第3章 その2
王子が宮殿を去ってしまったら自分は誰に仕えるのだろう。ルースが毛嫌いしていたティルダか、食わせ者のティボルトか。
あらゆることが偉い人の間でだけ決まっていく。いつも、いつも、こちらは翻弄されるばかりだ。
(二度と帰ってこられない、か……)
ドブはぼんやり主君不在の部屋の絵画を眺めていた。見慣れた神話の一幕は半神半人の英雄が生贄姫を救うべく不死の力を捨てるところを描いている。
強い想いは滅びを厭わぬ。古代の詩人は高らかに歌い上げる。死せるさだめを受け入れよ。さすれば汝は真に不滅なものとなろうと。
そして英雄は死んでしまう。姫が捧げられるはずだった蛇の怪物に挑んで。
理解しがたい考えだった。それほど大事な相手なら一緒に幸せになればいいのに。化け物退治などほかの英雄たちに任せ、彼は姫と手を取り合って逃げるだけで良かったのに。
それとも彼は血筋のゆえ、逃げ出したくとも戦う以外なかったのか。高貴な人々も思うように生きられないからこんな絵を見て自分を慰めるのだろうか。英雄ですら愛した者と添い遂げることはできないのだと。
(俺たちどうなっちゃうのかな……)
ドブは小さく息をつく。同じ部屋の番をしているグレッグも先程から溜め息ばかりだ。主君はと言えば婚礼準備に忙しく、今朝からずっと出たり戻ったりを繰り返していた。どうにか彼とアウローラを会わせてやりたいと思うのに、そんな時間はなさそうだ。
と、コンコンとノックの音が部屋に響く。「王子ならいませんよ」と即答すると兵士がひょこりと顔を出した。
「用事があるのは殿下じゃない。ドブというのはお前のことか?」
名指しされ、一体なんだと瞬きする。身構えたドブに告げられたのは「客人が退屈だからとお前を呼んでいる」のひと言。それですぐにピンと来た。昨日会ったあの人だと。
「出られるな? 待たせたくない。すぐに来い」
「おわっ!?」
兵士はぐいと乱暴にドブの腕を捕まえた。グレッグが「おいおい、王子に話通してからだろ」と割り込んでも力を緩めようとしない。この城ではチャドは舐められ気味だから承諾なんて取る気がないのだ。
「わーっ! ちょ、待って待って!」
ドブは兵士に引きずられないように絨毯に踏ん張った。またあの人と話せるならそれは嬉しい。だがこちらにも任務があるし、あまり強引なのは困る。
どうしよう。なんと言ってこの兵に待ってもらおう。悩んでいるとまたもや部屋の扉が開いた。
「うん? なんだ? 何をしている?」
今度姿を現したのは温厚糸目の貴公子だった。主君の登場にドブは心底安堵する。良いタイミングで戻ってくれて助かった。これで王子に無断で持ち場を離れずに済む。
「あの、チャド王子、俺昨日サール宮に来たお客さんに部屋までおいでよって言われてるみたいで。ちょっと行ってきていいですか?」
伺いを立てるとチャドは訝しげに顔をしかめた。
「昨日サール宮に来た客? パトリシア王女のことか?」
問い返されて首を振る。王子の未来の伴侶のほうはまだ顔を見たこともない。というか誘われたとしても婚前の女の部屋に一人で出向けるはずなかった。
「いえ、そうじゃなくて。黒いケープ羽織ってて、どこの誰かまではちょっとわからないんですけど……」
なんだか変なお願いをしているなと思ったが、ほかに適当な言い方もない。不明な点は不明なまま説明する。ドブが説明するほどにチャドの表情は険しいものに変わっていった。やはり自分は変なお願いをしているらしい。
「……呼ばれたなら行くしかないが、名を聞いたり顔を覚えたりしないほうがいい。絶対にだ」
返ってきた不穏な台詞にどきりとする。よくわからないが問題のある相手というのは確かなようだ。すぐ横で聞いていたグレッグもたじろぎながらドブとチャドに目をやった。
「は、はい。何も聞かないようにします」
こくこく頷いて約束する。と同時、待ち構えていた兵士が強く腕を取った。引きずられるままドブは歩き出す。なぜか誰の姿も見えない静かな廊下を。
(な、なんでここまで人払いされてんだ?)
大勢の人間が働いている宮殿なのに下男も下女も一人もいない。衛兵たちは各部屋の前に立つのではなく通路の入口だけを厳重に塞いでいた。まるでその先が異界にでも繋がっているかのごとく。
物言わぬ彼らの脇を通り過ぎる。いつも曲がらない角を曲がる。存在さえも知らなかった階段を上っていけば別の城に迷い込んだようだった。
サール宮のこんな奥まで踏み込むのは初めてだ。兵士はとりわけ人気のない角の一室にドブを連れ、無人の前室に入ると硬い拳でゆっくりと客室のドアをノックした。
「し、失礼しまーす……」
背中を押されて入室する。兵士は中には見向きもせず、扉を閉ざして足早に去っていった。
「わあ、来てくれたんだ! ありがとー!」
その直後、緊張を吹き飛ばす勢いで響いたのは明るい声。ドブが目をやると部屋の中央の応接ソファに腰かけて例の狐目の男がにこにこ笑っていた。
「おいでおいで、ほらこっち!」
「あ、は、はい」
手招きされ、促されるまま彼のすぐ脇に立つ。狐男の隣には穏やかな笑みを浮かべる美しい男がいた。玉飾りで結わえられた長い髪、水の色の瞳はどこか神秘的でさえある。
ケープを脱いだ二人の衣装は独特なものだった。狐のほうは文様入りの立襟装束。縞々の腰帯も初めて目にする代物である。宗教家らしき男のほうは白い聖衣と紺地の長衣。本当に、どこの国のお偉方なのだろう。
ドブは直接対峙したことはないけれどジーアン兵がこういう服装だった気がする。室内には止まり木に掴まった小柄な鷹が三羽もおり、ますますあの帝国が思い起こされた。
いや、やめよう。詮索は。きっと知ってもいいことがない。
「良かった良かった、ドブ君が来てくれて。今公爵にコナーがどこにいるのか探してもらってるんだけど、待ってる間暇で暇でしょうがなくてさー」
言って狐が肩をすくめる。辟易した口ぶりにドブの心はちくりと痛んだ。
先日訪ねていったときコナーは旅に出たまま帰宅していなかったが、画家の隠れ家がどこにあるのか己は知っているのである。それなのに素知らぬふりで彼と話を続けるのは酷く心苦しかった。
「ドブ君ほら、座ってお菓子食べなよ」
鷹揚に皿の焼き菓子を勧めてこられて更に申し訳なくなる。自分は彼に何も返せやしないのにと。
「いえ、あの、結構です」
固辞したが狐は「なんで?」と唇を尖らせた。
「美味しいよ? 毒見させようってんじゃないし」
青年の手が飴色のパイに伸びる。ね、と優しく微笑まれると純然たる好意を拒むのにまた別の罪悪感が湧いてきた。頭の中ではぐるぐると「どうしよう」の言葉が回る。
コナーの居場所は明かせない。あそこにはアウローラ姫がいる。見つかってもし殺されたらチャドは深く嘆くだろう。
だがあの里へ行くのはきっと今度が最後だった。伝言を預かるならば今しかない。王子は急いで養育費を用意すると言っていたから。
(悩む必要なんかないだろ? つい昨日会ったばっかの、ちょっと話しただけの人だぞ?)
落ち着けと言い聞かせても葛藤は深まるばかりだった。なんの恩義もない男で、秘密を明かす義理もないのに、それなのになぜ己はこれほど彼に惹かれているのだろう。困っているなら助けになりたい。どこの誰かはどうでもいい。温かな目を向けられると切なくて、その痛みがすべてだった。
(母ちゃん……)
郷里に帰してやれないまま死なせた人の笑顔が胸に甦る。父に騙され、村に閉じ込められる形で結婚した哀れな母の。
一度でいいからアクアレイアの海を見せてやりたかった。旅費などなくともその気になればきっとなんとかなったのだから。
ああそうだ。誰かに何かしてあげたいと願ったなら、この次なんて思わずにそのときやらねばならないのだ──。
「あ、あの」
衝動的にドブは男に呼びかけた。こちらを仰ぐ狐の顔は似てもないのに母と重なる。記憶の中の、もう戻ってこない人。
「あの……、今だったら、コナー先生に伝言できるかも……」
ドブの発言を耳にした途端、二人が奇妙に沈黙する。やはり言わないほうが良かったか。どっと噴き出した汗とともに後悔の念が渦巻いた。
「え? ドブ君もしかして先生の居場所知ってるの?」
尋ねられ、思わず首を横に振る。脳髄を支配していたのは恐怖だ。己は何か重大なミスをしでかしたのではないかという。
「や、あの、どこにいるかまでは知らないですけど……! 先生の知り合いに手紙預けるくらいだったら……!」
しどろもどろに返した言葉に狐たちは目を見合わせる。その反応に全身から血の気が引いた。アウローラ姫のこと、知られてしまったらどうしよう。
どきどきと鼓動が乱れる。何をやっているのだと自己嫌悪に陥った。しかし幸いドブの苦しみはそう長く続かなかった。
「そっか、知り合いかあ。ごめんね。せっかくだけど直接じゃなきゃ言えないようなことなんだ」
申し出は先方から断られる。ほっとしすぎて膝から崩れ落ちかけた。
「いや、いや、いいんです! そうですよね! 重要機密とかですよね!」
諸々の感情を誤魔化すように笑いながら首を振る。安堵が心を落ち着かせると次いで猛烈な恥ずかしさに襲われた。
本当に、何をやっているのだろう。己などが身分を隠すほど高貴な人の力になれるはずなかったのに。
「その知り合いとは最近会う予定だったの? 宮廷に勤めてても外行ったりはできるんだ?」
「あ、まあ、一応お遣いとかあるんで……」
「ふうん、そっか。ドブ君も忙しいんだねえ。やっぱ栄養あるもの食べたほうがいいんじゃない?」
狐男はまたしてもドブに焼き菓子を差し出してくる。口元に押しつけられたパイ生地から香り立つ甘い匂いがひくりと鼻腔をくすぐった。
「ほら、あーん」
内心の動揺も手伝って命じられるままドブは唇を開いてしまう。隙を逃さず狐はパイの半分をこちらの口内に突っ込んだ。
「ドブ君、美味しい?」
「ふぁ、ふぁい」
貰ってしまって良かったのかとモゴモゴしながら小さく頷く。
頬張れば菓子は確かに美味かった。叶うなら母にも食べさせてやりたかったなと思うほど。




