第1章 その2
「それじゃあ本日の警邏にしゅっぱーつ!」
無邪気なモモの声でパトロールは始まった。
小さな区画に瀟洒な商館の立ち並ぶアクアレイア人居留区を出れば、すぐ目の前は深い入江、美しきアレイア海だ。三方を陸に囲まれたこの海の北奥にニンフィはある。
国土の九割が山岳地帯というマルゴー公国の街らしく、港には切り立つ白い岩壁が迫っていた。海と山に挟まれた土地は狭く、人々は身を縮めて生活している。
初めてこの地を一望し、潮風吹きつける断崖に漁民のあばら家を見つけたときはぎょっとした。海上に都市を築いたアクアレイア人が言うのもなんだが、よくまあこれほど住み心地の悪そうな場所に定住しようと考えたものである。
山の傾斜はきついし、崖に沿う道はところどころ崩落しているし、居住する利点など外敵の阻みやすさしかないのではなかろうか。海運国のアクアレイアが寄港地として拠点の一つにしていなければ今もニンフィはわびしい漁村に過ぎなかったに違いない。
「神殿に着いたら仕事の成功でもお祈りしようかなー。悪さする人がいなくなればモモたちも大手を振ってアクアレイアに帰れるもんね」
「そうですねえ。モモさえいれば僕はどこでも楽園ですけど、そろそろ家に帰ってのんびりしたいですよねえ」
通り過ぎさま二人は賑わう港に目をやった。船着場では錨を下ろしたガレー船がゆらゆら波に揺られている。楽しげな水夫の声に王国訛りを聞き取ってルディアは堪らなくなった。
ああ、愛する祖国は海を下ればたった一日の距離なのに。任務放棄の代償が王国追放という厳罰でさえなかったらとうの昔に脱走してしまっていただろう。秩序を維持するための規則に足を引っ張られるとは忌々しい。
「犯罪件数をゼロに――か。そうなれば確実に王都へ戻してもらえるだろうが、書類操作でもしない限りは不可能だろうな」
溜め息混じりにルディアは呟く。沿岸部から遠ざかるほど貧相になる田舎町、とりわけ絶壁にへばりつく粗末な家を見つめながら。
ニンフィのアクアレイア人居留区で盗難被害が急増したのは一昨年の冬から昨年末にかけてのことだ。これはアレイア海東岸にジーアン軍が陣取っていた時期と重なる。
二年前、王国経済を担う商人たちは政情不安な東岸から撤退を余儀なくされ、北岸に拠点を移した。商売を続けていくには陸路を使うマルゴー商人との取引が必須となったからだ。
大山脈を越えてくる街道はニンフィがその終点になる。商品の到着を待つ人々はこぞってこの湾に詰めかけた。空っぽの船ではなく、輸出品を満載した何隻もの商船を率いて。
「手の届くところに宝の山があるのだから、目のくらむ阿呆は絶えんだろうな。金持ちからなら盗んでいいという考えではロマと変わらんが」
「ほんとそれ! 欲しいなら欲しいで盗む以外のやり方あるでしょうに!」
いつになったら帰れるのかとモモは嘆く。「大丈夫、近いうちに帰れますよ」とバジルが少女を励ました。
昔から貧しい漁民による窃盗はあった。ただ誰も問題にしていなかったのだ。商船が停泊するのは長くて一、二週間だったし、昨日も盗まれ今日も盗まれ、なんて事態は起こらなかったから。
それに一昨年まではアレイア海を自由に航行できた分、商人たちの財布にも余裕があった。つまりこれまでは報告もせず、穏便に忘れてやっていた小さな失敬が気に障るようになり、被害のカウント数が増えたのである。
まったく世の中というのは難しい。おかげでアクアレイア人と地元民の関係は過去最悪だ。商売人同士は付き合いも古く、特にギスギスしてはいないが、防衛隊が一歩でも居留区を出ようものなら陰湿で粘着質な視線に晒されるのを避けられなかった。しかも最近、このねっとり感をこねて束ねて練り上げて、再配布する輩まで現れたのである。
「うげっ、ハイランバオスですよ!」
湾港を過ぎ、みすぼらしい税関の角を曲がるや否やバジルが渋面で固まった。その直後、ルディアたちを広場に入れさせまいとマルゴー兵が通せんぼする。
いつもの馬鹿馬鹿しい嫌がらせだ。ニンフィでは現地住民だけでなく兵士も隣人を嫌っているのである。
「説法の途中ですのでご容赦を」
「アクアレイアの方々は耳にしないほうがいいのでは?」
交差した槍の隙間からルディアは陰気な人だかりを睨んだ。中心にいるのは騎馬民族の鞭を結わえ、皮カフタンと聖衣をつけた異国の美青年である。一見柔和な笑みを浮かべ、彼は人々の訴えに耳を傾けていた。
聖預言者ハイランバオス。バオス教の若き教主で、ジーアン帝国を統べる男の実弟だ。三月にマルゴー首都で開かれた和平会談ののち「西方世界で見聞を広めたい」とか言い出して、現在ニンフィに居座っているのである。演説巧者で神秘的な雰囲気があり、住民の一部はすっかり信者と化していた。
「お聞きになりましたか? 昨晩また野獣が奴らを襲ったとか」
「ハイランバオス様、これも天罰なんでしょうか?」
「ああ恐ろしい! 今度のは巨大な蛇だったそうですよ!」
聖者に群がる蠅どもには見覚えがあった。少し前、アクアレイア人居留区で盗みを働こうとした漁民たちだ。治外法権の地区内で逮捕に至らなかったため処罰したくてもできなかった連中なのだが、防衛隊を逆恨みしてあることないこと吹聴しているという噂は本当だったらしい。今度お縄にする機会が来たら容赦なく叩きのめしてやろうと誓う。
「同情しておやりなさい。アクアレイア人の不幸はすべて、呪われたかの王が呼び寄せているのですから」
聞き捨てならない台詞にルディアはぴくりと眉を歪めた。ハイランバオスはこちらに気づいた風もなく、粛々と根拠不明の自説を展開してみせる。
「イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイアは災いの星のもとに生まれついています。このまま彼を野放しにすれば、王国は近く崩壊の憂き目を見るでしょう。暴れ熊や大蛇はその予兆に過ぎません」
道を塞ぐマルゴー兵の表情は愉快げだ。おかしな人間に嘲弄されて可哀想にという同情心、果たして防衛隊はどう出るかなという好奇心、お前たちも苦労を味わえという敵愾心。そのどれも無視してルディアは進路を変更する。
「裏道を抜けるぞ。バジル、モモ」
「はーい」
「りょうかーい」
ハイランバオスはマルゴーとアクアレイアが共同で迎えた国賓だ。悔しいが、未だ東方交易が再開に至らず、ジーアンが腹の底では版図拡大を諦めていない以上、下手な手出しはできない。
強力な敵に付け入る隙を与えてはならなかった。今できることは胸に秘めたいつか殺すリストに名を刻みつけておくくらいである。
「――おい、防衛隊。承知しているだろうがハイランバオス殿に無礼を働くんじゃないぞ」
と、不意に呼びかけてきた声にルディアはぴたりと足を止めた。振り向けば眉目秀麗なハニーブロンドの騎士が一人、漆喰の壁にもたれて腕組みしている。
「大丈夫だ。そんな愚は犯さない」
「ならいいがな」
ユリシーズはそれだけ言うと広場の聖者に目を戻した。
相変わらず銀の甲冑が似合う男だ。横顔の凛々しさなど思わず見惚れそうになる。
が、アクアレイア海軍中尉を務める逞しき武人にも今回の要人警護は心労がかさむらしい。若草色の瞳には少なからぬ翳りが見えた。あんな説法を一日中聞かされていたのでは致し方ないことだけれど。
(私が支えになれればいいのだが……)
切なさをぐっと堪えて背を向ける。チャドとの結婚が決まるまで恋仲だった元婚約者に。
ユリシーズならどんなに姿が変わっていてもルディアをルディアとわかってくれるのではなかろうか。今すぐ城に帰りたいと言えば、助けになってくれるのではなかろうか。
(いや……きっと変な顔をされるのがオチだな)
かぶりを振ってルディアは建物の隙間を縫う細い道を歩き始めた。
現実的な判断を下すのに甘い希望は持ち込むべきでない。王位継承者たる者、常に最悪の事態を想定して行動するべきだ。もし気狂いの烙印を押され、防衛隊からも除籍されてしまったら宮廷との最後の繋がりをも失うことになる。
(耐えろ、ルディア。誰かの胸にすがらなければならないほど追い詰められてはいないだろう?)
手を伸ばしたい気持ちをぐっと抑え込む。振り切るように歩を速め、その場から立ち去った。
防衛隊による警戒は厳しく、その後も盗人は商船や居留区に近づくことさえできなかった。貧民たちはますますいきり立ちハイランバオスに同調したが、こちらの知ったことではない。救貧はマルゴーの責務であってアクアレイアの責務ではないのだ。
ニンフィの街を震撼させる大事件が起きたのは五日後のことである。それは五月二十八日の夜更け、防衛隊による四度目の害獣駆除に端を発した。