第6章 その7
天帝や兵士とともに主君が下山してきたのは大方の火災が収まった頃だった。苦りきった表情で王女は告げた。詩人と狐がコナーを殺して逃亡したと。
死んだのは画家だけではなかったらしい。瓶に入れておいたウェイシャンも黒ずんだ灰となって見つかり、ルディア自身も深手を負わされたそうだった。今問題なく歩けているのはコナーの脳髄液を使って治療したからということである。
「放火もおそらくあの二人の仕業だろう。混乱に乗じて逃げたんだ。いつの間にか案内の鷹まで消えていたし……。とにかく我々もすぐ後を追うぞ」
馬を出せ、と命じる主君にモモは「わかった」と頷いた。大急ぎで宿営地を駆け出す。狂ってしまった計画の修正は容易ではなさそうだ。というかもはやそれどころではない気がする。
気がかりなのは今後の話だけではなかった。出火当初から一度もアンバーを見ていないこと。どうしてもそれが気になって仕方ない。人命が危ないときに手を貸さないタイプではないのだ。彼女自身が災難に巻き込まれているのではないかと思えた。
(アンバーの乗ってた馬もいない……)
一時避難させられた馬群の中にいるべき一頭を見つけられずに身が震える。ジーアン人は馬留などの場所を作らず、足を縛って放置するだけなので宿営地から迷い出たのかもしれないが、不安は刻一刻と増大した。
防衛隊はそれぞれの馬に跨り、ジーアン兵の後を追いかけて走り出す。狐と詩人の追跡には既にダレエンとウァーリが出ているということだった。上手く行けば二人に加勢できるかもしれない。ただ火事が起きてから少々時間が経ちすぎていて、追いついてみなければ何がどうなっているのかはわからなさそうだった。
隊列は速度を上げて進んでいく。無言の時間が永遠のように続いた。
重苦しい空気はしかし、突然に終わりを告げる。先頭から異常などよめきが波及して防衛隊は思わず顔を見合わせた。
何か発見されたらしい。だが砂埃と馬の足で何も見えない。ようやくそこに近づくと濃い血の臭気が漂った。
「……っ!」
人馬の垣根の向こう側に横たわるのは二体の骸。あちこちに矢傷を負わされ弱った馬も力なく屈んでいる。物言わぬ遺体の前でヘウンバオスがわなわなと肩を震わせていた。
助からなかったのだろうか。ダレエンの腹に深々と突き立てられているのは見覚えのある曲刀だった。心臓を射抜く矢のほうは誰のものか不明だが、詩人が狼を討ったのは間違いない。
「……そこまで遠くへは逃げていないはずだ。追え」
短い命令。痛ましい顔でジーアン兵が道を駆け出す。同胞を弔うためか天帝は十数名の兵とともにそこに留まるようだった。
流れに押されてモモも馬を走らせる。しばらく行くとまた隊列が路上に何か見咎めたらしく速度を落とした。視界を遮る人数が減ったので今度はすぐに誰が倒れているのか知れる。
黒い髪。緩くウェーブのかかった艶やかな。目を瞠り、モモは思わず友人の名を叫んだ。
「アンバー!」
どうして彼女がこんなところに一人で倒れているのだろう。何がどうなって血溜まりに頭を突っ込んでいるのか。
隊列を追い抜いてモモは友人のもとへ急いだ。
全力で馬を駆けさせる。飛び降りるように道の上に着地する。
「アンバー……!」
呼びかけながら血眼で、とうに這い出てしまっただろう本体を探した。死体の姿勢はうつ伏せだ。アクアレイアの脳蟲は耳の穴から出入りするので血の池に落ちたに違いない。這いつくばって動くものがないか注視する。
赤黒く濁った血液は大地に染み込み、砂を被り、ほとんど乾ききっていた。それでも探す。片手で水筒を取り出しながら。
もぞ、と砂の塊が動くのを捉え、モモはそれを摘まみ上げた。手首を返して掌に乗せたものを確かめる。砂と血で汚れた線虫。ただちに水をかけて湿らせようとした。水筒の蓋を外し、掌を皿代わりに。──けれど。
「……ッ!」
突風が吹き飛ばす。一度は確かに掴んだ彼女を。
アンバーはディランの白い頬に落ちた。そうしてすぐに真っ黒に炭化した。
「あ……」
一部始終が目に焼きつく。
黒粉と化した彼女を風が無情にさらっていく。
「やだ……っ」
受け入れられずに首を振った。予感も何もなかった別れを。
だって今朝まで一緒にいたのに。いつも通りに過ごしていたのに。
「やだよぉ、アンバー……!」
なんでと空っぽの器にすがる。溢れた涙が無意味に骸を湿らせた。
なんで。どうしてアンバーが。
わからない。──わからないよ。
「モモ……」
慟哭するモモの傍らに唇を噛んだルディアが膝をつく。いつかのように後ろから肩を支えられ、友人を亡くすのが二度目であるのを思い出した。
ああそうだ。あのときも死んだのはアンバーだった。部隊の皆を守るために魔獣の身体を晒してくれた。
立たなければ。こんなことをした連中を捕らえて叩きのめさなければ。
そう思うのにどこにも力が入らない。アクアレイアを出てから今まで、己の虚勢を支えてくれたのが誰だったか思い知らされるだけだった。
(なんで……?)
ジーアン兵は防衛隊を置き去りに裏切り者たちを追っていく。
蹄の音が遠ざかっても嗚咽はいつまでも止まなかった。




