第6章 その3
急流は飛沫とともにうねりつつ灰茶の岩間を切れ落ちる。多少緩やかな流れの上に架けられた簡素に過ぎる橋を越え、ルディアたちは歩を急がせた。
登り始めたときには大岩小岩の景色だったのが今は巨岩しか見当たらない。倒れてきやしないだろうなと危ぶみつつ最後の坂を登りきると、岩の間に突如ぽっかり暗い穴が空いていた。
「ここがアークの見つかった洞窟かあ」
先頭を進んでいたラオタオがランタンを掲げて中を覗く。天井は低かったが屈めばなんとか入れそうだ。上空を舞っていた鷹が降りてくる。ヘウンバオスが「待っていろ」と命じると鳥兵たちはピィと利口に頷いた。
「危なそうだし俺から行くねー」
言って狐が岩の隙間に潜り込む。続いて詩人と天帝が、次にコナーが中へと入り、最後にルディアが彼らに続いた。
日光が差し込まないためか風もないのに空気が冷たい。足元には小さな岩や石ころが散らばっていた。入口の狭さに反して洞窟内は広かったが、平坦ではなく上って下って奥へと至る。
と、前方で灯りが静止し、先を歩く四人が足を止めたのがわかった。
掲げた光が照らし出したのは眼下の巨大クリスタル。六角柱を斜めに切った形状の、美しく透き通った。アルタルーペにあったのとそっくりだ。蟲の形は違うのに聖櫃のほうは同じに見える。
「おお!」
喜び勇んでコナーが駆けた。ひと足先に師はアークの鎮座する広い窪みへと飛び降りる。
「すごい、本当に傷一つない」
隅から隅まで検めてコナーは声を弾ませた。いくらか興奮が落ち着いた頃にルディアたちも彼に追いつく。師は周辺の自然環境を一望し「ああ、なるほど」と合点した。
「ひょっとすると最近まで凍っていたのかもしれません」
言われてルディアもドームに似た窪地を見回す。コナー曰く「ここに雨水が溜まって凍結し、溶けた水は岩間に染み込んで川に流れた。気候変動の周期を考えるとそうして保存されていたと考えるのが自然でしょう」とのことだ。
確かに雨量が多ければ水の溜まりそうな地形だった。窪みは深く、鍋の底のような形になっている。広範囲での凍結は十分有り得そうだった。今も長居は毒だとわかる芯からの凍えがある。
「はー。これは確かに懐かしい感じあるわ」
周辺を眺める余裕のあるアクアレイア人と違い、ジーアン人の三名は囲んだアークにまじまじと見入っていた。珍しく呆けたような狐の隣で天帝も詩人も神妙な顔をしている。まるで初めて流れ星を見る子供のように。
「これがアークか……」
ヘウンバオスが声を漏らす。しかし彼の表情からは懐古の念は感じ取れても歓喜や執着は感じなかった。双眸も陶酔を宿してはいない。「稼働が終わった」とはこういうことかと納得する。同じに見えてもこちらのアークは死んでいるのだ。
だがレンムレン湖のアークは完全な骸でもないらしい。コナーは手袋を取り外し、透き通る石柱に触れた。すると聖櫃が青白い光を放って輝き始める。
「やはり『核』がまだ生きている……! すごい、すごいぞ! やあどうも、初めまして」
何がどうすごいのか、誰に挨拶しているのか、説明は特になされなかった。突然の発光に目を丸くするルディアたちを捨て置いてコナーは一人でうんうん頷いている。
「我が君にもわかるようにご説明いただきたいですねえ」
ハイランバオスが苦言して初めて彼は我に返った。光が消え、暗い洞窟内を照らすのはまたランタンの灯だけになる。師は「すまない、すまない」と頭を掻いて謝罪した。
「せっかくですからアークのこと、あなたにも少しお話ししましょうか。ここの管理人はあなた方を歓迎するそうですし」
コナーは天帝に向き直るとにこやかに持ちかける。「管理人?」と尋ね返したヘウンバオス同様にルディアもはてなと首を傾げた。管理人とは師自身を指す言葉ではないのかと。
「核が残っておりましたので彼の複製も無事だったのです。今さっき情報交換をしました。まああなた方には彼の姿は見えないと思いますが……。お名前はキヨンルだそうです。アク・キヨンル。歴史上ではレンムレン国の初代国王とされる人物ですね」
天帝が顔を歪めて「適当なことをほざいているのではなかろうな」と語気を強める。画家は笑って彼の疑いを否定した。
「我が子が千年も生き延びたこと、ここまで辿り着いてくれたこと、誇らしく思う──だそうですよ」
まるで隣に誰かいるようにコナーは虚空に視線をやる。天帝はいっそう眉をしかめて問いかけた。
「アークとはなんだ? 蟲を生む水晶だという以外にも何かあるのか?」
血の透けた赤い眼が鋭く巨石を睨みつける。ヘウンバオスに答えるコナーの声はどこまでも穏やかだった。
「アークはうんと遠い昔、滅亡の危機に瀕した人類が叡智を託した方舟です」
言ってまた師は何もない隣を見やる。眩しげに目を細めて。
「聞かせてやってくれということですし、簡単にお話ししましょうか」
彼が再びアークに触れると今度はアルファベットらしきものがクリスタルの表面に浮かび上がった。だがなんと書かれているのかはわからない。ほとんど知らない単語だった。
師の指がいくつかの文字を撫でると現れる文章も変わる。それからすぐに、視界に映る景色そのものが切り替わった。
******
──なんだこれは。なんだここは。
──さっきまでいた洞窟はどこだ?
一体いつからそこにいたのか、それともこちらが紛れ込んだのか、白く長い上着を羽織った人間が聖櫃と己を囲んで慌ただしく動き回る。
周囲にはいくつもの大きな機材。城攻めに使うものよりはこじんまりとしているが、何に使う道具かは皆目見当もつかない。
流れる空気も物々しかった。まるでこれから恐ろしい敵が襲いにでも来るかのように。
「これはレンムレン湖のアークを作った方々です」
間近で画家の声が響く。振り向けばヘウンバオスの傍らでコナーがアークを眺めていた。
急に現れた奇妙な格好の人間たちは誰一人こちらに気づいていない様子だ。ハイランバオスも、ラオタオも、ルディアも巨石のすぐ正面に立っているのに一切目に入っていないようである。
夢の中に迷い込んだ。そう表現するのが近そうだった。一方的にこちらからだけ観測している。手元の小さな金属板を懸命に撫でつける彼らを。
「世界中で一気に気温が上がりましてね。まあそれは前触れに過ぎなかったのですが、悪い病気が流行ったり、大きめの隕石が落ちたり、凍土の底から新種の寄生虫が発見されたり、天変地異に戦争に大規模な環境汚染に──ともかくありとあらゆる危機が相次いだのが彼らの滅びの原因でした」
頭は少しも追いついていなかった。
コナーの言を信じるならば沈痛な面持ちで眼前を行き交う彼らはもういない人間らしい。いつの時代のなんという国の光景だろう? 察せられるのは見たこともない機器を操る彼らがジーアンより遥かに進んだ文明を有していることだけだった。
とても人が作ったとは思えないが、アークが人造物というのは本当らしい。管を通じて巨石の内部に何かの液体が注がれる。白い服を着た男女が音もなく蓋をする。コナーは続けた。「目前に死が迫ったとき、このような聖櫃に記憶と知恵を遺すことに賭けた人々は多かったのです」と。
亡国の王族が冠や歴史書などを持ち出したがるようなものだろうか。再興を望む者たちはいつも似たり寄ったりの振舞いをする。そう思うとこの馴染みのない異人らも多少は近しい存在に感じられた。
「最終的に四十八ヶ国でアークが建造されることになりました。未完成のまま政府や研究所が力尽きたところもあり、何基のアークが始動まで至れたのかは定かではありませんが……」
人類が叡智を託した方舟。何が詰まっているのだろう。不可思議な青い光を放っている石柱に触れてみたくなる。
だがヘウンバオスが一歩踏み出すと幻は泡のごとくに消え去った。不思議な景色は元いた洞窟のそれに戻り、聖櫃に伸ばした指だけが視界にぽつんと取り残される。
「アクアレイアのアークもこれと同じように作られました」
コナーは再び亡霊を呼び戻そうとはしなかった。聖櫃の魔力は十分見せたということか、淡く輝くアークを見上げ、今度は別の話を始める。
「蟲にいくつか型があるのはどの蟲が環境に適応できるか試す時間がなかったからで、アークの製造方法に大きな違いはありません。我々は同種の疑似生命なのですよ。人類が滅びたのち、後退した世界を前に進めるための」
人為的に生み出されたなら当然だが蟲には使命があるらしい。やはり亡国を甦らせようとする王族の発想だ。残した血に希望を託そうとする。
コナーは言った。そこに国が興れば飛躍的に文明が発展する、そういう場所を選んでアーク管理者は開拓や建国を行うのだと。川に蟲の卵を流し、海中で孵化させれば近辺に住む者たちは脳に蟲を飼っておらずとも色彩豊かな髪と目になる。珍しいので記録に残り、それが将来アークを発見させるための布石となってくれるのだと。
説明しながら画家は巨石に様々な都市を映した。コナーの口にしたすべてを理解できたわけではない。だが彼の話がどこに着地するかくらいは想像できた。
遠い昔に存在した大国。滅びとともに失われた知恵と技術。方舟にそれらを積んだということは、アークを作った者たちはいつか岸に辿り着く日を待っているということだ。誰かが方舟を拾う日を。
「……これをどこかの湖にやればレンムレン湖と同じになるのか?」
問いかけに画家は首を振った。
「残念ながらレンムレン湖のアークにはもう蟲は生み出せません。その段階はとうに終わり、今は眠りについています。これがあなた方の母体であったのは確かですが、今はその次の役目──人類に研究され、科学の躍進に貢献するという役目を果たす日を待っています」
眠りについている。もう蟲を生み出すことはない。その言葉に傷ついた己がいた。ひょっとしたらと抱いていた期待が打ち砕かれた気がした。だがしかし諦めるにはまだ早い。
「アークを調べれば何がわかる?」
この問いにまたもや画家は首を振った。
「調べても今の科学では何一つわかりません」
予測に違わぬ答えが返る。わかっていた。アークがそこらの学者や職人風情では手に負えぬ代物だということは。──けれど。
「……もう一度これを作ることができたら、レンムレン湖もまた生まれてくることができるか?」
一縷の望みを抱いてヘウンバオスは問う。ひと目映した瞬間から懐かしさは感じていた。しかしそれだけだ。辿り着いた、帰ってきたとは思えなかった。これはそう、遺跡のようなものであって、己が真に求めていた命が欠けているのである。あの国で、あの水辺で、同じ時代を生きていたものたちが。
だが聖櫃が作られたものならば、かつて人の手が生んだものならば、夢見ることはまだ許されているのではないか。
「それはもちろん可能です」
画家は力強く頷く。本当に同じものを用意できるのだったらと。
「人類がアークを再生産し得る科学力を獲得するまで見守るのが管理者である私の務め。もう一度レンムレン湖の存在する時代が巡ってくるとしたら、私も願ったりですねえ」
そうかとヘウンバオスは答えた。己の足では辿り着けぬかもしれなくとも、故郷に至る道はあるのだ。初めてそれならいいと思えた。故郷に帰ることよりも、故郷が存在し得ることが大切だった。たとえそれが遠い未来の話でも。
(そうか。今あの湖はどこにも存在しないのか……)
探して、探して、探し続けた。アークは己の望んだものではなかったが、己を救う希望ではあった。夢中で駆けた千年をささやかに祝福してくれる。
(だがいつか、再びこの世に現れることはできる……)
少し呆けた気分になる。受け止めるべき答えを手にして。
そんなこちらを気遣うようにコナーはおずおず尋ねてきた。
「アークをこのまま置いておくと劣化が進みそうなので、核は私が譲り受け、器のほうは陛下にお任せしても?」
そう言えばまだアークの「核」がなんなのか聞いていなかったと思い出す。問えばコナーは嬉しげに説明した。
「核と言うのはあらゆる情報の詰め込まれた聖櫃の脳であり心臓です。私が私のアークに統合したほうが後世に伝わる確率を高められるかと存じます」
快活な笑みに「好きにしろ」と息をついた。止めても彼は引き下がりそうに見えなかったし、どうせ勝手に何かされてもこちらにはわからない。
にこりと笑ってコナーは「お礼にいいものをご覧入れましょう」とアークに触れた。その途端、今までの比でないほど強い光が彼の全身を包み込む。
「さあ、今、私に管理者権限が移りましたよ」
明るく画家が告げた直後、広がったのは一面の水の光景だった。
「────」
目を瞠る。
日の照る砂漠。涼やかな湖畔。茂る柳。愛してやまなかった塩沢。
ヘウンバオスは震えつつレンムレン湖を見渡した。
色とりどりの容姿の住民が行き交うオアシス。宿にはキャラバンが停泊し、市場は多くの商人で賑わう。
何もかも昔のままだった。己がヨルクだった頃と何一つ変わらない。
ああ、ここだ。ここにずっと帰りたかった。
「……!」
思わず塩湖へと駆け出す。今度の幻は消えなかった。
足の裏に砂の熱が伝わってくる。湖畔の柳を掴むことも、豊かな湖水に身を浸すことも、なんでもできた。
日干レンガの家並みが眩しい。水もきらきら光を反射して輝く。
ずっと、ずっと、探し求めた故郷を掌に掬い上げ、ヘウンバオスは己が半身を振り返った。
見ているか、お前もこれを。
私たちのレンムレン湖を!
片割れに問いたかった。胸に満ちる無上の歓びを分かち合い、彼と手と手を取り合いたかった。
信じられる。いつか再びこの情景が甦ること。
アークを守り、知の道を促進するのが己の成すべきすべてということ。
──そのとき突然一切が暗闇に舞い戻った。




