第1章 その1
ゆっくりと瞼を開く。目まぐるしく脳裏を駆け巡っていった一千年の記憶に静かにおののきながら。──これがこの男の辿ってきた道程か。震えを抑えて隣を見やればヘウンバオスはもうしゃっきりと起き上がり、敷物の上で何やら沈思に耽っていた。
不思議なものだ。知るということは。アクアレイアを罠にかけ、父を殺した相手なのに、敵だという感覚は絹のごとく薄れていた。アクアレイアを失えば己もきっと同じ郷愁に囚われる。わかるから、接合を行う以前の自分に戻れる気がしなかった。
彼のほうはどうだろう。身を起こし、顔を覗けば複雑そうな目と目が合う。はあ、と嘆息一つ落としてヘウンバオスは立ち上がった。そうしてルディアを絨毯に残し、自分は長椅子に座り直す。
「ろくでもない計画を立てていたくせによくぞ教える気になったな」
天帝の言葉を受けて幕屋内に控えていた兵と将が一斉に武器を構えた。拘束されるかと思ったが、ヘウンバオスの腕が無言で制止する。
「取り急ぎサルアルカに戻り、未接合の脳蟲と可能な限り接合を行う。その後すぐにマルゴーへの旅の支度だ。いいな」
ざわめく蟲たちに天帝は「後でゆっくり説明してやる」と言った。ひとまずルディアを信用する気にはなったらしい。ハイランバオスの破壊行動を止めるべく最も重要な秘密を打ち明けたことは理解してくれたようだ。
「お前たちもその女を敵だと思わなくていい。……その女は、王女ルディアは新たな私の半身だ」
苦しげに吐かれた息にどんな感傷がこもっていたか、記憶のおかげで推測はたやすかった。古いほうの半身を彼は本当に大事に思っていたのだから。
ルディアは頷く。今まではなかった色を帯び始めたヘウンバオスの眼差しに。千年の歴史があまりに圧倒的で、こちらのほうは彼を自分の半身だなどと口にしづらいものがあるが、分かち合ったものはやはり特別だ。
「感謝する」
礼を述べ、ルディアは幕屋の隅にいた部隊の面々を振り返った。天帝が片手で払う仕草を見せると兵たちがそそくさと脇に退く。立ち上がった皆とともにルディアは退出しようとした。ジーアン側のことはもうヘウンバオスに任せてしまって大丈夫だろう。
そのときふと思い出す。一つだけ、もしあの男の望みを叶えてやれるなら、そうしたいと願っていたこと。
「すまない。個人的な頼みなんだが──」
ひと言告げればヘウンバオスは「そんなことか」とあっさり了承してくれた。出発まで時間もあるし、今のうちに済ませてしまえと。
「ありがとう。どうしてもほかの者では駄目なんだ」
今度こそルディアは天帝の幕屋を後にした。横たわるダレエンとウァーリの傍らに座り込んでいた女帝を連れて。
******
火事のせいで半分に減った天幕はどこも兵士と荷物でいっぱいになっていた。アニークがルディアに連れてこられたのはそんな幕屋の一つである。これからここで何を行い、アニークがどうなるか、王女は丁寧に説明した。
内容は先刻ヘウンバオスになされたものと同じだった。……多分同じだったと思う。親しかった仲間の死に呆然として理解はできていなかったけれど。
接合、と言うらしい。延命ついでに記憶を共有するそれは。
ルディアは小さな幕屋から兵士たちを追い出した。彼女の部隊の兵士もだ。残ったのは三人だけ。ルディアとアニークとアルフレッドの三人だけ。
「あいつが何を考えていたかわかるよ」
苦笑と微笑の間のような顔で彼女が肩をすくめる。一人だけわかった風に。
「具体的にこうしろと頼まれたわけではないが、私なら汲んでくれると思ってあいつは言葉にしなかったのだと思う」
それから急に礼を言われた。場違いなまでに真摯にありがとう、と。
「私の騎士が世話をかけた」
言って彼女はきょとんとしているアルフレッドを振り返った。
眩しいものを見る目だった。心のどこか灼かれた者の。
ルディアはきっと生涯己に仕える者としてアルフレッドを認めたのだろう。まだ今の彼のすべてを受け入れていなくても。
勝手に負けた気分になる。彼女は永遠を手にしたのに己には何もない。
何も遺してくれなかった。「アルフレッド」は、アニークには。
「…………」
うつむいたまま押し黙り、誰の顔も見なかった。そんなアニークにルディアは穏やかな声で告げた。
「水瓶も縄もある。始めよう」
頸動脈が絞められると意識は一瞬で暗転する。常ならば間を置かず次の覚醒が訪れるが、今回はその前に不思議な夢がアニークを取り巻いた。
生まれてまだ半年にも満たぬ彼の慎ましい思い出たち。意味ある言葉にすらならなかった親愛と信頼。アルフレッドの目から見る己は優しく温かだった。物語を聞かせれば彼は喜び、即興詩を紡げば尊敬の念を高めた。
沁み渡る。憂いに彩られていた景色が少しずつ塗り替わる。
まっさらな彼の瞳で見る世界。幼いけれど彼らしい温もりに満ちた。
記憶の中のアニークが剣を返しながら笑う。その笑みに拭いきれない哀切を感じ取り、アルフレッドは胸痛め、なす術もなく黙り込んだ。
燃え盛る天幕に飛び込む。無垢に慕う女が無事で彼は安堵に息をつく。ああこの人を死なせなくて良かったと。
どうしてだろう。彼は「アルフレッド」ではないのに。別人だと知っているのに嬉しいのは。
これと同じことが今、彼の身にも起きているのがわかるからか。
「────」
跳ね起きた。溢れる涙を頬に伝わらせたままで。
ルディアはなんと言っていた? 「あいつが何を考えていたかわかるよ」と、彼女はそう言っていなかったか。アニークとの接合は「アルフレッド」自身が望んでいたことなのだと。
「……どうだった?」
問いかけが降ってくる。同じ絨毯に膝をついた王女が微笑みながらこちらを見ている。
分かち合う情報量の差だろうか。アルフレッドのほうはまだ眠りの中にいるようだった。
「…………」
簡単に答えられるわけがない。
胸がいっぱいで喉が詰まる。
何も遺してくれなかったのではなかった。アニークを置いていったあの騎士は、最初からアニークと──アニークの想いすべてと新しい生を生きてくれるつもりだったのだ。
「アルフレッド……」
後から後から涙が溢れて止まらない。
恋は報われたのだろうか。「アニーク」と私の恋は。
******
突然すべての点と点が線で繋がったようだった。己が何者だったのか、何者になろうとして苦しんだのか、彼女の記憶が教えてくれる。一つずつ眩しい光で照らし出して。
思い出したわけではない。だがかつて己自身だった男の胸中は明白だった。アニークに感じていた恩。確かな情と慕わしさ。それらを越えるルディアへの強い想い。
ゆっくりと起き上がり、隣で泣いているアニークを見やる。いつにも増して彼女を近しく感じるのは魂の半分が溶け合ったせいだろうか。
「大丈夫か?」
主君に問われてアルフレッドは頷き返した。まだ多少ふらつくが、動くのは動けそうだ。
足に力をこめて立つ。ここはジーアン兵のために用意された幕屋だから、己は部隊の──防衛隊の幕屋のほうに戻らなくてはならなかった。そう、もう、これからは。
「アニーク陛下」
アニークが身を起こしやすいように手を差し出す。女帝はアルフレッドよりひと回り小さな手でそっと掌を握り返した。
震えている。見つめ合うけれど言葉はない。熱の灯る互いの瞳に互いを映し出すだけだ。
立ち上がっても彼女はしばらく動かなかった。だからアルフレッドのほうも黙ったままハンカチを取り出し、褐色の頬を流れる滴を拭った。
「あげる」
と、アニークが右の耳に残っていたパトリア石のピアスを外す。少し湿ったハンカチにそれを受け、アルフレッドは大事にポケットに仕舞い込んだ。
夜の泉のような双眸を見つめ返す。礼を述べることもできずに。
「私は先に戻っているぞ」
どういう気遣いかルディアがそう言って幕屋から出て行った。部隊で集まり直すなら己も早く追わなければ。
だが言葉が出てこない。舌は縺れたままだった。ありがとうとかすみませんとか何か言わねばならないのに。
焦ったからかポケットから抜いた手がこつんと剣の柄に当たる。アニークが守ってくれていた騎士の剣。それでようやく言葉が決まった。
アルフレッドは彼女を見つめる。そして静かにひと言だけ問いかけた。
「俺の剣に、あなたの名前をつけていいでしょうか」
美しい夜の瞳が瞠られる。いつも、いつも、どんなときも、柔らかな毛布のようにアルフレッドを包んでくれた。
アニークは震えながら頷いた。小さく、けれどはっきりと。
深々と頭を下げてアルフレッドは女帝の面前を立ち去った。
身を捧げるべき人がいる。だから一緒にはいられない。けれど互いの胸中に特別な居場所を持つことはできるはずだ。
アルフレッドは防衛隊の幕屋へ急いだ。ルディアの騎士として在るために。




