに岩塩窟へは向かわなければならなかった。「わかった」と頷いて全員でマルゴー杉の林のほうへと歩き出す。
山に掘られた横穴はやはり迷宮めいていた。よしんばハイランバオスたちがこの地を発見できたとしても自力ではアークのもとに到達できまい。そう確信を持つほどに。
ブルーノに手を取られ、慎重に二度目の坑道を進んでいく。複雑に枝分かれした闇の先へと。
はたしてその奥、その人はいた。淡く光る巨大なクリスタルの傍らに。
「コナー先生!?」
ルディアの声に「おや」と師が振り返る。いつも通りの飄々とした佇まいで。
だが異なことに画家の姿はうっすらと透けていた。まさかと思って「視える」娘の手を離せばコナーはどこにも「視えなく」なる。
この現象には覚えがあった。イェンスの船で、祭司フスの存在を知らされたとき、浮かぶ右手が同じように視えたり視えなかったりしたから。
「存外早くおいでになってくださいましたね。経緯は大体聞きましたよ」
ブルーノと手を繋ぎ直すと師はまた姿を現した。しかしほかの者たちの目に彼は映らないらしく、なんだどうしたとざわつかれる。
「コナーがいるのか? 今ここに?」
怪訝に眉をしかめた天帝に尋ねられ、ブルーノの空いた右手を握ってみろと促した。防衛隊の面々にも彼の肉体の一部に触れるように命じる。
「うおっ!?」
「こここ、コナー先生!?」
「ど、どうなってるの?」
「なんだか透けているように見えるが……」
村娘の肩や腕を遠慮がちに摘まむ四人は怖々と画家を見やった。そんな彼らにコナーは「いやあ」とこめかみを掻く。
「再会を喜んでくれるのはありがたいが、正確には私は君たちの知る『コナー』とは少し違うのだよ。管理者が旅立つ前に保存した最後の複製、それが私だ。だから私にはドナやテイアンスアンでの記憶がないのさ」
説明を受けてもにわかには理解しがたかった。途中までしか書かれていない写本のようなものだと聞いてようやく少しイメージを掴む。
アークの管理者ともなると聖櫃に己自身を移すことまでできるらしい。そう言えばテイアンスアンの洞窟にもレンムレン湖のアーク管理者が残されていたのだったか。衝撃続きで忘れていたが。
「というわけでルディア王女、私めにまたあなたの記憶を閲覧させていただけますかな? あらましはブルーノ君から聞いたのですが、アレイアのアークを守るために詳細を知っておきたいのです」
コナーはにこやかにルディアに手を差し伸べた。聖櫃に触れることで記憶が丸ごと保存されるとは前回受けた説明である。
必要ならば致し方ない。息をつき、ヘウンバオスに伺いを立てた。
「……お前との接合で得た記憶も見せることになるが、構わないか?」
「別にいい」
天帝はあっさり頷く。何を覗かれることになってもアークの防衛以上に優先される恥などないと。
ならばとルディアは透き通る巨石に指先を伸ばした。触れれば青い光の粒が掌に集まって、泡が弾けるように消える。今回は千年分のおまけつきだ。飲み込むまでには多少時間がかかったらしく、コナーもしばし沈黙した。
「う、うーむ、なるほど。テイアンスアンでそんなことが……」
唇に人差し指を押し当てて画家は真剣に考え込む。半分透けた状態なのに師の額はどこか青ざめて映った。その理由はコナー自ら語ってくれたが。
「ひょっとしてハイランバオスが大暴走を始めたのは『私』がはしゃいで喋りすぎたせいなのでは……?」
発言を受けてそれはちょっとあるかもしれないなと思う。ハイランバオスと接合したコナーならあのときもっと上手く場を誘導できたのではないかと。
だがもう責めても仕方ない。己とて詩人がアークをどうこうする可能性までは考えていなかったのだ。記憶を共有するコナーが危惧しなかった展開ならばあの男がそれだけ常軌を逸しているということだろう。
「いやはや、私の本体が申し訳ない。レンムレン湖のアークの核まで喪うとは、管理者として至らなさすぎて山深くに埋まりたいほどです。ハイランバオスの詩人的感性は理解したと思っていたのに……」
一人反省会が済むと師は面目なさそうに謝罪した。ついぞ見覚えがないほどのしょげ返りぶりである。
「芸術家の血と言いますか、楽しくなるとどうにも手落ちが増える傾向にありましてね……」
詫びの言葉は受け取らなかった。その代わり少し強めに問いかける。
「それで我々はどのようにアークを守ればいいのですか?」
言い訳を聞きにきたのではない。首を振れば師は苦笑いを引っ込めて「そうですねえ」と思案した。
「ハイランバオスは過去に管理者と接合していますから、時間をかければ聖櫃のプロテクトを解いてしまえるかもしれません。テイアンスアンで操作方法も目の当たりにしたようですしね。私のほうでも対策はしますが、一番はアークに彼を近づけないことです。岩塩窟の守りを固めていただけますか?」
初めにハイランバオスとの不慮の接合が起きた後、コナーは慌ててアークを今の岩塩窟に引っ越しさせたそうである。だが今回はそんなことをやっている暇もない。一時的にアークを眠らせ、機能を制限する以外「核」を守る手段はないとのことだった。
師曰く「核」の破壊にはハイランバオスの身一つあれば十分らしい。爆発物を用いてアークを粉砕しなくとも、管理者の真似ができるなら中枢部に猛毒を流せるのだと教えられた。
「ね、眠らせる? 猛毒?」
「まあそれは比喩的な表現です。とにかく彼はその気になれば聖櫃の息の根を止められるわけですよ」
指先一つでね、と師は白手袋の人差し指を突き立てる。幻を映し出したり、不可思議な生物を生み出したり、記憶を保存したり、長寿の霊薬となったり、そもそもが理解不可能な代物なのだ。滅びるときもこちらの想定する範囲には収まらないということだろう。
「わかりました。以後この岩塩窟の出入口は封鎖します。次にお会いするときにはハイランバオスたちを捕らえたと報告させていただきますよ」
踵を返し、ルディアは聖櫃のもとを去る。
──否、去ろうとした。だが己の背中に注がれる、どこか眩しげな眼差しに気づいてくるりと振り返る。
「しかし本当にヘウンバオスとの接合を実現し、アクアレイアとジーアン間の協力体制まで築き上げてしまうとは……。いやはや、あなたという方には心底感服いたしました」
教え子の躍進を祝う教師の顔でコナーはルディアを称賛する。本体が死んでしまったのに今にも拍手を始めそうな上機嫌で。
「前々からそんな気はしていましたが、あなたはやはり普通の蟲とは違うようです。病変した脳を巣にした蟲だからなんでしょうか? どちらかと言えば我々管理者に近い視点で行動を選択なさっている。あなたは巣を出て外側から守ることを厭わない。ほかの末端の蟲たちは帰る前提で動くのに」
コナーが何を伝えようとしているのか、初めルディアにはわからなかった。けれど師が跪き、恭しく首を垂れたそのときに天啓のごとく理解する。己が彼に蟲を率いる王として認められたこと。
「『コナー』はもう戻りません。アークは末端の蟲のほかに聖櫃を守るのに特化した蟲を生みますが、管理者本体を再度生成することは不可能です。ですからこの先はあなたに──広大な領土を統べるだろうあなたに、アークの守護者となっていただきたい」
「…………!」
改めて乞わずとも自分は既にそういう存在になりつつあるのではないのか。そう思ったが、戴冠式みたいなものかと思い直す。
聖櫃を守るのに特化した蟲とは里の村人のことだろう。寄生主の記憶の一部を人格の核にするのではなく、寄生主の記憶すべてを受け継いで生きる特殊な蟲がいると前回コナーは語った。アウローラに入れたのはもっと聖櫃の中枢に近いそんな蟲だと。
アークの側で生活し、アークを見守る彼らを脇にして師がルディアに頼んだのは、これからジーアンがもたらす発展を期待してのことに違いない。
応えてみせようと思った。ここに至るまでに得た知恵と力で。
「お任せを」
肩越しの短い返事にコナーは笑った。ブルーノの手を離し、ルディアは急ぎ岩塩窟の入口へ戻る。外にはほかの村人たちも集まっており、横穴はただちに厚い扉と二重の鎖で封じられた。
「私は守りのために残る。公爵から知らせがあれば伝えてほしい」
と、腰に結わえた曲刀を確かめながら天帝が言う。彼はもういつどんな形でハイランバオスたちがやって来てもおかしくないと考えている風だった。
「一報を受け取るくらいなら古城に一人いれば十分だろう。お前たちも残れるだけここに残れ」
ヘウンバオスの指示に一瞬皆が目を見合わせる。モモとバジルはすぐに手に武器を掴み、防衛に加わる意思を見せたけれど、アルフレッドとレイモンドは先にルディアの返事を待った。
「そうだな。公爵とはまだひと悶着ないとも限らん。古城に待機するとしたら私が一番適任だろう」
二人は「それなら自分も」とルディアに付き添う旨を告げる。一人でいると詩人たちに狙われるかもと言われると必要ないとは断りづらい。有り得ない話ではなかったし、グローリアの城には三人で戻ることにした。
「お前はどうする?」
まだなんとも答えていないブルーノに問いかける。ほっそりした村娘の肩が震えるのをぐっと堪えて彼は強い目で返した。
「……あの、僕、サール宮に行っても構わないですか?」
突飛な頼みに「サール宮?」と聞き返す。再婚話など出ているからチャドに会いたいのだろうか。非常時に私事を優先するタイプではないはずだが。
「ジーアンとマルゴーの軍事同盟が成立したって聞いてからずっと考えていたんです。もし公爵が口先だけで同盟に同意したんならハイランバオスが宮殿に隠れていても見つかったとは言わないですよね……?」
「ああ、そうだな」
問われてルディアは頷き返す。ティボルトにとってジーアンとの軍事同盟を受け入れることはパトリア古王国との決定的な断絶を意味する。ジーアン軍が聖王軍を蹴散らすような展開になればマルゴーは西パトリア全域から白い目で見られるだろう。いかに不仲であろうとも文化・習俗・宗教を同じくする集団と離別することに抵抗がないとは言えなかった。だからこそルディアも公爵が心変わりした場合に備え、アークの里に兵を配しにきたのである。
「チャド王子、だったら多分、城内でハイランバオスたちを見かけたかどうか教えてくれると思うんです……」
「!」
なるほどとルディアは合点した。チャドが苦しい再婚を求められているのは事実だ。彼の立場なら機密を漏らしてくれるかもしれない。それにティボルトがジーアンの手を取ることに決めたなら、王子は聖王の娘などと結ばれなくて済むのである。
「……そうか。では私と身体を交換し、サール宮まで行ってくれるか? 用件は『王子に再婚の祝いを伝え忘れていた』とでも言えばいい」
「あ、ありがとうございます!」
ブルーノはパッと瞳を輝かせてルディアの両手を握りしめた。不躾なことをしてしまったとすぐ青ざめて引っ込めたが。
離れていった彼の手を自分から握り返す。
頑張れよと励ます代わりに。
「サールへ行って戻ってくるなら時間がない。さあ、早く入れ替わろう」




