第3章 その6
サール宮はもっと危険かと思っていたが、意外になんでもなかったな。牢に放り込まれるくらいの苦難は覚悟して来たのに。
無事に城門を潜り抜け、モモはひとまずほっと胸を撫で下ろした。これから一行は護衛兵の案内でグロリアスの里へと向かうらしい。美しい湖と古い城のある保養地だ。行ったことはないけれど話には何度か聞いた。公爵家が亡命を受け入れていれば王女を守って過ごしたはずの土地だから。
(またあの山道登るのかなあ)
ルースと戦った崖沿いの古道を思い出し、ふうと小さく息をつく。使うのは整備された新道のほうだろうが、途中までは前回と同じ道のりだ。考えると気が塞いだ。
接見の間で、ルディアは公国がアクアレイア王家を葬り去ろうとしたことを話題にもしなかった。情勢がすっかり変わったからだろう。彼女はいつも過去より未来を重んじる。だが普通の人間は受けた痛みを手放さない。わだかまりの根づいた心は同じ場所に留まろうとし続ける。
だから案内役として元グレッグ傭兵団の男たちが現れたとき、モモはいくらか緊張した。こちらを見やった十数名の何人かは確かに知った顔だったから。罵声を浴びせられるかもと思ったのだ。実際にはいざこざなど一つも起きず、硬い表情の護衛兵が担当馬車の御者台に乗り込んだだけだったが。
(まあそっか。ジーアンの使者連れてるのに文句つけられないよね……)
サール宮の跳ね橋の前、グロリアスを目指す行列は粛々と伸びていく。下男と下女が忙しなく駆け回り、使者をもてなすための品が次々と積み込まれた。
「通訳で防衛隊が来てるとは聞いたけど、本当だったんだな」
不意に聞き覚えのある声が響いて後ろを振り返る。前より背の伸びた少年と目が合い、モモはびくりと身を震わせた。
「ドブ……」
「それってジーアンから連れてきた馬? あんたも乗って移動すんの?」
彼とアンバーの関係を知る前ならばもう少し動揺せずにいられただろうか。問いかけにモモは「うん」と頷く。ぶっきらぼうだがドブの態度は険悪なものではない。話しかけてきた理由を探ろうと三白眼を盗み見た。少年はこちらの視線を避けるように顔を逸らしてしまったが。
「……ちょっとだけ話しておかなきゃいけないことがあるんだ。その馬後ろに繋いでさ、あんた俺の馬に乗ってくんない?」
相乗りの誘いに瞠目する。隣でバジルが凍りついた気配がしたが、無視して「わかった」と応じた。わだかまりに目を伏せてでも接触してきたということはアウローラに何かあったのかもしれない。ほかに彼から打ち明けられそうな重大事項は思いつかなかった。
ドブは列の先頭の馬に乗るらしい。鞍に上がった少年の手に引き上げられ、モモは彼の前に座した。
グレッグの姿がないのできょろきょろと見回すと「おっさんならチャド王子についてるよ」と嘆息される。
どうにも元気がなさそうに見えるのは気のせいだろうか。ドブの声は疲れている。健康な若者らしい溌溂さが足りていない。そう感じた理由は一行が進み始めるとすぐに知らされた。
「……あのさ。チャド王子、結婚するんだ。古王国のパトリシアって姫様と」
「えっ!?」
ほかの馬や荷馬車を上手く誘導しつつ少年は渦巻き状の長い坂を下っていく。ひそひそ声で話すモモたちの後ろで馬車の車輪がガラガラと音を立てた。
「俺たちも王子付きの兵じゃなくなっちまうから、この間最後の養育費届けてきた。グロリアスの先にある集落まで」
思わぬ話にぱちくり瞬く。聞けばドブはチャドの頼みで何度か小姫のもとへ足を延ばしたようだった。「すげえ頼み込まなきゃ会わせてくれないんだけど、五体満足で育ってるよ」と報告を受ける。
確かに訪ねてすぐの面会は不可能に違いない。アウローラ本体はマルゴー人の赤子に入れられたと聞いている。海色の髪の小姫に戻すには時間がかかって当然だ。
「そっか。……ありがとね、今まで王女様を守ってくれて」
礼を述べるとドブはしばし黙り込む。「連れて帰ってやれないのか?」と真摯な声に尋ねられ、今度はこちらが返事に困った。
「わかんない。もしかしたら連れて帰れるかもしれないけど、アクアレイアもまだバタバタしてるから……」
首を横に振ったモモにドブは「だよな」と重たげな溜め息を吐いた。帝国の使者を連れての来訪だ。彼のほうでも無理は言えないと堪えてくれた風である。ただそれでもドブはこちらに小姫を託したいようだったが。
「……マルゴーもさ、安全とはほど遠いと思うんだ。周りの国との関係がって話だけじゃなくて、この国自体が変なんだよ。嘘ばっかりで、王子だって我慢させられてばっかりで」
城下へ至る通りは次第に道幅を広げ、前方には入国税を取るための監視塔が近づいていた。昨今の政情不安のせいか街にはまばらな人影しかなかったが、内緒話はそろそろ終わりにしたほうが良さそうだ。都の出口の石橋にはさすがに兵の姿がある。
「俺が元々住んでた村、多分あそこが隠し銀山のある場所なんだ。昔から人をいっぱい乗せた馬車がよく来てた。村長は鉄山だって言ってたけど絶対違う。俺の母ちゃん、あそこの話を売ろうとして死刑に決まったんだから」
びくりと小さく肩が跳ねた。母ちゃんというドブの言葉に。だが少年のほうはこちらの様子を気にする余裕もなさそうだった。
「ルースさんも、鉱山に人集めるのに人さらいの真似事やってたんだと思う。……わかんなくなっちまうんだ。ここにいると、誰が正しかったのか」
苦りきった声でドブは「連れてけるなら連れてったほうがいい」と訴える。ああ、やはり彼はアンバーの息子だ。防衛隊にいい感情は決して持っていないだろうに。
「……相談してみる。ありがとう」
返答に少年はほっと安堵の息を漏らした。こちらからもアンバーの話をするべきか悩んだが、結局なんの言葉も浮かばないまま橋の上の関所に辿り着いてしまう。
「塔に入る前に降りてくれ。もう後ろ戻っていいよ」
下馬しろと言われればそうする以外仕方ない。後ろ髪を引かれつつもモモは石橋に着地した。
行列はゆっくりと前進する。少年の背中は遠ざかっていった。