第6章 その5
川辺から少し離れた岩山の麓。本日の宿営地となったそこには十五戸の幕屋が並べられていた。強風で布や骨組みが飛ばないように各戸はぎゅうぎゅうに詰められている。いつもは多少離しておくのに今日は身体を寄せ合って寒気に耐える羊の群れのごときである。
アンバーは河畔でふうと息をついた。ディラン・ストーンの黒髪はふわふわ柔らかく愛らしい曲線を描くのだが、こうひっきりなしに風に吹かれると砂が絡んで仕方ない。払っても払っても砂埃にまみれるので最近は完全に手入れを諦めてしまった。
岸に膝をつき大鍋に水を張る。映るのは少女然とした他人の顔。この器にはいつまで入っていられるだろうと思案する。
おそらく己はジーアン上層部の誰かと入れ替わることになる。せっかく狐の記憶を有しているのだ。ルディアとしても手放したくはないだろう。となればモモの側に居続けるのは少し難しいかもしれない。今はまだできるだけ彼女と離れたくないのだけれど。
(しょうがないか。自分の仕事はこなさなきゃね)
もう一度深々と嘆息する。
半人半鳥の魔獣にされ、飼われるだけだった己を拾ってくれたのは防衛隊だ。ルディアには返さねばならぬ大恩がある。モモだって、するべきことを放って支えられたって喜びはしないだろう。己にそう言い聞かせる。
以前とは状況も変わった。ハイランバオスもラオタオもアクアレイアの味方である。二人がどう出るか読めなくて振り回されていた頃とは違うのだ。
かぶりを振ってアンバーは立ち上がった。ともかくまずは夕食のために水を運んでおかなければ。
そうして繁る柳の間を抜けたときだった。曲者たちと鉢合わせたのは。
「おや、ちょうどいいところに」
いつ戻ってきたのだろう。ハイランバオスとラオタオが幕屋の陰で疲れた馬を交換している。彼らは実に手際よく新しい馬に荷を載せ換えた。
なんだこれは。一体どういう状況だ。
明らかにどこかへ発とうとしている二人に怪訝に眉をしかめる。何度見ても付近には詩人たちの姿しかなく、主君や画家は足音さえ響かせなかった。
何かおかしい。直感がアンバーに告げる。だがそれについて問いただす隙は詩人にも狐にもなかった。
「兵士をここに足留めしておきたいんだよね。牧草積んでる車あるじゃん? あれと幕屋のいくつかに火でもつけといてよ」
さらりと無茶な要求をされ、アンバーは息を飲む。時間がないのだと二人は少しも意図を説明してくれない。「俺たちは先にサルアルカに戻るから」とだけ言ってさっさと鞍に跨ってしまう。アンバーは慌てて引き留めに飛び出した。
「ちょっと。姫様は? コナー先生と天帝は?」
「お姫様は全然大丈夫! 傭兵団の息子に悪さされたくなきゃ素直に言うこと聞いてねー?」
冷酷な声にぞっとした。防衛隊と合流するまで──否、防衛隊と合流してもなお自分を縛り続けた言葉に。
己がラオタオの記憶を有するということは、彼のほうでもアンバーの記憶を有するということだ。──知られている。何が一番の弱みかは。
「部隊の中でも君の監視は緩めてあるし、後はよろしく!」
手を振って彼らは幕屋の隙間を器用に走り去った。なんの判断材料も得ないまま背中を見送る羽目になる。
こんな空気の乾いた場所で、こんな風の強い日に、火などつけて大丈夫なのだろうか。ああ言われては己には従う以外ないけれど。
「…………」
唇を噛み、大鍋を強く掴み直す。アンバーは幕屋のかまどに火を取りに歩を速めた。
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ガンガンガンと鍋の底を叩くような音が響いて顔を上げる。実際それは急を知らせる鐘の代わりだったらしい。次いで「火事だ!」と物騒なジーアン語が飛び交った。
驚いたバジルが立ち上がるのと、外から猫が飛び込んできたのがほぼ同時。来ては駄目だと聞かせたはずのタルバがニャアニャア騒ぐのでバジルは慌てて猫の口を塞がなければならなかった。
「ニャーッ! ニャアーッ!」
そんなことはいいから外に出ろと言わんばかりに彼が暴れる。アイリーンやレイモンド、モモと一緒に玄関を出て、初めて惨禍を目撃した。
「……っ!」
宿営地のあちこちで赤い炎が上がっている。放火であるのは明らかだ。
タルバはもしや防衛隊を案じてくれたのだろうか。誰の仕業にせよ真っ先に疑われるのは自分たちだから。
「……っおい! 川の水汲んで消火すんぞ!」
各自できるだけ大きな鍋や深皿を取りに戻り、再び外へと飛び出した。風が炎を煽って育てる。ジーアン兵の大半は火を消すよりも延焼を防ぐべく周囲の幕屋を畳んでいた。
水をかけるなら小火のところに回れと怒号が返される。バジルたちは牧草の燃える荷車のもとに集まった。川までの列を作り、空の器と水の入った器とを延々と回し続ける。近づける程度に火が収まると全員で車を牽いて川に投げた。その後はまた隣の火消しの加勢に向かう。
誰がとか何がとか考えている余裕はなかった。火の手の回りが早すぎた。
数名の兵士らが心配そうに「女帝陛下の幕屋も崩れそうだ」と別の火事場を見上げている。ブルーノやアルフレッドがどうなったのか、不安は膨らむ一方だった。
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壁から炎が吹いたのは「火事だ!」と聞こえた直後のこと。天幕を覆うのは厚いフェルト地。これほど燃えやすい建材もないから炎は簡単に猛り狂った。
ほとんど私物を持たぬブルーノは早々に避難したけれど、アニークのほうはそうもいかない。騎士物語にパディと交わし合った詩に、捨ておけないものがあまりにも多すぎた。
中身を確かめる暇もなく紙類を掻き集める。そうこうする間に火は壁を舐め、幕屋を形作っている木製の骨を焼いた。たとえ天井が落ちてきてもこれだけは守らなくては。本と手紙を抱きかかえ、アニークは出口を目指す。
だが顔を上げ、すぐに周囲の視界の悪さに立ちすくんだ。灰色の煙が屋内に満ちている。ちらつくのは炎の赤だけ。玄関側の壁は歪み、ぱちぱちと不吉な音を立てていた。
どちらへ逃げればいいのだろう。迷いがアニークを凍りつかせる。長考している時間などない。ここにもじきに火が回る。わかっていても足は動いてくれなかった。
(どうしよう。煙で全然前が見えない──)
身体がふわりと持ち上がったのはそのときだ。兵か誰かが救出に飛び込んできてくれたらしい。背中と膝を支える形で抱えられ、あっと言う間に屋外へと運ばれる。
「あ、ありがと──」
う、と続けようとしてアニークは目を見開いた。もう少しで転がり落ちるかと思った。アルフレッドの顔が近すぎて。
「あっ、えっ、ええっ!?」
「怪我はどこにも?」
「な、ななな、ない、ないわ」
動転しながら問いに答える。
地面に足が着いてからも膝が震えて力など入らなかった。一体全体先程から何事なのだ。何が起こっているのだ。
「なんの騒ぎだ! なぜ燃えている!?」
と、そこにテイアンスアンに登ったはずのダレエンとウァーリが馬に乗ったまま駆けてくる。剣幕激しく尋ねる二人に居合わせた兵士らがしどろもどろに報告した。
「どうも火をつけた者がいるようで……」
「ウヤか?」
「いえ、違います。退役兵はよく監視していましたが、誰も不審な動きは」
短いやり取りで誰を犯人と断じたか、続いてダレエンは預言者と狐の所在を問いかけた。
「ハイランバオス様とラオタオ様ですか? いえ、見かけておりません。先にお戻りだったので?」
「……!」
返答を聞くや狼たちは矢のごとく猛然と駆け出していく。この火事の収拾をつけないのかと驚いたが、二人の姿はたちまち彼方に見えなくなり、何も問うことはできなかった。
上で何があったのだろう。
天帝や大熊たちは無事なのだろうか。
不安になったが今は己も考え込んでいる場合ではなかった。アニークは足に力をこめ直し、馬の避難の手伝いに向かった。




