第1章 その2
騎士と女帝の接合準備が整うと主君は部隊をさっさと幕屋へ帰してしまった。待機を命じられたバジルたちは特別することもなく、アイリーンやブルーノと一様に黙り込んでいた。
かまどの横には引き取ってきたアンバーの遺体。否、ディラン・ストーンの空の器と言うべきか。早く次の蟲を入れてしまうべきなのに誰も何もできずにいる。この身体が動いたらまだ彼女が生きているように錯覚する気がして。
モモはもう泣いてはいない。声もなく、ただ肩を落としている。
「どうしてアンバーはあんなところにいたのかしら……」
アイリーンがぽつりと疑問を口にした。モモの前で今そんなこと聞くなよと言いたげにレイモンドが彼女と少女を順に見やる。
「……何か様子が変だって、あいつらの後追っかけてくれたんだろ。一人でも俺たちの誰かが気づいてりゃ良かったんだ」
それは違うと首を振るべきか逡巡した。
それは違う。多分違う。断定したくはないけれど、宿営地に火をつけたのはアンバーだ。足音を忍ばせて、かまどから火を取って出ていった彼女の背中をバジルは見ていた。それに火が出る直前までアンバーとは河畔で話をしていたのだ。「ちょっと来て」と呼び出しを受けて。
「あなた部隊を抜ける気でしょう」
彼女はぴしゃり言い当てた。どうしても居心地悪く、皆の輪に戻りきれない己を見つめ、真剣な表情で。
「駄目よ。あなたはモモちゃんの側にいてくれなきゃ」
アンバーがそう諭す意味がわからずバジルは「でも」とうつむいた。そんな要望とてもではないが叶えられる気がしなかった。
資格だって到底あるとは思えない。防衛隊を続ける資格も、モモの隣に立つ資格も。それなのにアンバーはこちらの言葉を聞き入れようとしなかった。
「これはまだほかの子たちには内緒ね」
そう言って彼女がそっと打ち明けたのは狐に脅迫されていた事実。「私だって状況さえ違えばあなたみたいになっていたのかもしれないのよ」とアンバーは続けた。たまたまラオタオとハイランバオスがルディアに肩入れする気になり、たまたま裏切りに手を染めずに済んだだけだと。
「勘違いしないでほしいんだけど、別にあなたを慰めてるんじゃないから」
柳の間、乾いた砂漠に流れゆく雪解け水を眺めながら女優は鋭く釘を刺した。自分はただ部隊に受けた恩を返したいのだと。曖昧な立場にいながら仲間の顔を続けた分もと。
「モモちゃんはあなたのことを見捨ててない。だからあなたが自分の過ちから逃げないで。……あの子がなんとかやり直そうと頑張っていること、台無しにしたくないのよ」
最後に聞いた彼女の言葉が耳の奥にこだまする。遺言になってしまったその言葉。
もういない。モモを支えてくれた人は。
自失したまま座り込む少女の小さな後ろ姿をただ見ていた。己に何ができるだろうと悩みながら。
ルディアが赤髪の騎士を連れ、幕屋へと戻ってきたのはそのときだった。
******
次に部隊に何か通達するときは解散命令になると思っていたのにな。複雑な思いでルディアは一同を見渡す。
幕屋内には妙な緊張が漂っていた。きっと自分がアルフレッドを連れ帰ったせいだろう。
接合を経た騎士はもう何も知らない幼子ではない。大きく欠けて損なわれたものが元に戻ったわけではないが、少なくとも己が誰で、なんのためにここにいるのかは承知しているはずだった。
「…………」
沈黙が場を支配する。赤い双眸は案じるように項垂れた少女を見ている。
と、静寂が破られた。顔を上げ、澱みない声を発したのは、今の今まで肩を震わせていたモモだった。
「マルゴーに行くんだよね? ハイランバオスとラオタオを止めに」
薄紅の眼が鋭く光る。彼女は早くも獣の獰猛を取り戻していた。
「そうだ」
頷き返せばモモはきっぱりとルディアに告げる。
「モモも行くから」
斧兵は過去に一度公爵家に命を狙われている。それでも行くというのだから決意はさぞや固いのだろう。「わかった」とルディアは承諾した。
「モ、モモちゃん!?」
心配を通り越し、ぎょっとした顔でアイリーンたちが少女を見やる。
「大丈夫かよ?」
レイモンドが遠慮がちに問いかけるとモモはぎゅっと指先を握り込んだ。
「だって行くしかないでしょ」
後ろに戻っても何もない。彼女の瞳が語っている。ああそうだ。この兄妹はいつだって前へ前へしか進まないのだ。
「ぼ、僕も行きます!」
突然バジルが立ち上がり、そんな宣言を響かせた。どんな心境の変化が彼にあったのか、虚ろだった表情にはひとかけらの勇気が覗く。
「僕も……行かせてほしいです……」
震え声の懇願に苦笑を浮かべた。天帝の比でなく己も甘いなと。
本来なら弓兵は厳罰の対象だ。新たな任務になどつかせられない。だが今はわずかでも戦力が欲しかった。
「いいだろう。ただしもう一人で暴走するんじゃないぞ」
言い含めるとバジルはこくこくと頷く。そのままルディアは視線を滑らせ、レイモンドやブルータス姉弟にも同行を依頼した。
「すまないが、お前たちもあと少しだけ私に付き合ってくれないか」
今度こそこれが最後の大仕事となるだろう。天帝はアークを守る意を固め、ルディアの手を取ってくれた。世の趨勢がどう変わってもジーアンと敵対することは二度とない。百年後には命尽きる彼らの、アクアレイアだけが後継者となれるのだから。
「当たり前だろ」
「マルゴーなら多少は勝手がわかりますし」
「わ、私で役に立てそうなら」
三者三様の返答に「ありがとう」と礼を述べた。
と、隣で見ていた騎士が一歩前へ踏み出す。それから彼はこの場に集う全員に呼びかけた。
「レイモンド、バジル、モモ、ブルーノ、アイリーン」
芯の通ったはっきりした声。今までの子供じみていた彼とは違う。
「もう一度、改めてよろしく頼む」
アルフレッドの差し出した手に五人は一瞬硬直した。「アルフレッド」の最期を知り、騎士の自覚を備えた彼に応じることが何を意味しているか悟って。
きっとこれが本当の「はじめまして」だ。だから惑っても仕方がない。誰が騎士を拒んでも。
「…………」
重苦しい沈黙が続く。皆が揃って身を凍りつかせる中を、一番にやって来たのはやはりというか彼女だった。
「うん。よろしくね、アル兄」
痛みを堪えた表情でモモが囁く。
次いでブルーノがおずおずと騎士の掌を握りしめた。
アイリーンも「蟲のこと、わからなかったらなんでも聞いてちょうだい」と彼に告げる。
初めは躊躇を見せたバジルも意を決し、立襟装束から覗く騎士の大きな手を掴んだ。
「……すみません、僕のせいで」
衝動的に出たらしき謝罪に彼は首を振る。「接合で得たアニーク陛下の記憶に間違いがなければ『アルフレッド』は少しも気にしていないよ。むしろお前を心配していたくらいだ」と。
「自分で選び取ったことで、最後まで後悔しなかった。……俺のほうこそ何も知らずに、つらい思いをさせてしまってすまなかったな」
弓兵はもう目尻に溜まった涙が溢れてしまわないように耐えるだけだった。騎士の瞳は最後に槍兵を振り返る。
「お前にも『アルフレッド』は悪かったと詫びる手紙を書いていたぞ」
そう告げられてもレイモンドはなんとも言えない表情だったが。
恋人がずっとアルフレッドを「アル」と呼んでいないことには気づいていた。受け入れたふりをしていても本心では受け入れられていないこと。揺れるようならレイモンドは関わらせないほうがいいかもしれない。彼だけマルゴーへは連れて行かず、アクアレイアに帰したほうが。
が、ルディアが口を挟もうとしたタイミングで槍兵が「そっか」と柔らかく微笑む。彼は騎士の握手に応じた。相変わらずあの愛称は使わないまま。
「…………」
二人を側で見守りつつどうしたものかと息をつく。レイモンドが平気なふりを続けるのなら何も言わないほうがいいような気もしてしまう。
「あ、あの」
不意に横から響いた声にルディアは伏せていた目を上げた。「その、ちょっと僕、姫様に話が」とちらちら周囲を気にしつつバジルが続ける。どうも二人になりたそうな雰囲気で。
ルディアは幕屋内を見渡し「わかった」と頷いた。急を要する話なら今聞くほうがいいだろう。
「お前たち、悪いが遺体から脳髄液を採取しておいてくれるか? できそうな者だけでいい。くれぐれも無理はするな」
暗にディランの肉体の修復や再利用は行わない旨を告げる。アルフレッドとアイリーンは了解したとばかりに頷き、レイモンドとブルーノとモモは沈痛に骸を眺めた。
誰からともなく指を揃え、五芒星を宙に描く。魂が正しく弔われるように。ルディアとバジルも短い黙祷を捧げると少しの間幕屋を出た。
外はもう真っ暗だった。日は地の果てに沈んでおり、昼間の熱気が嘘のように肌寒い。夜の砂漠は別世界だ。
「あの、火事の直前のことなんですけど……」
周りに誰もいないのを確かめてからバジルは報告を始める。しどろもどろに彼が語って聞かせたのはアンバーとの最後の会話についてだった。
「……姫様に黙っていたこと、全部終わったら打ち明けるつもりだったんだと思います。アンバーさんは……」
言葉が出てこず息を飲む。考えもしなかった裏事情の存在に返事はなかなかできなかった。
脅されていた? アンバーが?
接合によって息子がいると知られたせいで?
「……そうか……」
なんとか声を絞り出す。己の愚かさに打ち震えながら。
いつも見落としてばかりだ。大切なことばかり。
「モモには言うなよ」
それだけ念を押しておくのがルディアの精いっぱいだった。
先にバジルを中に戻す。冷たい夜風に身を晒し、しばし物思いに耽った。
天帝と接合なんてしたからだろうか。わけもなく帰りたくなる。もう二度と戻らぬ時間に。
いつまでも私は一人なのかもしれない。
誰が隣にいてくれても。
******
どうしてだろう。今までよりも決定的に別人になってしまったと絶望に似た思いがある。幼児のようだった彼よりもずっと落ち着き、表面的には元通りに近づいた感さえあるのに。
他人の記憶が混ざったからかとレイモンドは奥歯を噛む。接合後のルディアを見てもそんなこと思わなかったのに。
なぜ皆平気なのだろう。内心思うところはあっても仲間として迎え入れようとできるのだろう。
「アルフレッド」が自分の意志で遺したアルフレッドだから?
かけらだけでも騎士の形見を大事にしたいと?
わからなくて盛大に溜め息を吐き散らしそうになる。けれど黙ってディランの解剖を見守っているモモの側でそんな真似はできなかった。小さくかぶりを振って耐える。自分が荒れていいときじゃない。
少女の横にはさり気なくバジルがついていた。アンバーがいなくなった分をどうにかせねばと決めたのか、弓兵はいくらか前向きになったようだ。
「アルフレッド」が許していたなら己が怒っていいのだろうか。それさえよくわからなくなってくる。
騎士としての道を選び、幼馴染が死んだこと。心のどこかで納得していた。あいつはずっとまっすぐ過ぎるほどまっすぐで、騎士以外の生き方も死に方も求めてはいなかったから。
だが永遠に仲直りできないまま友人の死を認めたくなかった。詫びる手紙を書いていたなど言われても他人の言葉では響かない。たとえ生まれ直した彼が文面まで正確に話せたとしても。
こいつは「アルフレッド」じゃない。胸の底で嫌悪が凝り固まっていく。
「……こんなものかしらね」
そうこうする間に脳髄液の採取は完了したらしい。道具を片付けて手を拭くとアイリーンは小瓶に移したそれを一つずつ部隊の面々に渡した。
「時間が経つほど回復効果は薄れちゃうから気をつけて。でも大切に使ってね。私たちが持っていけるのはこれだけだから」
アンバーの亡骸は明日の朝一番に弔火で焼かれることになっていた。気温が上がれば腐敗も早まる。ブルーノも、ダレエンたちの火葬の前には古龍に器を返すとのことだった。
次が始まったのだから己もしっかりしなければ。ルディアの隣にいたいなら。
悲嘆も不服も全部飲み込んで前を向く。けれど随分疲れてもいた。
悲嘆も不服もいつか吐き出すことになる。飲み込みきれなくなってしまえば。
予感は既に胸にあった。ただもう自分では何をどうすることもできないだけだった。




