第3章 その7
山の日暮れが早いのは峰の向こうにすぐ太陽が隠れて見えなくなるからだ。平地であればゆっくり沈む夕日でも遮蔽物の多いアルタルーペではあっと言う間に一日の店じまいをされてしまう。
ゆえにグロリアスの里に着いたとき、空はまだ明るかったがアークの里へと向かうのは断念した。暗くなれば道中の危険は増すし、ヘウンバオスも「我々が到着するまで重大な危機は起きない」ときっぱり断言したからだ。
ルディアたちは翠の山岳湖を見下ろすプリンセス・グローリアの城にいた。今は時々公爵家が別荘として使うだけで、普段は誰も住まない古い山城だ。
先に入城した護衛兵が簡易清掃を行う間、一行は空堀に架かる橋の前で里を眺めて時を過ごした。
騎士物語の始まりの地。そしておそらく終わりの地。グローリアが少女期を過ごしたという城の周辺が保養地扱いされるようになったのは、毒の後遺症に苦しんだ彼女が晩年引きこもった場所でもあるからに違いない。
里は急傾斜の山と広い湖に挟まれたわずかな平地に家を並べる。哀れな姫の終の棲家は湖畔から少し離れた断崖沿いに立っていた。城から人が去ったのは老朽化のせいだけではないだろう。不吉なものには皆触れたがらない。古城は巨大な墓標なのだ。
(ん? あれは……)
と、青空を横切って飛んでくる影に気づいてルディアはじっと目を凝らした。──鷹だ。こちらに接近しようとするのは琥珀色の翼を広げた鷹だった。
一瞬エセ預言者らの仲間かと身構える。しかしすぐアークの里にもコナーが置いてきた鷹がいるのを思い出した。サルアルカへ行かないかと師を誘う役目を果たしたアクアレイアの脳蟲だ。それなら今はラオタオたちと関わりはないはずだし、アレイアのアークを守る味方の一員のはずである。
「ピィー! ピィピィ!」
舞い降りた鷹はルディアの差し出した腕に止まった。すぐに文字表を出してやろうとしたが、横から天帝に止められる。
「待て。中身を確認してからだ」
それもそうだ。テイアンスアンで詩人側についた鷹ならジーアンの──袋型の蟲が入っていることになる。見てわかることだから確認はしたほうがいい。こんな会話を聞いても逃げ出さないあたりで味方だという確信は持てたが。
「わかった。どこか中身を抜けそうな場所は……」
一帯に目をやると同時、背後で重い音が響いた。古城の門が開く音だ。振り返れば掃除を終えた護衛兵らに「使者殿、お待たせしました! どうぞ!」と手招きされる。
ルディアは天帝と視線を交わし、確認は城内で行おうと頷き合った。馬から降りると兵士の一人に手綱を渡して「休ませておいてくれ」と頼む。防衛隊の面々もルディアに倣って馬を放した。小橋を渡る部隊の後を羽ばたきしながら琥珀の鷹もついてくる。
「うわっ」
「なんだこの鷹?」
「つ、連れてお入りになるんですか?」
突然増えた猛禽に戸惑いつつも護衛兵は中を案内してくれた。武骨な石壁の城門塔がルディアたちを迎え入れる。屯所が一階、客室が二階、三階と四階は保全が行き届いておらず、立ち入るのはお勧めしないと首を振られた。
時代物の山城だからか一階はホールすらない。大人二人しか並べぬ狭い通路には圧迫感が滲んでおり、全体に息苦しかった。だが居住部の二階に上がると雰囲気は一変する。厚く豪奢なタペストリーが石壁を覆い、山城の荒々しさをやわらげた。随所を飾る肖像画も最近の絵具を使用したものに変わる。この分なら客室は過ごしやすく整えられていそうだった。
「お部屋はちょうど六部屋です。続き部屋になっているので使者殿は一番奥をお使いになるのがよろしいかと。我々は屯所にいなければ厩舎か地下の厨房におります。御用の際はお呼びください」
案内を終えた兵士たちは一礼して階下に去る。「晩飯何出せばいいんだろ?」「羊肉でいいのかなあ」と不安げなぼそぼそ声が聞こえなくなるとルディアはぱたりと扉を閉ざした。
見れば気の早いことで、ヘウンバオスはもう銀に光る洗面器に水差しの水を注いでいる。無抵抗で首を絞められた鷹が線虫の正体を晒すと天帝はようやくほっとした顔で「話を聞こう」と息をついた。
「ピィーピィー!」
さて、鷹はやはりアークの里で保護されていた鷹らしい。ブルーノの急報を受け、彼はグロリアスでルディアたちを待っていたのだと教えてくれた。ほかの二羽は岩塩窟の見張りを務めているそうだ。これから集落に帰還して一行の到着を報告するが、伝言することはあるかと問われた。
「いや、ひとまずは近くまで来たと伝えてもらえればそれでいい。ブルーノが着いたのも今日なのか? そうか。こちらもあまり遅れずに済んで良かった」
状況説明はブルーノが先に行ってくれたようだ。これならスムーズにアークの防衛に入れそうである。ヘウンバオスも必要なことは自分の口で話すと言うので鷹にはこのまま飛び立たせる運びとなった。
「これくらいあれば通れる?」
「ピュイイ!」
モモの手が山側の目立たぬ窓を押し開く。礼を述べるようにひと鳴きすると小さな遣いは翼を広げ、間もなくマルゴー杉の向こうに見えなくなった。
ふうと小さく息をつく。──もうすぐだ。ハイランバオスたちを捕らえれば終わりにできる。今度こそ。
「さっさと部屋を決めて休むぞ」
呼びかけるとアルフレッドたちはぞろぞろ移動を開始した。階段のすぐ横に位置する最初の部屋より次の部屋のほうが広く、調度品も質がいい。使者殿は一番奥をと言われた理由を理解する。その次の部屋は更にひと回り広くなり、同じ調子で客室はだんだん豪華になっていった。
ヘウンバオスが湖を見下ろす角部屋に腰を落ち着けたので、ルディアは彼の隣室を使わせてもらうことにする。続く一室にはレイモンドが、次の一室にはアルフレッドが、その次にはモモが控えることとなった。最初の部屋を取ったのはバジルだ。位置的に出入りが最も多いはずだが大丈夫かと案じたが、弓兵は「これでも身に余る贅沢です……」と遠慮した様子だった。
「食事は朝に持ち運べるものを用意してもらおう。じきに日も落ちる。明日は外が明るくなったらすぐに動き始めたい」
荷を解いてもう眠ろうと促せば皆頷いた。が、一人だけ首を縦に振らないでルディアを見つめ返す者がいる。
「城内の見回りはいいのか? 古い城だし、賊が潜んでいないとも限らない。なんならさっきの護衛兵に朝食を頼むついでに行ってくるが」
安全確認をしたいと言うアルフレッドに皆は揃って目を見合わせた。空気の色が塗り替わる。騎士が発言するたびに大なり小なり変わる色。
「そうか。それではお前たちに任せたぞ」
最初に離脱したのはヘウンバオスだった。見回りなど己の仕事ではないし、指示を出すのはルディアの仕事だと言うのだろう。
だが彼が残るなら全員で点検には向かえなかった。何が起きるかわからない現在のマルゴーで、帝国の使者を一人にするほどルディアも愚か者ではない。
「俺と姫様は残るし、お前ら三人で行ってくれば? 一応こっちもあんま手薄にできねーだろ」
と、そのとき、レイモンドが騎士に別行動を提案した。
ルディアが与えようとした命令と彼の発言は同じだったが、声の響きがいやに冷淡だった気がして身がすくむ。横顔を見れば普段通りに笑っているのに。
(レイモンド……)
違和感を覚えないのかアルフレッドは「そうだな。それが良さそうだな」とすんなり意見を聞き入れた。次いで騎士は是非を問う顔でこちらを見やる。
「あ、ああ。行くならお前とモモとバジルで行ってくれ」
「わかった。さっそく行ってくる」
弓兵と斧兵を連れ、アルフレッドは客室を後にした。ヘウンバオスもドアを閉じ、室内は途端にしんと静まり返る。
「………………」
静寂の中、荷ほどきを始めたレイモンドは何も言わない。ルディアの言葉を待っている風でもない。
二人きりになったのに、どうしてもどうすればいいかわからなくて、恋人の側でルディアは黙り込むばかりだった。
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騎士物語の城なんてアニークが聞いたら大騒ぎしそうである。「西パトリアにいるうちに私も行ってみたかった!」と恨めしそうに零す声は容易に想像可能だった。いつか彼女も来られるようになるといい。これからもう百年は人生を楽しめるのだから。
(プリンセス・グローリアの古城か)
アルフレッドは石造りの山城の目の回りそうな螺旋階段を上っていく。随分昔に築城されたというのは本当らしく、レーギア宮や天帝宮とはまるで様相が違っていた。
壁はまったく滑らかでなく、積まれた石が出っ張っている。窓も小さなものが多く、わずかしか光を採り入れない。城というより監獄のイメージだ。否、もしかすると現代の監獄はこういう古い建築物を転用したのかもしれなかった。
「どこも埃まみれだな」
辿り着いた上階の惨状をランタンで照らして思わず眉をしかめる。行かないほうがいいという忠告通り、三階も四階も閉口する汚さだった。埃だけでなくあちこちに蜘蛛の巣が張り、コウモリの糞らしきものも落ちている。横倒しのキャビネットや壊れた椅子には誰かの触れた形跡もない。
一歩進むたび粉塵が舞い上がり、コホコホと咳き込んだ。こんなところには賊も居つきたくないだろう。もちろん不審者の気配もなかった。小さな城だし一応すべての部屋を見て回るつもりだが、ランタンの灯が小さくなったら撤退するべきかもしれない。
そんなことを考えて眉間のしわを濃くしていたら、隣を歩くモモとふと目が合った。彼女は彼女で黙々と巡視を続けるアルフレッドに思うところがあったらしい。
「全然はしゃがないんだね」
馴染みないものを見る目で静かに囁かれる。
「アニーク陛下と接合したのに騎士物語覚えてないの?」
初めはその問いかけの意味を測りかねた。しばらく悩んでようやくああ、と合点する。「アルフレッド」は騎士物語を好いていたのにお前はここにいて何も感じないのかと、そう尋ねられているのだ。
「いや、全編しっかり覚えているよ。ただ俺は騎士になったから、前より強い憧れはないかな」
記憶のページを繰れば『パトリア騎士物語』の情景は鮮やかに甦った。豪胆なプリンセス・グローリア。困惑しつつ彼女に仕えるサー・ユスティティア。一組の美しい主従への好感はある。だがそれだけだ。
「感慨深いものはあるがな。例えば集めたシーツを結んでロープ代わりにして、そこの窓から森に脱走したグローリアのことを思うと楽しくはある」
返答にモモは「そっか」と目を伏せた。声はしっかりしていたが覇気があるとは言いがたい。喉の奥には飲み込んだ感情がありそうだった。傍らの弓兵もそんな彼女を心配そうに見つめている。
「……前の俺とは違うと嫌か?」
真正面から切り込めば二人は小さく息を飲んだ。なんの言葉も返ってこない。モモもバジルも答えにくそうに左右に目玉を泳がせる。
気まずい沈黙。承知していた。握手を交わして受け入れてくれた者たちも、ひとまずそれを選択したに過ぎないこと。しかし己も己の道を曲げるわけにはいかなかった。
「俺には俺が『アルフレッド』とは別人だという自覚がある。同じになろうと努力しようとも思わない。彼が遺したかったものも、俺がそうありたいものも『騎士』だからだ」
今の自分は「アルフレッド」のなりたかったアルフレッドなのだろう。そう言ってくれたモモならきっとわかってくれる。信じて告げた。己はここにいる己にちゃんと満足していると。
「俺は『騎士』だ。お前たちの『アルフレッド』には多分なれない。……でもそれじゃお前たちはやっぱり嫌か? 俺が『アルフレッド』らしくないのは」
「…………」
沈黙がまた深くなる。冷ややかな闇の淀んだ一室で、埃を吸った絨毯の上、アルフレッドはじっと二人の返事を待った。
蟲と人が歩み寄るのは思う以上に難しいのかもしれない。「アルフレッド」もアニークを認めるまでに随分かかった。けれど以前とは違う生き物になったとしても、互いを苦しめぬ距離を測ることはできるはずだ。火は何もかもを灰にするが、凍えた身体を温めてくれるものでもあるのだから。
「……わかりません。僕はただ、申し訳ないと思うだけです……」
先に答えたのはバジルだった。自分のせいで悲劇が起きてしまったと信じる彼はアルフレッドに求めるものなど考えられないと首を振る。「そうだね、モモもわかんないや」と隣の少女も呟いた。
「でも無理にアル兄のふりされたらそのほうが嫌だから、変な気遣いしなくていいよ。前と同じほうがいいか、今すぐ答えられないけど……答えが出るまでずっと待っててくれるんでしょ?」
顔を上げ、まっすぐこちらを見上げる妹に「ああ」と頷く。それは死んだ男ではなく生ける己の役目だった。「アルフレッド」は主君以外のすべてを捨てたわけではなく、きっと己に託したのだと思うから。
「……本当は、僕は『アルフレッドさん』に謝りたいんです。あの人が許してくれていたとしても」
と、弓兵が声を漏らす。握り拳を震わせて床を見たまま彼は続けた。
「でも今は……今のアルフレッドさんがどうかということよりも、自分に何ができるのかを考えたいと思います……」
ランタンの灯が揺れている。皆の心を映すように。
それは多分悪い揺らぎではなかった。
「ありがとう、二人とも」
アルフレッドは返答への礼を告げる。こめられるだけの心をこめて。
少しずつ、少しずつ、胸を開き合えればいい。そしていつかまた本当の仲間になれたら。
「あ、次の部屋で最後みたい。良かった。早く見回りして戻ろ!」
続きの間への扉を開いたモモがこちらに手招きする。鎧戸が壊れているのか半分開いた窓からは赤い光が差していた。
もう夕暮れか。すぐに暗くなりそうだ。急いで用事を片付けなければ。
「モモは右から、バジルは左から回ってくれ。いいか?」
「はーい」
「了解です!」
アルフレッドはベッドの下やクローゼット、そのほか隠れられそうなところに不審人物がいないかどうかチェックした。遭遇したのは結局どこでも蜘蛛や鼠ばかりだったが。
「アル兄、そろそろ兜着けたほうがいいよ」
「ああ、そうだな」
「視界が広く取れないの困りますよね。改良できないか今度僕見てみます」
「本当か? 助かるよ」
点検が終われば後は屯所に寄るだけだった。モモとバジルと来た道を早足で引き返す。夕食不要の旨を伝えると護衛の元傭兵たちは歓声を上げて喜んだ。どうやらジーアン風の味付けがわからずに困り果てていたらしい。
(明日はいよいよアークの里か)
厚い鉄仮面の下、アルフレッドは唇を引き結ぶ。
記憶にもない初めての地だ。気を引き締めてかからねば。ハイランバオスもどんな形で襲ってくるかわからない。
剣の柄を握りしめ、必ずルディアを守り通すと胸に誓う。
この先も、何があっても。




