第3章 その4
天帝から遣わされた休戦協定の使者を連れ、防衛隊が目通りを希望している──こう聞いてマルゴー公が捨て置けるはずもない。望楼からは急使が駆けたものと見え、宮殿に着いたときには丁重な出迎えの兵が並んでいた。
久方ぶりのサール宮を睨み据え、ルディアは小堀の跳ね橋を渡る。石造りの厚い胸壁に守られた城砦は純白に塗り上げられ、山城だという点を踏まえれば優雅な印象すら与えた。
警戒は相当されているらしい。屋根のない歩廊からこちらを見下ろす兵士らは皆手に弓を掴んでいる。防衛隊には印刷商レイモンド・オルブライトが名を連ねるのだ。マルゴー人には身構えられて当然だった。
騎士物語の件にせよ協定更新の件にせよ、公爵も聞きたいことは山ほどあるに違いない。城門をくぐったルディア一行はすぐさま謁見の間に通された。
「しばらくぶりだの。まさか今度はジーアン帝国の使者殿ご同伴で現れるとは思いもせなんだわ。お前さんたちはどこまで営業に行っているのだね? 本というのは実に手広くやれるらしい」
名目上は通訳として伴われたからだろう。ティボルト・ドムス・ドゥクス・マルゴーはジーアン人には伝わるまいと思ってかアレイア語でいささか無礼な挨拶を述べた。「どこへでも出かけていくのがアクアレイアの商人ですので」と軽くかわし、ルディアは一歩前へ出る。
高椅子に座した公爵は「レイモンドに聞いているのだ」と言いたげに睨んでくるが、この場は己が取り仕切ると決めていた。敵意に満ちた視線は無視してさっさと話を進めにかかる。
「商人が得意先から書簡を預かる、使者の案内を頼まれる。変わったことでもないでしょう。今回はたまたまそれが天帝陛下だっただけですよ」
「『パトリア騎士物語』の内容について、お前さんたちは知っていたのではないのかね?」
よほど溜飲が下がらぬらしい。ティボルトは最終巻への言及を取り下げようとしなかった。仕方なく「初めから知っていたならさすがに融資を持ちかけはしません」と肩をすくめる。
「我々も刷る前に気づいて止めはしたのです。工房の共同経営者が大馬鹿者で近隣諸国にばら撒いてしまいましたが……。しかし今日はその弁明に伺ったのではありませんよ。使者殿の話をお聞きいただけますか?」
ルディアはその場に跪き、ヘウンバオスをティボルトの前へ促した。公爵もジーアン人相手には「遠路はるばるお越しいただきありがとうございます」とへりくだる。形だけジーアン語に通訳すると天帝もジーアン語で応対した。
「今回の協定更新には条件がある。パトリア古王国に国境を脅かされている今、ジーアンまで敵に回したくないだろう。今すぐに確認しろ」
言って彼は懐から一通の書状を出した。折り畳まれたそれはまずルディアに手渡される。受け取ってティボルトの傍らに近づいた。パトリア語でその書を読み上げてやるために。
「〝帝国と刃を交えたくなければ公国内に逃げ込んだ裏切り者たちを差し出せ。約束できないなら山を焼き払ってでも進軍する〟」
瞬間、公爵が息を止めた。双眸は大きく瞠られ、こけた頬には汗が滲む。
「は? な、何を言っ……」
「〝ハイランバオスとラオタオが来ているのはわかっている。こちらに二名を引き渡せば協定は成立だ〟──とありますね」
冷徹に見やればティボルトは苦々しい顔で首を振った。
「い、意味がわからん。ジーアンの裏切り者たち? そんなもの話を聞くのも初めてだ」
「そうですか? アクアレイアからパトリア古王国へ向かった彼らの足取りを考えれば次にマルゴーへ入るのは自然なルートと思いますが」
狩人が獲物を追いつめるようにルディアは公爵に問いかける。だが彼は追及に取り合おうとしない。「古王国に向かったのなら古王国に留まっているのではないのかね? うちでは噂すら耳にせんよ!」と苦しい否定が続けられた。
「二人はアクアレイアに駐屯していた兵を東岸に引き揚げさせました。聖王となんらかの密約を交わしていたのは明らかです。例えば古王国側の使者としてサール宮を訪ねれば、彼らは古王国に居つくよりずっと安全に生き延びられる。公爵殿は西パトリアとの連帯を示すために使者を無下にできない立場ですからね。ひょっとして既に宮廷に匿われておいでなのでは?」
「……ッ何を言うか! 断じて有り得ん!」
指摘に対し、ティボルトは憤然と抗議する。ハイランバオスが来ていようと来ていまいと同じ反応しか返せぬことは百も承知だ。お前の事情はジーアンに筒抜けだぞと揺さぶりをかけられればいい。
本題はここからだった。マルゴーをこちらの味方につけるのは。
「もう少し真面目に検討なさったほうがよろしいと思いますよ? 天帝陛下はただ休戦を約束するだけでなく、マルゴーに侵入する敵があれば援軍を出してやると仰せです。先程の条件を聞き入れる気があるのなら休戦協定ではなくて軍事同盟を締結しても構わない、と」
鞭の直後に出した飴は荒れ狂う声を封じさせた。
「は……はあ?」
素っ頓狂な声を上げ、ティボルトが目を丸くする。なんだそれは。ジーアンが古王国からマルゴーを守ってくれるというのかと。
「銀山の秘匿が明るみに出た以上、マルゴーが今まで通りに西パトリア各国とやっていくことは不可能だ。浮き駒となった公国を帝国の傘下に取り込むには今が好機──そういうお考えでしょう」
アークのことはおくびにも出さず、淡々とジーアン側の狙いを語る。大国に挟まれた小国はどこの勢力と懇意にするか迫られるのが常だから、ルディアの示した考えはごく自然なものだった。
「悪い話ではないでしょう? 属国として支配されよと言われているわけではない。西パトリアとの緩衝地として機能してくれるなら厚遇してやっていいと、天帝陛下はそう仰せなのですよ」
「……っ」
ごく、と公爵の喉が鳴る。彼にとっては魅力的な、縋りたくなる誘いの声のはずだった。
ジーアンが動くとなれば聖王も考え直す。問題は長らく西パトリアに属してきたマルゴーが、慣れ親しんだ集団を離れ、異文化の王を信頼できるかどうかだった。
「ご存知の通りバオス教の生き神である天帝陛下が偽りの約束をなさることは有り得ません。アクアレイアでもジーアン兵は規律正しく、無辜の民はただの一人も殺されておりませんし、帝国の支配を受けてなお新たな産業が隆盛しているほどです。ここはお手を取るのが賢明な判断かと」
安心材料を増やしてやるべくジーアン人は残忍でも横暴でもないと伝える。印刷業の盛況ぶりなら公爵も知っているだろう。何しろそれで儲けている者が目の前にいるのだから。
「………………。使者殿に、国内の怪しい箇所を洗ってみると伝えてくれるか……?」
長考ののち、ティボルトはそう返答した。本当にハイランバオスが入国したなら彼が把握していないわけがないが、今ここで白状はできまい。公国側にも探してみたら見つかったという建前が必要だ。
「わかりました。──受け入れるそうです。これでよろしいか?」
振り返り、パトリア語でヘウンバオスに問いかける。するとあちらも「今はそれで良しとしよう」と滑らかなパトリア語を発した。やり取りを審査されていたと気づいた公爵はたちまち顔から血の気を引かせる。
「使者殿はアニーク陛下に薦められた騎士物語をご愛好です。公爵殿の報告を待つ間、グロリアスの里でお過ごしいただいても?」
ティボルトはもはやこくこく頷くのみだった。よし、とルディアは小さく拳を握りしめる。これで後はアークの里を守りつつハイランバオスたちが尻尾を出すのを待てばいい。
「出発準備が出来次第お送りします」と一行は控室に留められた。宮殿に入る前よりずっと兵士たちの気遣いの度合いは増したようだった。




