第2章 その4
罪の所在はいつだって不確かだ。もっと多くの悪事を重ねた人間がいるときでさえ別の誰かが清算を求められる。
パトリア古王国から使者が参じているので同席するように──。突然そんな命令を告げられ、チャドはきょとんと小首を傾げた。
「私がか? 姉上ではなく?」
「はい。ティボルト様のお申しつけです」
チェス駒を盤に戻して困惑したまま「わかった」と返答する。丸テーブルを離れると服装や髪に乱れがないか侍従たちに確認させた。
古王国から使者が来る。それはわかる。騎士物語の最終巻はこのサールにも取り寄せられたし、まずい火種になるのは明らかだったから。
父ティボルトは公国内での販売と複製写本の製作を即座に禁止したけれど、西パトリア各国であれが出回っているとしたら考えられることは一つである。不正に誤魔化した税を納めるか領土そのものを差し出せと迫られるときが来たのだ。
(やはり聖王はマルゴーを見逃してくれなかったか)
諦め心地に息をつく。騎士物語は公的文書などではない。空想の産物に何を仰せかと拒絶するのは可能だろう。だが隠し銀山の存在は純然たる事実だった。古王国の使者たちが該当地域を調査すれば嘘はたちまち露見するのだ。
(公爵家も父上の代で終わりかもしれないな……)
秘密裏に銀の採掘を続けてきたことを姉の口から聞いたとき、胸に巣食った冷めた気分が甦る。
父と姉は重犯罪者だけでなく、食うに困って盗みを始めた幼子や、たまたま通りがかったロマ、傭兵団志望の若者など、放り込めそうな人間は誰彼構わず銀山に放り込んでいた。劣悪な環境で一体何人死んでいったのか考えるだけで吐き気がする。
そのうえ銀山の管理者は公国の後継者である兄だった。奸智を巡らす素養がないと見なされた己だけが何も知らずに生きてきたのだ。公爵家はマルゴーのために働いているのだと信じて。
「ティボルト様は執務室でお待ちです。どうぞお早く」
あまり待たせるなと言いたげに兵が強い語調で急かす。その態度にカチンときたらしいグレッグが眉根を寄せて男を睨んだ。叱る代わりに腕で制して兵の開けてくれている扉に向かう。真面目に急ぐ気も起きなかったが。
独立戦争を仕掛ける目前に聖王に秘密を知られ、うろたえる父や姉に同情はできなかった。罪なき者まで地獄に落として自分たちだけ無事に済むはずないのである。そこまでしなくては得られない平和なら最初から別の道を採るべきだった。長期的視野も、実際的な権限も、何も持たない自分が言っても戯言にしか聞こえまいが。
だからこそ不思議だった。使者と話し合う重要な場に己が呼び出されたこと。
ともかくも自室から執務室へと歩き出す。妙に緊張した兵に促されるまま。
(わざわざ私を名指しするなど誰が来訪したのだろう? 古王国に懇意な者はいないはずだが……)
行ってみると意外な人物が待っていた。並べられた小椅子のうち最も上等な一席に腰かけていたのはパトリア古王国第七王女パトリシア・ドムス・オリ・パトリア。引退はしたが女神ディアナの祭事には必ず呼ばれる高貴な巫女だ。傍らには片時も彼女の側を離れぬという女騎士マーシャが護衛らと立っていた。ダークブラウンのツインテールはなるほどどこかで見た気がする。
だがチャドの目を釘付けにしたのは可憐な娘たちではなかった。王女の座るすぐ後ろ、片足を小椅子に上げてふんぞり返る狐目の青年と、穏やかな笑みを浮かべる異国の麗人。意識はひと目で持っていかれた。なぜこの二人がこんなところにいるのだと。
「は、ハイランバオス殿?」
レーギア宮で何度か顔を合わせた男は無言のまま微笑を崩しもしなかった。アレイア海東岸の寄港地を開放すると見せかけて、アクアレイアを罠にかけたバオス教の教主である。視線が合えばざわりと悪寒が背筋を駆けた。
ジーアン帝国十将の一人ラオタオもにたにた笑ってこちらを仰ぐ。なんとも言えない嫌な顔だ。以前に一度、聖預言者への伝言を携えて彼が王国を訪ねたとき、王家に挨拶しに来た彼はまだ親しみが持てたのに。
チャドが彼らと関わったのはルディアの伴侶であった時期、中でもわずかな機会でだけだ。二人が己を呼んだとは少々考えにくかった。
どういう状況なのだろう。探ろうとして執務机のティボルトに目を向ける。
しかし父は何も説明してくれなかった。ジーアンの二人については不明な点しかなかったせいかもしれないが。
「チャド、これを読んで」
間を置かず父の隣についていた姉ティルダから一通の書簡が差し出される。封を開いてチャドは再び驚愕した。そこに書かれた高圧的な通告に。
「聖王を謀った公爵家を追放するか、銀山を譲渡するか選択せよ……。ただし後者の場合、古王国への反逆意思がないことを示すべくパトリシアとチャドの婚姻に同意し、夫妻は聖都に住まわせよ……?」
そうすれば公国の独立を認めてやって構わないとの一文に目を瞠る。莫大な銀と引き換えに、聖王の孫がマルゴーを継ぐのなら、血を流さずに王国の名をくれてやろうと。
絶句する。なんのために己が呼ばれたのか悟って。
父も、姉も、聖王の出した条件に同意するつもりなのだ。チャドに一生人質として囚われよと暗に命じているのである。
「古王国はアルタルーペの麓に五千の兵を集めています。その気になれば倍に増やすのは簡単ですよ? 何しろ古王国内には常時多くの戦力が仕事を求めてうろついていますからね」
涼やかな声でハイランバオスが補足した。現時点で兵の中にはマルゴー出身の傭兵も少なくないと。
「同士討ちはあなた方も避けたいのでは? 美しいアルタルーペでマルゴー人とマルゴー人が殺し合うのは悲劇でしょう」
くすりと預言者が笑う。物騒な台詞の割にハイランバオスは楽しげだった。もし本当にそんな事態になってしまえば後々まで民の心に禍根が残るとわかるだろうに。
「……チャドよ、良いな?」
父はまったく預言者に逆らえる様子ではなかった。重々しく発された問いに「はい」としか答えてはならぬ圧力を感じる。
これしかないのだ。祖国の平和を守りつつ公爵家が生き延びる道は。
せめて銀山の話が別の形で出ていれば違ったのだろう。我らは貧しいと言いながら財を秘していた公爵家に不信を募らせ、招集に応じなくなった傭兵団は数多い。金を作り、兵を育てれば悲願は成せると積み上げた父の努力の一切は無駄になったのだ。
断ればどうなるのだろう? 澱んだ思考がちらついたが、どう考えても己にそんな自由はなかった。反抗などするだけ無駄だ。どうせ何もかも父の都合で決められる。
「……承知いたしました」
唇を噛み、小さく頷く。返事を耳にして立ち上がったパトリシアが「どうぞお願いいたしますわ、チャド様」とスカートを摘まんで一礼した。
「うむ。では婚約者殿を客室へお連れしてさしあげなさい」
旅の疲れをねぎらうように言いつけられ、執務室を退出する。護衛兵たちは揃って聖なる王女の後をついてきたが、ハイランバオスとラオタオはそのまま部屋に留まった。どうやら彼らにはまだ密談があるらしい。
(再婚か……)
覚悟はしていたことだったが、こんな形でその日が来るとは思わなかった。
聖王家の人質婿。自分にはきっと似合いだろう。
不意に脳裏をよぎった青に目を伏せる。──終わった話だ。あの子とのことは。
パトリシアは学識高く温厚で、民にも気安いと聞いている。己の立場の低さを思えば十分すぎる相手だった。
「参りましょう」
エスコートの手を差し伸べる。月光のように白い手に。
極力何も考えないように踏み出した。
瞼に焼きつく潤んだ青と少しでも遠ざかるように。




