第1章 その4
行きに通りがかったとき、この湖はこんなに青く澄み渡っていただろうか。他人の記憶でもあるのとないのとでは印象に差が出るものだ。
アルフレッドは広がる葦原を眺める。アクアレイア湾によく似た塩湖はより清冽さを増したようだ。
初めて馬に乗ったのが確かこの辺りだった。部隊の皆に「はじめまして」と挨拶したのも。
「おーい、急げよー!」
天帝はここで兵士に幕営させるつもりらしい。湿地の中でもなるべく乾いた土壌を選んで幕屋がどんどん組み立てられる。
遠景にはアルタルーペの東端が霞んでいた。ジーアン兵が結集しているとの情報はすぐにもサールへ届くだろうと思われた。
「おい、アルフレッド。この先は顔を隠せ」
と、主君に腕を掴まれて防衛隊の幕屋へと引っ張り込まれる。渡されたのはすっぽりと頭部を覆う鉄仮面。これと遊牧民の服は合わなくないかと思ったら鎧一式も渡された。ずっとアニークが預かってくれていたものを。
サルアルカに残った女帝を思い出し、我知らず剣の柄を握る。アクアレイアに近づくほど景色が美しく見えるのは、西パトリアに憧れた彼女の瞳を通じているからかもしれない。
分け合った記憶は少しずつ遠くなっていくと聞く。だが今はまだ彼女の想いは鮮明だった。
「ねえ、モモたちも着替えたほうがいいよね?」
アルフレッドが鎧の装着を済ませると妹が──本当にそう呼んでいいのかは不明だが、兄と呼んでくれるので妹なのだと捉えている──着込んだ立襟装束の首元を引っ張りながらそう尋ねる。パトリア圏に入るならパトリア人らしくしようということだろう。
部隊はこれからネブラの街で情報収集をする予定だった。ハイランバオスとラオタオがここを通ったのはまず間違いないからだ。いかにも帝国の訪問客という恰好でいるよりも、アクアレイア人として雑踏に紛れたほうが有益な話が聞けるかもしれない。住民だって支配層には秘めたい噂があるだろう。
鷹の姿のブルーノと、捕虜になったとき装備を取られたバジル以外は全員が元々着ていた衣装にそれぞれ腕を通した。準備ができると主君は部隊を率いて街に繰り出した。
「こ、この印は……! どうぞ、どうぞ、お通りください!」
姿勢を正した衛兵がそそくさと格子を上げる。いざ向かった街門ではなんの審査も行われなかった。強い味方がいるというのは頼もしい。ヘウンバオスの授けてくれた旅券にはこれ見よがしに天帝印が捺されており、防衛隊の自由と安全を保証していた。この証書さえ持っていれば事件が起きても平気そうだ。
「住民は普通に生活しているようだな」
ぐるりと街を見渡してルディアが言う。「まずは広場へ向かおう」との指示に応じてレイモンドが前へ出た。彼は一度防寒着を揃えるためにネブラに入ったことがあるのだ。大通りをすいすいと行く槍兵の背に部隊の面々も続いた。
「どうだ? 前と変わった様子はあるか?」
「いや、冬営の時期が終わったから遊牧民が減ったかなーってくらいだ。街の感じは同じだな」
「そうか。気づいたことがあればすぐ言ってくれ。何しろ逃げたのがバオス教の教主様だ。どこでどんな煽動を行っていてもおかしくはない」
傍らでルディアとレイモンドのやり取りを見守る。甘い雰囲気は見られないが、二人は恋人同士らしい。これは接合で知ったのではなくアイリーンやモモから聞きかじった話だった。
だが詳しいことは何も知らない。アルフレッドが尋ねても教えてもらえないのである。主君の大切な人間なら己もきちんと尊重せねばと思うのに。
それにこの槍兵のことは「アルフレッド」も気にかけていた。酷く傷つけてしまったと、悔いた顔でアニークに零した彼を思い出す。
死の直前の一週間、彼は女帝に乞われるままに様々な話をした。それが今、巡り巡って己の頭に還ってきている。
握手は交わしてくれた仲間がこちらを見やって目を伏せるとき、ざわざわと胸が波立った。何も知らなければきっと気にも留めなかったのに。
(早く色々覚え直さないとな)
主君のことも、部隊のことも、己のことも。接合前より多少はものがわかるようになってきたが、まだ全然だ。「アルフレッド」と同じでなくていいけれど必要な気遣いくらいは早くできるようになりたい。
そんなことを考えながら円形広場まで出ると、突然誰かの悲鳴が付近に響き渡った。
「うわあーッ!! 見逃してくれーッ!!」
それは男の声だった。どこかで聞いた覚えのある。
アルフレッドは声の主を探して視線を滑らせた。注意を引かれて顔を上げたレイモンドたちと同じように。
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「食い逃げだ!」
「捕まえてくれ!」
荒れた怒号が街の平穏を切り裂く。見てみれば裏路地からあたふたと人影が飛び出してくるところだった。
暗がりや迷路に逃げ込むのではなく雑踏で追手を撒こうとするあたり、即座に地元住民ではないのが知れる。ネブラは度重なる侵略を受け、何度も何度も建て直された街だけあって構造が複雑なのだ。古い石造りの家並みにレンガの新区画が食い込み、脇道小道が実に多い。だからよそ者が素早くずらかりたいときは人波に紛れてしまうのが最適解なのだった。
とは言えそれはこっそり逃げ出すならの話だ。食い逃げ犯だと連呼されつつ衆人の前に登場すれば当たり前だが即刻身柄を取り押さえられる。裏路地から出てきた男もすぐに汚い石畳に転がされていた。
(ネブラもあんまり治安がいいとは言えねーなあ)
捕獲現場を遠目に見ながら脇を通り過ぎようとして、レイモンドは「んん?」と立ち止まる。何か今、あまり目にしたくないモミアゲが視界に入ったような気がして。
「うわーん! 魚一匹くらい恵んでくれたっていいじゃないかよーッ!」
首に縄をかけられて引きずられていく印刷技師に思わず「パーキン!?」と名を叫ぶ。すると彼もこちらに気づいて「ああッ! レイモンド! ブルーノにモモさんも!」と両手両足をばたつかせた。
なんでこいつがネブラにいるんだと不吉な予感を覚えつつ、ともかく急いで追いすがる。「連れがとんだ迷惑を」と代金を肩代わりしてやれば縄を解かれたパーキンが涙ながらに礼を言った。
「ああっ、ありがてえありがてえ! 助かったぜレイモンド様!」
「お前なんでこんなところにいるんだ? まさかアクアレイアから追放されたとか言わねーよな?」
おそるおそる尋ねるとそのまさかだったらしい。「えへ」と引きつった笑みを向けられ、くらくらと眩暈がした。一体今度は何をやらかしてくれたのだ。
不測の事態の発生を察したらしいルディアが肘でこちらをつつき「ここではやめよう。場所を変えるぞ」と耳打ちする。人に聞かれると困る話が出てくる可能性は高かった。一も二もなくレイモンドも頷いた。
「あ、だったら俺の連泊してる宿が」
パーキンの台詞に思わず「食い逃げするような奴が宿取る金なんて持ってんのか?」と眉をしかめる。すると「宿は基本的に後払いだからな!」と頭痛の悪化する返答があった。
ともかくその宿とやらに連れ立って移動する。初めてパーキンと会うバジルは完全に「なんだこの人……」という顔をしていた。
アルフレッドのほうは女帝と印刷技師を引き合わせたことがあったからか、動じている素振りはない。頭部を完全に覆い隠す鉄仮面のおかげで表情までは見えなかったが。
人影まばらな裏路地の、典型的な安宿の一室にぞろぞろと入っていく。狭く粗末な室内にはボロボロの寝台が一つあるだけだった。
「──で、何があったんだ?」
覚悟を決めた表情で王女が問う。ベッドに腰を下ろしたパーキンは人差し指と人差し指をツンツン合わせ、なかなか喋ろうとしなかった。
「さっさと言え」
レイピアを掴むルディアが睨んでようやく彼は恥ずかしげに口を開く。
「あのう、怒らないで聞いてほしいんですけどぉ……」
告げられたのは最悪の事実。パーキンは「実は騎士物語の最終巻を印刷してばら撒いちゃったんですよね」と舌を出した。
──やっぱりか。目を離すんじゃなかったと後悔しつつ額を押さえる。
だがまだそちらは予測の範囲内と言えた。大問題が発覚したのはその次の、本当に浅慮でどうしようもない馬鹿男の言からだった。
「あと同じ時期に依頼で刷った歴史書が、持ち出し禁止のアクアレイア王国史だったらしくって、十人委員会に取っ捕まっちゃいましてぇ……」
思わず「は?」と目を瞠る。
アクアレイア王国史。それはもしかしなくてもあれか。コナーから預かったあの原稿。表に出せば王国再独立派や周辺諸国を焚きつけることになるからと厳重に封じられた──。
「……は?」
ルディアも、モモも、アイリーンも、鷹のブルーノすら息を飲んだ。ただでさえ大変なときになんて災厄を引き起こしてくれるのだと。
一瞬で故郷の今がまったく思い描けなくなった。アクアレイアが現在どんな混乱の渦中にあるのか。
「逆によくまだ首と胴体繋がってるよね!? 処刑の前に脱獄したの!?」
転がり逃げる印刷技師に武器を構えた斧兵が迫る。パーキンは「脱獄なんてしてないしてない! 特別に出してもらえたんだよ!」と全力で否定した。
「出してもらえたって、一体誰にだ?」
至極もっともな疑問がルディアから発される。返答を聞いて今度こそ全員で頭を抱えることになった。
パーキンはその二人に、ネブラへ行けば防衛隊が通るから会って話をしろと命じられたそうである。言われた通りにすれば罪を帳消しにしてやろうと。
「聖預言者ハイランバオス様と、ジーアン十将のラオタオ様ですぅ!」
良くない方向に話が進んでしまっている。
予感は現実となり始めていた。




