第6章 その4
オアシスの景色を広げる前に師はルディアにちらと視線を送ってきた。隙を作るからその間に天帝を抑え込めという意味だろう。だから勘付かれないように注意深くヘウンバオスの後ろを取ったつもりだった。
そろりと手を伸ばした矢先、塩湖の幻影が掻き消える。辺りはたちまち暗い洞窟へと変わる。何が起きたのか知る前に濃い血の匂いが漂った。
「……は?」
思わず声を漏らしてしまう。双眸が捉えたのはアークの隣に倒れ伏した師の背中。胸の真ん中をひと突きにされ、ぴくりとも動かない。
傍らで鮮血滴る曲刀を手にしていたのはハイランバオスだ。にこにこと彼はいつもと変わらぬ笑みを浮かべている。
「何を──」
ヘウンバオスが喉を引きつらせて問うた。詩人はことのほか嬉しげに天帝に答えてみせる。本当に嬉しそうに。
「あなたのお言葉を耳にして気が変わりました」
ハイランバオスは爪先でコナーの頭を転がした。耳から這い出してきた蟲を長い指が優しく摘まんで地面に下ろす。それから詩人はぷちりとコナー本体を踏み潰した。
「あはっ!」
短い笑い声が響く。眼前で繰り広げられた一切についていけずに目を瞠る。
「これで消えちゃいましたね、レンムレン湖のアークの核」
ヘウンバオスが刃を抜く。切りかかろうと振り上げられた曲刀は、だがすぐ行き場を失った。
「おーっと、それ以上ハイちゃんに近づいたら間違って割っちゃうかも!」
横入りしてきたラオタオが小瓶を見せつけながら笑う。中にウェイシャンが泳ぐ瓶だ。天帝は顔をしかめて刃を下ろし、狐と詩人を睨みつけた。
すぐ横でルディアも拳を握る。彼らの所業に身を震わせて。
「どういうつもりだ……?」
怒気に満ちた声で二人に問いかけた。
こんな計画ではなかったはずだ。天帝と接合し、ジーアンの蟲の中身を入れ替えて、それが終わればヘウンバオスの本体は詩人が好きにするのだと思っていた。
それなのになぜコナーを殺す必要があった? 器だけでなく本体まで、一体なぜ?
わななくルディアに詩人は「すみません」と詫びる。
「ここに来るまではあなたの味方をするつもりでいたのですが、我が君がこの残骸に思っていた以上の希望を見出したようでしたので、そちらを潰すほうが面白そうだなあ、なんて思ってしまって」
あまりに堂々と語るのでしばし頭が混乱した。──では何か、つまりこの男は土壇場で方針を変えたということか。ヘウンバオスが「聖櫃を再現できればレンムレン湖も再現できる」と考えたから。
「ふざけるなよ……!」
ヘウンバオスの吠える声が洞窟にこだました。ハイランバオスは嬉しそうに笑っている。
「お前とてあの湖を探し求めてきたのではないのか!? 私と同じに! 何百年もの時をかけて!」
「だってあと百年ごときではどうにもならないではないですか。手に入らない故郷など絵に描いた想像図と同じでしょう?」
返答にヘウンバオスの怒りはますます燃え上がった。彼は片割れの不義理を声高に糾弾する。
「お前は私が望むならもう一度仕えると言っただろう!?」
──だが責められた詩人のほうは。
「あは! あんな言葉を本気にしてくださったのですか? ねえ、私あなたに申し上げましたよね。これからはあなたの敵になると。確かに私はあなたに嘘をついたことはありませんでした。ですがもう、それは遠い過去のことです。敵なのですから甘言を弄するくらいのことはしますよ」
人語を話すこの男が本当に己と同じ生き物なのか疑わしい。ヘウンバオスもルディアも言葉を失った。アレイアのアークにも、レンムレン湖のアークにも強い執着を持たないこと。天帝を深く絶望させたいこと。それがまさかこんな形で組み合わさるなど。
「……ああ、我が君よ。私は昔から苦悩するあなたが好きでした。ですが昔はあなたの再起を前提とした苦しみを愛していると勘違いしていたのです。私はずっと、繰り返し、繰り返し、一つの光景を夢見ていました。自分で目にした光景ではありません。水溜まりと成り果てた、死にゆくレンムレン湖を前に、膝をつくあなたを見たのは私ではない──」
ハイランバオスは滔々(とうとう)と語る。そのたびに身体がどんどん冷えていく。
「覚えていますか? あのとき側にいた書記官を! 彼はねえ、老いた将軍の悲嘆に凄まじい美を感じたのです! 私はどうしても彼の見たあなたの背中をこの目にしたい! あなたを再びあの深い絶望の淵へ追いやりたいのです! だからあなたが立ち上がるなら私はあなたの足をもがなければなりません」
それが詩人の「核」なのだろうか? 理解できないことばかりのたまう男は最後に「ですが」と希望を残す。
「ですがまだ、核を残す聖櫃は存在します! あなたの夢は完全には終わっていない! ねえ、私と追いかけっこをしませんか? 私がアレイアのアークに辿り着く前にあなたが私を捕らえられれば未来の故郷へ至る道は繋がりますよ!」
ハイランバオスが洞窟の出口に歩き出したのでルディアは咄嗟に彼の背中に斬りかかった。しかしレイピアの一撃は軽やかにかわされ、更にラオタオにも立ち塞がれる。
「追って来られると邪魔だよねえ?」
台詞とともに狐は躊躇なく小瓶を岩壁に叩きつけた。ガシャンと派手な音が響く。思わずそちらを向いた一瞬、殺気すら感じさせない自然な動作で曲刀を振るわれた。
「……ッ!」
脇腹が深く抉られる。出血と痛みに堪らず屈み込む。
二人はコナーの骸を跨ぎ、悠々と去っていった。天帝は彼らを追いかけようとしたが、結局やめて逆方向へ駆けていく。彼にはぶちまけられた蟲を放っておけなかったのだろう。
なぜ、と歯を食いしばる。傷口を手で押さえ、どうにか岩場を這いずろうとしたけれど、詩人たちにはとても追いつけそうになかった。
******
琥珀色の翼を広げ、焦ったように鷹が上空を羽ばたく。その音を聞きつけてダレエンはさっと顔を上げた。
この小さな同胞たちは洞窟の入口で主君の様子を見守っていたはずだ。先に戻るなど何かあったとしか思えない。小広場に馬を繋いで待機していた兵士の間に緊張が走る。三羽の鷹はその輪の中心へ降りてきた。
「どうした? 向こうで何があった?」
早くも近習の数人は曲刀に手をかけている。ピィピィ喚き立てる鳥兵に大熊が懐から文字表を差し出したときだった。橋向こうから人影が現れたのは。
「大変大変ー! 落盤したー!」
駆けてきたのはラオタオだ。大仰な身振りで若狐は洞窟の出入口が塞がれてしまったと伝える。少し遅れてハイランバオスも小広場に戻り、天帝と客人が取り残された旨を語った。
「大きな岩が倒れてきて。全員で行っても動かせないかもしれません」
主君を案じる詩人の顔にダレエンは眉をしかめる。確かに近辺を埋めるのは何かの弾みで倒れそうな奇岩ばかりだが、この二人だけ無事だったというのがどこか不自然に思えたのだ。
「本当か?」
念を押す大熊に三羽の鷹がピィピィ頷く。どうやら本当に事故らしい。そうとわかると全員即座に橋へ向かった。
落盤とは一大事だ。怪我などしていなければいいが。
バサバサと翼を広げ、鷹が一行を急き立てる。岩だらけの狭い坂を大急ぎで先導する。
急報に動じたことは否めない。しかし不審な動きに気づかないほど冷静さを損なっていたわけでもなかった。やはり不自然ではあったのだ。事故が起きたのだとしても、狐ばかりか詩人まで主君の側から離れるなど。
ふと後ろを振り返る。橋を渡りきるまではあった気配が消えた気がして。
──いない。ハイランバオスとラオタオが。
「……ッ!」
本能的にダレエンは地を蹴って細い坂道を駆け戻った。脇に押しのけられたウァーリが「ちょっと!? どうしたの!?」と大声で問うてくる。
振り返らずとも隊列が前後に乱れたのが知れた。だが構っている暇はない。後方で立ち昇る白い煙が見えていたから。
「橋に火が! 全員引き返せ!」
ダレエンが駆けつけたときには倒れて油を零すランタンが橋の真ん中で赤い炎を上げていた。燃え落ちれば道を失う。上着を脱ぎ、まだ焚火サイズのそれに被せる。何度も何度もばさばさと。
「どいて!」
いくらか小さくなった火にウァーリやほかの兵士たちが水筒の水をかけた。ジュウと小さな音を立て、やっと炎が消えてくれる。どうやら橋は焦げた程度で済んだようだ。
「ハイランバオスとラオタオは?」
大熊も二人がいないのに気づいたらしい。嫌な空気が立ち込める。ダレエンはすぐに立ち上がり「俺が追う」と繋いだ馬のもとへ急いだ。
「ダレエン、あたしも!」
そう言って蠍も小広場へ飛び出てくる。ヘウンバオスのことは残った大熊と近習に任せ、ダレエンは馬に飛び乗った。
何があったか知らないが、ろくでもないことに違いない。
もはや容赦する気はなかった。毒を撒き散らすだけの二人に。




