第6章 その1
忘れられない光景がある。
実際に己の目で見たわけでもないのに。
砂塵と塩が風に舞う。じりじりと日射に焼かれて。
──あれは故郷の最後の日。
水辺を求めてあの人がさまよい歩く。
私は彼から目を離せずについていく。
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幕屋に控えた防衛隊に出発が告げられたのはサルアルカに到着した十日後のことだった。伝令曰く、新道とやらが完成に至ったらしい。早めに動けそうで良かったとモモはほっと息をついた。
客人扱いになったとは言え自由があったわけではない。幕屋は兵にぐるりと囲まれたままだったし、移動という口実もないから出歩くこともできなかった。代わりにそこらにいる者にお使いを頼めるようになったのでマルコムたちとの意思疎通は図りやすくなったけれど。
短いやり取りを重ね、退役兵に成り代わった脳蟲たちにもルディアの計略は伝わっていた。主君がいつどこで天帝を狙うかは。
「いよいよね」
言伝に来た兵を見送ったアンバーが愛らしい軍医の顔を引き締める。モモもこくりと頷いた。この先の予定を頭に浮かべながら。
アークのもとでヘウンバオスを襲撃するのはルディア、コナー、ラオタオにハイランバオスだ。抵抗された場合は人質を使って動きを止める。最も重要な捕虜であるファンスウは身の危険の大きいエセ預言者が、狐の監視役であったウェイシャンはラオタオがその本体を所持していた。防衛隊は幾人かの退役兵本体を瓶に封じて隠している。
だがルディアたちが五人きりで、兵士がすぐに駆けつけられない洞窟に潜るなら、人質など使わなくとも問題なく入れ替われるだろう。万一の際に備えて後方を固めておくのがモモたちの役目である。途中で天帝に逃げられたとか、十将に企みを察知されたとか、そういう場合はこちらが身を守らねばならない。マルコムたちと連携し、交戦にも逃亡にも転じられるよう構えておくのが肝要だった。
「テイアンスアンに出発だって?」
「今すぐにか?」
衝立の裏からレイモンドとルディアが現れる。別の衝立からもアイリーンとバジルが顔を出し、緊張に息を飲んでいた。
「うん。この幕屋、また車に載せるから一旦出ろって」
兵士に与えられた指示を四人にも伝え直す。主君は「そうか」と頷くと馬に担がせる荷物だけさっと手にして玄関へ向かった。槍兵たちもぐずぐずせず、各々の準備を整える。
きっとこれが防衛隊としての最後の仕事になるだろう。ジーアン乗っ取りが完了すればルディアが部隊を留め置く理由はない。
その後に自分たちがどうなるかはまだわからないが、己の役目はきっちりと果たしたかった。進むべき道を進むことでしか示せないものがあるから。
兄の願いを叶えたこと。怒りながらでも最後は認めて受け入れたこと。己は背負っていかねばならない。
幕屋の解体と積込みが終わるとただちに天なる山々への最後の旅が始まった。巨大な山塊の砂漠側を目指す迂回路の旅である。高峰を登って分水嶺を越えるより、山際を回り込んで砂漠を旅したほうが目的地に近いそうだ。
一般兵をサルアルカに残し、天帝は防衛隊や退役兵を含めた百名超の蟲たちを連れて東へと足を向けた。
今度の旅では様々に取り巻く景色が移り変わった。最初は緑たなびく草原。いくつかの谷を過ぎると草地が消え、地面が固くひび割れてくる。隊列に迫る岩壁。山と山の間の抜け道。曲がりくねった狭い自然の回廊を抜けたと思えば突如一面に荒涼とした不毛の大地が広がった。
暗灰色の砂礫の荒野。砂の上に大小の尖った石が転がった。
空気は茶色く濁っている。風の巻き上げた大量の砂がどこまでも地を覆って。
──これがテイアンスアンの砂漠側。
およそ人の住むところではない。見渡す限り砂と石ころだけの世界にモモは身震いした。それでも天山の麓ではまだ草くらい育つのか、よく見れば硬い棘を持つイラクサがぽつりぽつりと生えている。だがそれ以外は本当に、ただの一つも生きたものの姿はなかった。
馬上で圧倒されている間にジーアン兵は砂上の道を歩み出す。無数の足跡を刻みつつ一行は木の一本も生えていない岩山沿いを進んでいった。
風だけだ。音を立てるものは風だけ。飛んでいくのは細かな砂だけ。
被り直したケープがはためく。こんなところに長居はするなと警告でもするように。まだ三月というのに日差しも強かった。アンバーによれば春のうちは昼の暑さも夜の寒さも凌ぎやすいとのことだったが。
馬の蹄が柔らかな砂に沈まないように気をつけて兵士たちについていく。獣もいない、鳥も飛ばない、風と砂だけが君臨する地を。
目印としてか一定間隔ごとに立つ石杭だけが人の営みを感じさせた。確かにここを誰かが通り過ぎたのだと。
「……!」
寂寞とした風景が一変したのは流れる川に──かつてレンムレン湖に注いだ大河の本流に──出会ったときだ。
目の覚めるような豊かな緑があっと言う間に視界を染める。河畔に細く枝を伸ばした紅柳。水草に似た葉を垂らし、小さな蕾をたくさんつけた。根元には大きな鼻の小動物が群れで憩う姿もある。名は知らないが羚羊の一種だろう。繁茂した草を彼らは美味そうに食んでいた。
ついさっきまで何も生きていなかったのに。
こんなところでは人も動物も暮らせまいと思ったのに。
隊列は岸には寄らず、少し離れた小高い地盤の上を進んだ。砂漠の川は上流で雨が降るとすぐ氾濫し、無知な旅人を溺れさせるそうである。砂も脆く崩れやすく、見た目より危険が大きいのだと。
そう言われて納得はしても青と緑は眩しかった。色のない世界できらきらと輝いて。
水は命の源なのだ。目にした光景が実に単純な真実を悟らせる。
同時にこの乾ききった地で故郷を失った蟲のことを考えた。水辺への渇望はこちらが思うよりずっと深いものなのかもしれない。
川のすぐ側を行くことは砂漠において非常に心強かった。胸に巣食う不安のすべてを追い払えたわけではないが。
短い旅はほんの数日で終わりを告げた。途中でほかの遊牧民と遭遇することもなく、風が吹き荒ぶ以外は静かな往路だった。




