第2章 その3
「いやあああ! いやっ! いやああああ!!」
防衛隊の幕屋に王女が戻ると同時、パーキンはマルコムたちに引きずられて別の幕屋へ移っていった。
「なんでドナに!? ジーアン兵の皆さんとご一緒に!?」
印刷技師は半泣きだったが憐れむ気持ちは微塵も起きない。お前が人として信用なさすぎるんだよとレイモンドは薄目で眺めるのみだった。
ルディアによれば彼はこれからドナの砦に一時投獄されるらしい。「首枷でもつけておかねばハイランバオスに集中できん」という意見には同意した。「牢に放り込む前に処遇を告げると逃げられそうだし、砦までは何も言うなと頼んである」との指示内容の的確さにも。
「レイモンド様助けてェーッ!」
玄関布の向こう側、パーキンの泣き叫ぶ声が遠くなり、ようやくふうと息をつく。どうしていつもあの男は最悪な事態を更に最悪にするのだろう。詩人や狐とは別の意味で災害だ。
「……あのう、なんなんでしょうかあの人は……?」
と、おずおずと弓兵が尋ねてくる。バジルのほうからレイモンドに話を振るなど再会してから初めてではなかろうか。モミアゲの件は何も聞かずに推察で済ませるよりもきちんと確認したほうがいい。彼の判断は正しいと思う。
「あいつはパーキンっつって、俺の印刷工房の共同経営者でな……」
答えつつレイモンドは遠い目になってしまった。パーキンをアクアレイアに連れてくるリスクはわかっていたはずなのに回避できなかったなと。こういうことにならないために己が彼を御さねばならなかったのに。
「活版印刷機という素晴らしい発明品を世に生み出した男だが、人格と行動に問題がありすぎて果てしなく厄介なのだ。お前も気をつけてくれ」
質問を引き取ってルディアがあれこれパーキンの破天荒ぶりを伝えてくれる。ろくでもない武勇伝を一つ知るたび弓兵は「ヒエッ……」と息を飲み込んだ。
久しぶりにパーキンの顔を見た後だと「反省するだけバジルのほうがまともだな」と思えてくる。もちろんそれですべてを許せるわけではないが。
サルアルカへ行って帰って約半年。「アルフレッド」の処刑日からは七ヶ月。時間は過ぎても膿んだ傷が癒える兆しはどこにもなかった。怒りを押し殺そうとするほど皆との距離が開いていく。
どうすればいいのだろう。作り笑いもできなくなったらどうすれば。
「うーん。女帝陛下と接見したときはもう少し真っ当な男に見えたような気がしたが……。いや、うん、そうでもなかったかな……」
間近で響いた声にレイモンドはぎくりと肩を強張らせた。振り返れば鉄仮面を外した騎士が神妙に顔をしかめている。
正体がばれないようにアルフレッドはパーキンのいる間ずっと口を閉ざしていたから、急に会話に参加され、心臓がばくばくと波打った。
やはり彼は覚えているのか。レイモンドが印刷技師と老詩人を伴って意気揚々と宮殿に赴いた日のことを。
「あいつの話はもういいよ。今はそれよりマルゴーだろ」
不自然にならないように目を逸らし、不自然にならないように話題を変えた。騎士の口からあの日のことを聞きたくなくて。
どんな思いで「アルフレッド」はレイモンドを迎えたのだろう。成功した、恋も名誉も父親までも手に入れた幼馴染を。
いつから彼は惨めだなんて感じるようになったのだろう。──一体いつから。
「確かにその通りだな。公国で戦闘になる可能性も高い。ネブラにいるうちに装備を見直すべきかもしれない」
言ってアルフレッドは剣を抜き、刃こぼれがないかどうか確かめた。点検が済むと刀身はすぐさま鞘に戻される。
見ないように見ないように努めても馴染んだ声と金属音はどうしようもなくレイモンドの胸を締めつけた。喉が詰まって息ができない。騎馬民族の衣装を着た幼げな彼ではなく、甲冑を纏う精悍な騎士にこうして横にいられると。
頭がぐるぐる混乱してくる。死体は動いてはならないのだ。だってこれではあまりにも──。
「そうしてるとほんとにアル兄みたいだよね」
と、今まで黙って見ていたモモが呟いた。言葉にしてほしくなかった言葉にレイモンドは狼狽する。そうして思わず吠えかけた。そんなわけないだろう、あいつは二度と戻ってはこないのだと。
「あのさ」
だがその前に少女が真剣な面持ちで続ける。有無を言わせぬ、決意を固めた眼差しで。
「マルゴーに入るならモモも無事でいられるかわからないし、今のうちに皆に言っておきたいこと言っていい?」
一瞬伏せられた双眸はきっと砂漠で死んだ女を浮かべていた。噛みつく意志はたちまちに失せ、レイモンドは押し黙る。
知っていた。サルアルカからの帰り道、彼女がじっと一人で考え込んでいたこと。死者のために何をすべきか考えていたことを。
ルディアも、バジルも、アイリーンも、アルフレッドも、かまどの前に立つ斧兵に目をやった。皆静かに次の言葉を待っている。
「あのね、モモちょっと嘘ついてた。今のアル兄もアル兄だって信じてるけど心のどこかで別の人だって感じてる」
感情を乱すことなくモモは続けた。「死んでほしくなかったし、死なせたくもなかったよ」「なんでモモに見送りなんてさせるのって本気で憤った」と。
「でも──」
ほんのわずか声が震える。彼女がどんな結論に至ったか、なんとなくわかる気がした。それを聞いたら己もきっと揺らいでしまうと。
だが兄に似て、いかなるときもまっすぐな少女は果敢に迷いを口にする。
「でも今のアル兄は、アル兄がどうしてもなりたかったアル兄なんだよね? 前のアル兄と同じじゃなくなったとしても、モモが止められなかったことにもちゃんと意味があったんだよね?」
──アルフレッドがどうしてもなりたかったアルフレッド。ほかのすべてを灰にしてでも志した彼の夢。
騎士以外の生き方はできない男だ。隣で見てきた己はよく知っている。
モモの瞳は変わってしまった兄を見ていた。兄に答えを求めていた。
「すごく悲しかったけど、いつかこれで良かったんだって言えるようになるんだよね……?」
涙を堪えてかじかむ声が静寂の中に響く。
問いかけにアルフレッドは黙考した。騎士は真摯に言葉を探しているように見えた。──それから。
「そうしてみせるよ。俺の全身全霊で」
短い返答。嫌になるほど誠実な。
皆の間に流れる空気がやわらぐほどに心臓は冷たく凍りついていった。
こいつは「アルフレッド」じゃない。ともに過ごした十二年をこいつは何も覚えていない。
こいつは「アルフレッド」ではないのだ。最後にレイモンドが会った、あの「アルフレッド」では。
(なんで……?)
渦巻く嘆きは静まらなかった。
モモも、ルディアも、きっと誰もが友人の遺したものを大切にしようとしている。己にはどうしてもそれが受け入れがたい。
ちらつくのは酔って荒んだ幼馴染。
わかっている。何がこんなに苦しいのか。
──仲直りがしたかったんだ。ただそれだけ。
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何もしないで自分を納得させられるのと、かつて己に向けられた彼女の言葉を思い出す。
モモは強い。悲痛な思いに打ちのめされてもなすべきことを放り出さない。そんな彼女だからこそ自分は一心に憧れてきたのだ。
今日の間に発つと言われ、バジルは装備一式を西パトリア風に整え直した後、ドナ組のタルバに別れを告げに来ていた。
天幕並ぶ緑の湿地。泥濘で足を汚した猫がおずおずと見上げてくる。
ドナに着いたら彼も仲間の接合を手伝うらしい。砦には小間使いとして働く脳蟲が何人か残っている。アクアレイア湾の海水も保管されているはずだから仕事はスムーズに進むだろう。
こんな展開になるとは思ってもいなかった。ジーアンとアクアレイアが手を結び、蟲の延命が進むとは。可能性はきっと数多あったのだ。一つしかないと信じ込んでいたやり方も。──あのときもっと考えてみれば良かった。
「マルゴーから戻ってきたら、また工房を始めましょうね」
呼びかけるとタルバは「ニャア?」とためらいを帯びた声で鳴く。猫の目は窺うようにこちらを見つめた。
思えば彼も律儀な男だ。約束を破ったことなど詫びずに去れば良かったのに、いつまでもバジルを気にして償おうとしてくれる。
己も覚悟を決めなければ。苦く笑ってバジルは続けた。小さな決意表明を。
「水銀鏡もレースガラスもたくさん作ってアクアレイアのために働かなきゃと思うんです。僕にできるの、やっぱりそれだけでしょうから……」
悔いはある。たとえ駄目だと首を振られても皆に相談するべきだった。人のよすぎる「アルフレッド」はきっと本気で許してくれていたのだろうが、自分で自分をまだ許せない。
それでも今は少しでも前を向いていたかった。一人でも走れてしまうモモを見失わないように。傷ついたままでも進む彼女をどうにか守り抜けるように。
皆で行って、皆で帰って、そうしたらできる贖罪を始めたい。
「せっかく寿命も延びたんですし、手伝ってくれますよね?」
「……!」
お互い一から修行のし直しだと言えばタルバはこくりと頷いた。
湿原の短い草々をさざめかせ、突風が吹き抜ける。アルタルーペの山々から吹き降ろした強い風が。
苦しくても背負ったものと一歩ずつ進んでいく以外はないのだ。
誓った心は静かだった。




