第3章 その1
公爵家を継ぎ、古くなったサール宮を改築したとき、父ティボルトは可能な限り優美な宮廷となるように画家や建築家に依頼したという。ゆえにこの石の城には時々不釣り合いなほど豪奢な部屋が存在する。
無骨な壁を隠して輝く白漆喰。天井を飾る神話の登場人物たち。田舎貴族と侮られまいとして客人の立ち入るエリアは少々華美に思えるほどだ。
独立国家の君主の居城に相応しく。父がそう考えていたのがよくわかる。
聖王の覚えめでたきティボルトは息子らに「王子」を名乗らせる許可までも取りつけた。いつかパトリア古王国の干渉を受けぬ「王国」になりたい。願いは秘して、我々も聖王家に連なる血筋ですからと言って。
その仄暗い情熱が、独立への執念が、チャドには少しも理解できない。理解できないが従わざるを得なかった。銀山と次男を手離せば名前だけでも王国になれる。聖王を出し抜く機会も残される。父はそちらを選んだのだ。
「チャド様の準備が出来次第、パトリア古王国へお招きしますわ」
サール宮で最も典雅な調度品がしつらえられた賓客室。前室に護衛を留め、女騎士だけを傍らに置くパトリシアはそう告げた。人間の温もりのある眼差しで、いたわるようにこちらを見つめて。
「本当は身一つですぐに連れ帰るように命じられているのですが、突然すぎてきっとあなたも困惑なさっておいででしょう。夫婦としてやっていくなら良い関係を築きたいのです。どうか心残りのないように、十分なご支度をなさってください」
横暴な命令よりも誠意ある言葉のほうにチャドは戸惑う。
「あなたはこんな結婚がお嫌ではないのですか?」
問えば聖女は視線を落とし「逆らえません」と首を振った。
「私が私の裁量でできることなどたかが知れているのです。父の許してくれる範囲でなら自由には振る舞えますが」
「それにしても、わざわざあなたほどの方が私など迎えにこなくとも」
「自分の伴侶になる方ですもの。こんなにも唐突で、こんなにも意図が明らかで、ほとんど脅迫なのですから、せめて自分でお迎えに上がるのが筋合いではありませんか」
理知的なパトリアグリーンの双眸は古王国と公国の関係を冷静に受け止めていた。立派な人だとチャドは思う。この人となら存外上手くやっていけるかもしれないと。
だが思った瞬間ブルーノの顔がよぎる。王女の仮の姿ではなく、最後に見たあの青年の。
「…………」
忘れなければと自戒するほど思い出すのはなぜだろう。けれどもう、本当にこれきりにしなければ。あのとき自分で言った通りに「どこかの貴族か王族と再婚する」ことになったのだから。
「……なるべく急いで支度します。あなたの親切を台無しにしないように」
それだけ答えてチャドは客室を後にした。
あまり遅れては聖王がマルゴーへの疑念を膨らませてしまう。用意するのに時間のかかる婚礼の品は後回しにして十日以内には発たなければ。
ほかには誰も好きにならない。
悲痛な叫びが耳の奥でこだましている。
嘘をつかれていたことはもうどうでも良かった。誰もがきっと自分の裁量で可能なことを、許された範囲内で、精いっぱいにやっているだけだから。
振り返るまい。心に決めて歩を速める。
絨毯を踏んで進んでいく。
******
全身を凍てつかせたのは決して軽くない衝撃だった。公爵に与えられたのは束の間の平穏だと、いつかは終わりを告げるものだと知っていたはずなのに。傭兵団の居残り組は秘密が外へ漏れぬように留められていただけなのだから。
「結婚って……」
震え声で聞いた言葉を繰り返す。チャドが、パトリア古王国の姫と。それが何を意味しているかは明白で、グレッグはろくな返事もできなかった。
ただ見やる。部屋に戻ってくるなり「すまない」と詫びた主君を。
「私はマルゴーと聖王の関係を保証する人質として婿入りする。聖都へ赴けばおそらく二度と帰国は叶わないだろう。お前たちを連れていくこともできない。悪いが父上に仕えるか、姉上に仕えるか、改めて選び直してくれ」
息を飲む。きな臭い状況になっているのはわかっていても、こうして現実を突きつけられると苦しかった。
グレッグは仲間と目を見合わせる。公爵家からは逃げられない。宮殿を出て別の生活を始めようとすれば「どこで何を喋るかわからん」と処分されるのは目に見えていた。それでもチャドに仕えていれば、飼われているなど思わずに済んだのに。
「すみません、王子……」
一人、また一人、ティボルトかティルダを選んで形式ばかりの忠誠を誓う。どちらも選べぬグレッグとドブを残し、元傭兵団の侍従たちは一礼してチャドのもとを去っていった。
仕方ない。仕方ないのだ。己の命を守るためには。
言い聞かせてもやはりグレッグにはティボルトもティルダも選べなかった。気遣わしげに「銀山送りにされるかもしれないぞ」とチャドが忠告してくれても、どうしても。
「今すぐ返事しなきゃ駄目っすか? 王子が宮殿を出るまでは、俺もこの部屋にいたいです」
「グレッグ」
ふうと嘆息一つ零し、チャドは「わかった」と了承する。広い部屋に小さな声を響かせてドブも残留の意志を示した。
「お、俺も、王子とお別れするときに決めたいなって……」
「ドブ……」
まだ側を離れる気はないと言うように少年は足に力をこめる。しっかり者の彼は本来沈みかけた泥船にしがみつくタイプではないのだが、判断が先送りになっているのは三人で守ってきた小さな存在があるからだろうか。
「あの」
と、三白眼を泳がせて窺うようにドブが続けた。
「あの、これから、小姫様のお遣いはどうしたら……?」
問われた王子はしばし沈痛に押し黙る。
愛した人の忘れ形見だ。きっと誰より一緒に聖都へ行きたいだろう。
「……出発までにまとまった養育費を用意しよう。戻ったばかりですまないが、もう一度だけ里に届けてもらえるか?」
ドブはこくりと頷いた。そうする以外できない様子で。
この国はいつも誰かに不幸を押しつけようとする。
グレッグにはどうしてもそれが納得できない。
******
風に乗り、一路アクアレイアへと。広げた翼は幾日もかけ、ようやくにして休められた。
ブルーノはモリスの住まう孤島の工房へと舞い降りる。ちょうど開いていた窓から一階作業場に滑り込むと、突然の珍客に驚いたガラス工が椅子を蹴って飛び上がった。
「な、なんじゃ!? 何が入ってきたんじゃ!?」
その声に釣られてか隣室から「どうした?」とカロも駆けつける。皆がドナへ移ったとき、ロマはモリスの身を案じてアクアレイアに残ったのだと聞いていた。まだ側にいてくれて本当に心強く思う。
「ピィ! ピィピィピィ!」
鳴いて急を訴えれば即座に机上に文字表が差し出された。爪先でトントンとひとまず己の名を示す。
「おお、ブルーノ君か」
ほっとした顔を浮かべるモリスにブルーノは手短に用件を伝えた。人の口があれば早く済むのだが、ないものは仕方ない。ルディアたちがマルゴー公国へ向かったこと。西パトリアの最近の情勢が知りたいこと。こちらの要望を把握するや二人はどっさり新聞を持ってきてくれた。
パーキンがいなくても印刷工房は仕事を続けているらしい。このまま戻ってこないほうが職人たちには平和かもしれなかった。のんびりしている暇もないのでざっと記事を読み込んでいく。
(王国史流出……、マルゴーの南、アクアレイア湾東岸に聖王軍……、海軍が警戒中……)
やはり今のアクアレイアは危うい立場にあるようだ。いつ古王国がこちらに剣の先を向けてもおかしくなかった。仮にもジーアン領であるアクアレイアに軽率に仕掛けるかなと疑問はなくもないけれど、聖王の愚昧さ加減は有名だ。銀山を手にできなかったとき腹いせに襲いかかってこないとは言いきれない。
それに戦場になる可能性があるだけで商人たちの足は遠のく。なるべく早くハイランバオスたちを見つけだし、決着をつけなくてはならなかった。
(ん? この記事は……)
気になる情報が視界に飛び込み、ブルーノは文面に目を走らせる。ドナ港が封鎖される少し前、詩人たちが街に滞在していたと思しき日付。ドナで退役兵の死体が見つかったと書いてある。被害者は砦の退役兵ではない。地元の女と所帯を持ち、城下で穏やかに生活していたはず蟲だ。
下手人は割れておらず、ドナでは厳戒態勢が続いているそうだった。これがたやすく港に鎖をかけられた理由かとげんなりする。彼らのささやかな都合のために何人殺す気なのだろう。記憶を分け合った陽気な青年がもういないことを思い出し、急がなければという念を強くした。
「ピィピィピィ!」
だがしかし、別れを告げて窓辺で茶羽を広げた矢先に「待て」とストップをかけられる。振り返れば真摯な声でカロがブルーノに申し出た。
「マルゴーだろう? 俺も行く。何か力になれるかもしれん」
「ピ、ピィ?」
連れがいると飛行速度を出せなくなる。親切はありがたかったがブルーノは首を振って断った。けれどロマは話を終わらせてくれない。「場所だけ教えろ。勝手に行く」と食い下がられる。
飛び立ちたい気持ちを堪え、大急ぎでグロリアスとアークの里までの道筋を伝えた。今はハイランバオスとラオタオを追っていて、彼らとは敵になったということも。
「ピィー!」
用事が済むと一秒たりとも留まってはいられなかった。
行き先はマルゴー。それだけで自然と思い馳せてしまう人がいる。彼の国もこのままでは古王国に攻め込まれるかもしれないのだ。
一心に先を急いだ。これ以上酷いことが起きないように。起こってしまった問題もなんとか収められるように。
飛ぶしかなかった。冷たい風を捕まえて。