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第2章 その2

 獄中でトレヴァー・オーウェンが死んでいるのが見つかった。第一報を受け取ってニコラスは「そうか」と息をついた。極刑判決が下る前に彼は自ら死を選んだようである。多分そうなると悟ってはいたが。

 老いた足を進ませてニコラスは宮殿のバルコニーから輝くアクアレイア湾を見やる。今はまだ静穏を保っているエメラルドグリーンの潟湖を。

 王国史の持ち出しが発覚したときトレヴァーは十人委員会から逃げ出そうとしなかった。あの繊細な軍人にはこの世への未練などかけらもなかったのかもしれない。どんな悪手でも再独立の布石さえ打てれば。

 可愛がっていた一人娘が王家のために死んだこと。こちらが考えるより彼はずっと思い詰めていたようだ。思えばトレヴァーはユリシーズが死んだときも喜んでいたほどなのだ。これで今後は再独立派が優勢となるはずだと。

 もっと注意して見ておくべきだったのだろう。こうなっては遅すぎるが。


「……ほかに変わったことは?」


 悔恨を飲み込んでニコラスは侍従に問う。人手不足でゴンドラ漕ぎに密談になんでもこなすようになった男は「いえ」と首を横に振った。


「強いて言うなら海軍が……いや、いつも通りはいつも通りなのですが」


 続いた台詞にげんなりする。

 レドリー率いる主力部隊は防衛任務に就いたはいいが、相変わらず壊滅的に統率が取れておらず、古王国軍を歓迎してジーアンから守ってもらったほうがいいのではと言い出す者までいるらしい。ただやはり自由都市派のユリシーズが頂点に立っていた組織だけあり、王国再独立派には傾きたがらぬ人間も多いそうだ。そんなに意見がバラバラではいざ戦闘になったときにきちんと連携が取れるのだろうかと不安だが。


(ジーアンが建てさせた小砦があってまだ助かったのう)


 ニコラスはふうと小さく息をつく。

 このために用意した防衛設備ではないだろうが、戦闘経験の少ない予備兵も真新しい望楼にいれば多少は安心できるようだ。

 ともかく聖王にアクアレイアの地を踏み荒らさせてはならない。王家再興の根回しすらできていないのに古王国がアクアレイアをまともに扱うはずないのだから。


(聖王と公爵の間で話がつけば兵も退くはず。それまでの辛抱じゃ)


 古王国の軍勢はアクアレイア湾の西岸、アルタルーペの麓に陣を敷いたきりまったく動いていなかった。彼らの目的が貧しくなったアクアレイアなどではなくマルゴーの隠し銀山にあることは知れている。それでもいつ何が起きてもおかしくなかった。

 突然すべてのジーアン兵を撤退させたラオタオの思惑も不明である。脅威が去ったと確信が持てるまで気は抜けない。

 ぼろぼろの船だとしても舵取りが舵を離すわけにいかなかった。生きた者が乗った船である限りは。




 *******




 ディラン時代に蒔いた種がいい頃合いで実ったようだ。「いずれアクアレイアのために力をお借りしたいのです」──そう唆していた貴族たちが勢揃いした天幕を眺め、ハイランバオスはにこりと微笑む。

 元々パトリア古王国ではヘウンバオスから脳蟲の(アクアレイア)を奪う算段で動いていたのだ。計画は変更したが手札は流用可能である。そのうえなんだか愉快な形に整ってきてくれた。どうやら流れはこちらに向いているらしい。


「約束は果たしましたよ。今度は私のお願いを聞いてくださいますね?」


 問いかけに「うむ、うむ」と聖なる老肥満体が頷く。

 ハイランバオスとラオタオは王の迎えた客として古王国軍の軍議に同席していた。約束とはアクアレイアに留まっていたジーアン兵を送り返すことである。その代わり彼らはこちらを仲間に加えてくれる手筈になっていた。

 聖王には数年前のアクアレイア包囲作戦の際、強めに息をかけておいたので簡単に事が運んだ。海からの強襲を受ける可能性がほぼなくなり、彼は大いに喜んでいる様子である。


「なぜバオス教の教主殿が帝国を裏切るような真似を……」


 と、胡散臭げに指揮官である貴族の一人が睨んでくる。「ジーアンにも色々とあるのです」と軽くかわせば彼はますます眉間のしわを深くした。


「私はマルゴーへ行きたい。あなた方はマルゴーを攻めたい。私が使者としてサール宮へ赴けば、公爵があなた方の要望を拒絶したときすぐに侵攻できるのですからそれでいいではありませんか。『救援軍に参加せぬどころかジーアンと通じている』とこじつけて、ね?」


 詮索を牽制すると指揮官は押し黙った。顔には理解できないと書いてある。なんの得もしないのになぜ自分から引っ掻き回しにいくのかと。

 ただ彼も聖王が考えなしにハイランバオスたちを懐に入れてしまったので、さっさと厄介払いしたい思いのほうが強いようだ。いつまでも帝国の造反者に居座られては古王国がジーアンから狙われる羽目になる。だから結局、彼らはこちらの望む通りにしてくれる。


「あなた方はここで吉報をお待ちください。使者の役目を果たした後も我々が戻ることはありませんのでご安心を」


 指揮官から公爵宛ての書簡を受け取り、懐に押し込んだ。狐を連れて天幕を出る。するとこれからサールへ向かう古王国側の使者団が待っていた。


「ご準備はもうよろしいのですか?」


 気品ある声で尋ねてきたのは聖王家の第七王女パトリシア・ドムス・オリ・パトリア。隣に立つのは彼女付きのツインテールの女騎士。あとはまあ覚える必要もなさそうな護衛の武装兵たちだ。

 可愛い末娘を使ってまで銀鉱脈が欲しいとは見上げた老いぼれ君主である。彼の余命などそれこそ十年もなさそうに見えるのに。


「よろしくねー」


 愛想良く手を差し出したラオタオにパトリシアは一瞬すくみ、しかし気丈に「よろしくお願いいたしますわ」と応じた。肩で切り揃えたベージュの髪も、パトリアグリーンの清らな瞳も乱れない。長いことディアナ神殿の筆頭巫女を務めてきた高名な聖女というのは本当のようだ。

 だがそんなことはハイランバオスにはどうでも良かった。美しく慕わしい魂以外のことはどうでも。


「ではそろそろ参りましょう」


 テイアンスアンよりよほど優しげな峠を見上げて歩き始める。アークのもとへと続く道。


「ああ、そうだ。()()を始末しておかなくては」


 踏み出してからふと思い出し、ハイランバオスは懐のガラス瓶を取り出した。草原の旅を安全に終えるためだけに引き連れた、その前は古王国での工作時に「巣のために頑張りましょう」と使い倒した、けれどもう不要な蟲たち。

 型違いながら今日まで上手く乗せられてくれたなと感謝する。木栓を抜いて瓶を逆さに引っ繰り返せば彼らは液ごと地面にびちゃりと落下した。

 跳ねる水滴。意味がわからず瞬いている王女たち。ラオタオだけは楽しげにニヤつきながらこちらを見ている。


「聖櫃を破壊する邪魔をされては困りますからね」


 くすりと笑い、空になった瓶を戻す。小事を終えるとハイランバオスは再び山道を歩き出した。ずっと望んでやまなかった千年の終幕に向けて。




 ******




 天帝の幕屋を訪ねたのはルディア一人だけだった。

 パーキンは縄で拘束したが、ぐるぐる巻きでもあの男は油断ならない。念のため部隊の皆に見張ってもらっているのである。本当にこれ以上余計な真似のできないように幕屋の周囲は退役兵(マルコム)たちで固めておいた。ここまでしてもまだ何かやらかされそうで不安は拭いきれなかったが。


「そんなろくでもない男ならいっそ殺してしまえばどうだ?」


 街での顛末を聞き終えたヘウンバオスが呆れ気味に問うてくる。しかし彼はすぐ「いや、技術は真に優れているのだったな」と思い直した。

 綾織の布の敷かれた長椅子の上、瞼を閉じた天帝はその裏側で新たな記憶を参照している風である。

 細かい話をしなくとも彼とは格段に意思決定が早く済んだ。こういうレベルで相通じてしまうから半身をもがれた彼の痛みには底がないのだろう。

 ルディアはちらと伏せられたままの赤い目を見やる。ヘウンバオスの胸中を思うと己の心も苦しかった。古い思い出の一部が勝手に甦って。

 かぶりを振って思考を散らす。今は聖櫃(アーク)以外のことに気を取られている場合ではない。何はともあれ「しばらく置いてやっていいか?」と印刷技師の件を頼んだ。


「一人増えるくらいまったく構わん。というか兵士に監視させておきたいならドナの砦にぶち込んでおけばどうだ? どうせあちらにも人を回さねばならんのだしな」

「ドナの砦に? なるほど物理的な檻のほうが安全か」

「ああ。ちょうど退役兵たちもドナに戻そうと考えていたところだ。とにかくさっさとアクアレイアに戦力を送り返さねば」


 ヘウンバオスにも狐たちがジーアン兵を退去させた報告は上がっているようだった。アクアレイア防衛の手配がどこまで進んでいるか、彼は端的に教えてくれる。


「あの二人、単にアクアレイアの港を封鎖しただけでなくご丁寧にドナからも船という船を追い出して入江に鎖をかけたそうだ。今ヴラシィに『至急ドナに船団を送れ』と早馬をやったところだが、どう急いでもアクアレイアが万全の状態になるまで十日はかかるぞ」


 十日。破格のスピードには違いないがそれでも微妙な日数だった。上陸及び略奪行為が始まって終わるには三日もあれば十分だ。だが今はほかに打つ手もない。聖王の関心が銀山から逸れないように祈るばかりだ。


「サルアルカから連れてきた兵の半分はドナからアクアレイアへ送る。その際に未接合の蟲の延命を終えておきたい。アイリーンと退役兵にも手伝わせるが、それでいいな?」

「わかった」


 問いにルディアは同意した。完全にハイランバオスの手の内なのは否めないが、ここは兵力を分けるしかない。アクアレイアが戦場となれば今度こそ手の施しようのない致命傷となるのだから。


「……あれはもうマルゴーに入ったと思うか?」


 長椅子に深く腰を沈め、ヘウンバオスが重々しい声で尋ねる。小さく頷き、ルディアは「この手際なら入国したと考えるべきだろう」と答えた。私たちも急がなければ。視線を交わして頷き合う。


「どうする? こっちはどうやってマルゴーに?」

「何年か前に公国から求められていた休戦協定の延長。あれを承諾しに来たという体で使者団を遣わせる」


 天帝は言う。君主の器と後方の指揮はファンスウに任せ、自分がその使者に化けると。防衛隊は通訳のふりをして付き添えとのことである。


「ジーアンからの賓客ならサールに近いグロリアスの里で保養したいと求めても、ついでにその近隣村落まで足を延ばしてもとやかくは言われまい。そこでハイランバオスたちを迎え撃つ」


 アンバー経由でどんな情報が漏れているかわからない。今は何よりアークのもとへ辿り着くのが先決だ。天帝の意にルディアも「わかった」と応じた。


「支度ができたらすぐに発つぞ。お前も仲間に伝えてこい」


 身体を取り換えるのだろう。ヘウンバオスが長椅子から立ち上がる。

 ルディアもただちに彼の天幕を退出した。一刻も早く公国へ向かうために。

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