第1章 その6
ガシャンと無機質な音を立て、鉄格子が閉ざされる。冷徹な足音は留まろうとする気配もさせずに消えていった。
せっかく風光明媚で知られるコリフォ島に来たというのに頑固な父は暗がりで過ごせと言うらしい。レドリーは歪められるだけ眉を歪め、唇を尖らせた。
(アルフレッドとは随分待遇が違うじゃねえかよ)
四つ年下の従弟の顔が脳裏をよぎって舌打ちする。あのいい子ちゃんは父のお気に入りだから、海軍に入っていたらさぞかし出世していただろう。貴族でなければ入隊できない法律をブラッドリーも惜しんでいるに違いない。
「外に出られないのはつらいですねえ。これなら鞭打ちのほうが良かったです」
隣の独房でディランも深く嘆息する。マルゴー兵が負傷しても治療しないと宣言した衛生兵は皆揃って牢屋で禁固の刑だった。
「馬鹿だぜ、親父は。ユリシーズが処刑されても海軍はまとめられる、いや、離反者が出てもそいつらはまた処分すればいいと思ってるんだ」
「それは少し言い過ぎですよ、レドリーさん。ブラッドリー中将だって本当は理解しているはずです。今の海軍では十分に実力を発揮できない、早く問題を収拾せねばと」
ディランはいつも冷静だ。書き物が趣味だからか除隊されてもおかしくない行動を取っているのに熱くならず、客観的に分析してくれる。大切な幼馴染があんな惨めな扱いを受けているのがただ耐えがたい己とは違った。
「……ユリシーズさん、どうして何も相談してくれなかったんでしょうね」
呟きにレドリーは唇を噛む。冷たい壁にもたれて闇を見つめていると幼い頃に閉じ込められた倉庫のことを思い出した。
俺は自分の息子にあんな躾はしない。そう話したとき幼馴染は笑っていた。そんなこと親だってできればやりたくなかろうと。
ユリシーズはアルフレッド以上によくできた「いい子」だった。名家の血筋、海軍提督の父、将来を期待された一人息子。妹はたくさんいるが、女は海軍に入れないから必然的にリリエンソールの名は彼一人にのしかかった。
――お前の家は男兄弟だから羨ましいよ。
レドリーがユリシーズから聞いた覚えのある弱音はその程度だ。彼は強く、常に公正で優しかった。
(全部あの女が悪いんだ)
幼馴染の一途な愛を、自尊心を、めちゃくちゃに傷つけたあの女。ルディアさえいなければユリシーズは。
「おい、大丈夫か? レドリー、ディラン!」
と、そのとき、闇の中で突如知った声が響いた。聞き間違いでなければ今のはコリフォ島配属の友人の声である。もしやこっそり忍び込んできてくれたのかとレドリーは顔を上げた。
「食事を持ってきてやったぞ。飯抜きなんだろ? 感謝してくれよ」
「おお! ありがとう!」
鉄格子の隙間から差し入れられたパンと干し肉に歓声を上げる。軍規違反の友人は久々の再会を喜び、なんとワインまで開けてくれた。芳香を楽しみつつレドリーたちは互いの近況を報告し合う。
「シーシュフォス提督が辞めたっていうのは本当なんだな。今日あの人が旗艦のどこにも乗ってないのを見るまで信じられなかった。ユリシーズ中尉も……俺、新兵だった頃、すごく世話になったのに」
友人はコリフォ島基地にも戸惑う者は多いことを教えてくれた。王や政府に陳情してもらえないかブラッドリーに掛け合ってみるとも。
「あの人たちがいないと海軍って感じしないよ。お前もそう思うだろ?」
目頭が熱くなる。やはりユリシーズは海軍に必要な男だとレドリーは確信を新たにした。最前線の人間が求めているのは決して王家などではない。同じ海に出て同じ戦場で剣を取ってくれるリリエンソール家なのだ、と。
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「えーっ! ブルーノからのプレゼントねーの!?」
あらかたの料理を食べ尽くし、ワインも底を尽きる頃、皆からの誕生日祝いを受け取ったレイモンドは思いきり不服を垂れた。
うるさい奴だなとルディアは渋面でそっぽを向く。これでも散々歩き回って悩んでやったのに。
「次に向かうイオナーヴァ島で何か買ってやるから勘弁しろ」
「だってー! 俺の誕生日は今日だけなんだぜ?」
「これと思うものが見つからなかったんだ。十八にもなって駄々をこねるな」
我ながら苦しい言い訳をしているのはわかっている。なんであれ祝いの品は当日までに用意しておくのが礼儀だ。だが王族としてあまり凡庸なものを選ぶわけにいかなかったし、そうかといって防衛隊の平民水準も無視できず、結局何も手に取れなかったのである。
「むしろお前が欲しいものを指定してくれ。それを贈答用に包んでやるから」
ルディアの提案にレイモンドはぷうと頬を膨らませた。
「誕生日に全員揃ってるって珍しいから楽しみだったのにー」
そんな風に言われるとばつの悪さでますます意地になってしまう。
「決められないならモモたちと来れば良かったじゃん?」
「国の一大事だけじゃなく、個人的なことだって僕らを頼りにしてくださって構わないんですよ?」
フォローされても今更だった。年少組だけでなくアルフレッドやアイリーンにまで「気が回らずにすまなかった」「今度からなるべく声をかけるようにするわ」と詫びられて居た堪れなくなってくる。
「ちえっ、そんじゃ今夜はお開きだな。もう片付けて休もうぜ」
主役のやる気がなくなったのではテーブルに留まる理由もない。飾りつけた食堂を元通り落ち着いた空間に戻すとルディアたちはそれぞれ荷を解いた個室に引っ込んだ――はずであった。
「しーっ、静かに! ……今からちょっと行きたいところがあるんだけどさ、付き合ってくんねーか?」
吹き抜けの二階廊下で声を潜める槍兵にルディアは「は?」と眉を歪める。
夕刻からの酒盛りも終わり、窓には白く輝く月が浮かんでいた。どう考えても散歩に出るような時間ではない。起きているだけ油の無駄というものだ。
「明日は一日積み込み待機なのをいいことに夜通し遊び回る気か? すまんが一人で行ってくれ。私はもう眠るところだ」
「プレゼントなかったんだし、頼み事聞くくらいしてくれたっていいだろー? 早くしねーと誕生日終わっちまうじゃん!」
「…………」
そこを責められると断りにくい。ルディアは短く嘆息し、寝台に放っていたマントを肩に引っかけた。しかめ面で部屋を出て、後ろ手にドアを閉める。
「……朝までは付き合わんぞ」
「やったー!」
分厚く重い聖堂の扉を開けると一足飛びに秋が来たような外気が肌に触れてきた。コリフォ島は風に恵まれているのだろう。湿度の高いアクアレイア本国とはかけ離れて過ごしやすい。
レイモンドは「こっちこっち」と細い坂道を上っていく。ほかの隊員は誰も誘っていないらしく、静かな夜道はルディアと彼の二人きりだった。
土の道の両脇にはこんもりと木々が茂り、曲者が隠れていてもすぐには判別できそうにない。まさかと思うが一応剣に手を添える。愛し合っていた恋人ですら裏切る悲しい世の中だ。疑うのは当然だった。
が、レイモンドの目的は物騒なものではなかったようである。闇の向こう、小高い丘の頂にやって来たルディアたちを迎えたのは淡い光の饗宴だった。
「……蛍か。また見事な数だな」
視界一面を覆う光は空の星が一度に地上に降りてきたようだ。アクアレイアの葦原でも時折見られる光景だが、明るさは比較にならなかった。
光を纏い、甲虫は上へ下へと舞い遊ぶ。見物客など意にも介さず、こちらの眼前を横切りながら。
「へへっ! すごくね? 二年前に見つけたんだ。初めてこの島に来た夜に」
「で? 私から案内料を巻き上げる気か?」
「色気がねーなあ。こんなロマンチックな場所に来たら、普通もっと『きゃあ素敵!』とか『嬉しいわ、ありがとう!』とか言うことあるだろ?」
レイモンドはあからさまに落胆する。何を求めているのだと思わずルディアは額を押さえた。
「つくづく大馬鹿者だなお前は。青春ごっこがしたいならもっと適切な相手を連れてこい」
「アイリーンは論外だし、モモと来たってしょうがねーじゃん。せっかくの誕生日だし、王女様と特別な思い出が作りたかったんだって」
おいと黙らせようとした唇は逆にあちらに制された。口元に押しつけられた人差し指を振り払うとレイモンドは残念そうに一歩下がる。
「姫様のケチ」
誰がケチだと睨みつける。大体その呼称は他人の気配がなかろうと厳禁だと命じているのに。
「俺だって誰でもいいわけじゃねーのにさー」
「どうせ誰にでもそう言っているんだろう」
嘆息してもレイモンドは悪びれずに笑うだけだった。もしかすると葡萄酒で酔っているのかもしれない。それなら適当に切り上げて聖堂へ帰らなくては。
「そうだ。お前の喜びそうなものが一つだけある」
ふとひらめいてルディアは懐に手を入れた。「えっ? なになに?」と寄ってきた槍兵に銀貨の詰まった小袋を見せてやる。
「これだ。取っておけ」
ルディアは中から一枚のコインを抜くとレイモンドに向かって投げた。胸元に飛んできたそれを槍兵は難なくキャッチする。
「お? 普通の銀貨と違う」
飛び交う蛍の放つ光に貨幣をかざしてレイモンドは瞬きした。
「私が生まれた年に作られた記念硬貨だ。コレクターに売ればまあまあの値がつくはずだ」
「えっ、貴重品じゃねーの?」
「別に親の形見というわけでもない。気にするな」
ふうんとレイモンドはコインをポケットにしまった。嬉しそうに擦り寄ってきて性懲りもなく「サンキュー、姫様!」などとのたまうので肘鉄をお見舞いする。ガサゴソと近くの茂みが揺れ始めたのはそのときだった。
「――おや、こんな夜更けに逢引きかい? 若者はいいねえ」
かけられた声に硬直し、冷や汗を垂らして息を飲んだ。
オリーブの幹の間から現れたのはコナー・ファーマーだった。首から提げた虫籠を見るに、どうやら昆虫採集の途中らしい。
「せっ、先生? ご、ご冗談を」
頬が引きつりそうになるのを堪えてルディアは師を振り返った。「逢引きなどではありませんよ。見回りを兼ねた単なる散歩です」となるべくなんでもない顔で言い訳する。
「でも彼氏のほうは確かに君をプリンセスと。ああ、安心なさい。別に誰かに言いふらす気はないからね」
「……っ」
ルディアはハハと曖昧な笑みで濁した。
聞かれた以上もう変に誤魔化さないほうが良い。この人は昔から異様に勘が働くのだ。ごくわずかなヒントから正体を悟られないとも限らない。
「わ、我々はこれで。暗いですから先生もお気をつけて……!」
レイモンドの腕を引き、ルディアはそそくさと来た道を引き返す。ほろ酔い気分の抜けきらない槍兵が無邪気に「びっくりしたなー」などとのたまうので、返事はまたも鉄拳で行わなければならなかった。




