第5章 その4
「良かったのですか? 私と二人きりになどなって」
足元で響いた声にヘウンバオスは顔をしかめた。何を考えているのか知れぬ片割れは、すぐ側に跪いた姿勢のまま陶然と微笑んでいる。その視線を避けるべく長椅子に深く身を沈めた。
「寝首を掻かれる心配はなさっていないということで?」
追ってきた無邪気な声を「武器もないのに何を言う」と一蹴する。
「ああ、そう言えばここに入る前に取り上げられたんでしたっけ」
軽やかに彼は笑った。そんなことは問題ではないと言うように。
なぜこうもこの男はいつも通りなのだろう。不可解で、不愉快で、今すぐにくびり殺してしまいたくなる。
「あなたが我々の滞在を認めてくださったということは、私の曲刀ものちほどお返しいただけるのでしょうか?」
調子づいた問いかけにヘウンバオスはぎろりと双子をねめつけた。
「客と認めたのは王女と画家の二人だけだ。延命の方法とアークのこと、よく知る者が二人もいればお前とラオタオは必要ない」
切り捨てることを宣言したつもりだったのに、ハイランバオスは「おや」と残念ぶるだけで一向に動じない。どころか彼は「お祝いのために三ヶ月かけて冬の草原を越えてまいりましたのに」と嘆いてみせる始末だった。
真面目に聞く気になれずに息を吐く。眉間にかかる力は増す一方だ。
「そう言えば私にお聞きになりたいことがあったのでは?」
「…………」
なんでも尋ねろとばかりに満面の笑みを向けられる。だが疑念はすぐに言葉になってはくれなかった。
眼差しが鬱陶しい。昔と同じにされるだけで、あまりに彼に馴染みすぎた己はどこかが麻痺してくる。同じではなくなったのに。もう何もかも違うのに。これは自分に背いた敵だと認識できない。
「……アークについて知っていること、本来ならお前から私に報告すべきではないのか? 延命のやり方も、祝いに駆けつけたと言うのなら」
それなら王女とも画家とも取引する必要はなくなる。教えないのは敵でいるのをやめるつもりがないからだろうと言外に主張する。だがハイランバオスは意に介した風もなく、あは、と声を立てて笑った。
「なるほど、そういう考えをお持ちでいらしたわけですね。確かに私はどちらについてもある程度以上存じていますが、あなたに何も申し上げなかったのはルディア王女と『ジーアンからアクアレイアを取り戻すお手伝いをします』と約束してしまったからです。私はあなたという方に『嘘はつかない』と誓った身ですから、その契約を反故にはできませんでした。だからこそこうやって、あなたのもとに役立つ客人として彼らを連れてきたのですよ」
隠し事はしても嘘はつかない。それはこの厄介な片割れの一貫した行動指針だ。理屈の上では蟲の寿命は尽きている。そう言われたとき途轍もない衝撃を受けたのは、彼の発する言葉の重みを誰より承知していたからだ。
「……なんのために帰ってきた?」
第二の問いはおよそ勢いを失くしていた。ハイランバオスはもう一歩分膝を寄せて「最初にお話しした通りです」と眩しそうにこちらを見上げる。
「アークが見つかったお祝いをするために。だってようやく私たちは、千年も探し続けた故郷に辿り着いたのですよ?」
再起は信じていたけれど聖櫃の発見に至るとは思ってもみなかったと、彼は感激した様子だった。聞けば世界中ほとんどすべてのアークが消失の憂き目に遭い、稼働するのはわずかにアクアレイアのアークのみだと言う。語る詩人はどこまでも誇らしげだった。
「あなたが道を切り拓いてくださった。私たちは私たちの望んでいた終着点で安らげる。そうでしょう?」
許しもなく弟はヘウンバオスの手を握る。入れ替われる器なのをいいことに別人が入っているのではと思いたかった。こんな都合のいい言葉を、この男が紡ぐはずないのだから。
「後ろ足で盛大に砂をかけておいて、宴の美酒は味わうつもりか」
吐き捨てれば片割れは「奴隷で構いません」と答えた。妙なる微笑は一瞬も崩れない。刎ねたければ首を刎ねろと頭を垂れたときと同じに。
「約束したではありませんか。めでたしめでたしで終わる詩を捧げると」
甘い囁き。手を振り払い、ヘウンバオスは彼を睨んだ。「どの口がほざく」と唾を吐く。アークが見つかったから出戻ってきたということは、逆にアークが見つからなければ背信行為を続けたということだ。
信用できるわけがない。そんなにすぐに掌を返す者のことなど。
「今も昔も私はあなたの成すことを見届けたいだけ。本当にそれだけです」
性懲りなくハイランバオスがまた指を伸ばしてくる。そっと手を握られても片割れの顔は見なかった。
臆面もなく彼が言う。「私は感動しているのです」と。
「あなたがもう一度仕えよと私に求めてくださるなら、命尽きるまであなたのために働きます。ジーアンを裏切ることもありません」
誓いを立てるという言葉にほんのわずか心が揺れた。
目と目が合う。澄んだ水の色の双眸と。
「……人質を一人返せ。お前の安全を保証する分を」
ぱあっと瞳に光を灯すとハイランバオスは懐に手を滑らせた。間もなく彼は陶器の小瓶をヘウンバオスに差し出してくる。
「ファンスウです」
彼らにとって最も価値ある捕虜の名を聞いてやっと安堵した。片割れはまだ仲間殺しはしていない。今なら我々はなんとかやり直せるかもしれない。
「本当に私のもとへ戻ってくるのか」
掠れ声の問いかけにハイランバオスは頷いた。「お望みのままに」と再度手を握られる。だがこちらから彼の手を握り返すことはできなかった。胸が痛みを忘れたわけではなかったから。
「私をお許しいただけますか?」
長い指に確かな熱と力をこめて片割れが乞うてくる。
ヘウンバオスは是とも否とも答えられずに押し黙った。
だが沈黙は雄弁だ。消しきれていない愛着を無言のうちに語ってしまう。
「我が君の寛大なお心に感謝いたします」
ハイランバオスは嬉しげに頬を綻ばせた。
あんなに痛い目に遭わされたのに、結局己はいつも彼に甘いのだった。
******
よくわからない話だったなとひとりごちる。高帽子の男がジーアンの皇帝で、彼はルディアを客人と言った。かろうじてそれだけはわかったが。
(おれがまだ言葉をよく知らないからかな)
それぞれの幕屋に戻るようにとの指示のままアルフレッドはブルーノたちと女帝の幕屋に引き返していた。あんなにうるさかったのに、もうガラガラともカラカラとも騒音は響かない。
緊張しすぎて疲れたらしくブルーノは早々に床に入っていた。アルフレッドもぼんやりとかまどの前に腰を下ろす。
サルアルカに着いたのにまだルディアとは一緒になれないのだろうか。己の頭にあったのは主君のことだけ。ほかは全部、今までと変わらず続くものだと思い込んでいた。
「そろそろお別れかしらね」
長椅子に座したアニークが寂しそうにぽつり呟く。え、と思わず彼女を見ると「だってヘウンバオス様との交渉は成立したみたいだし、テイアンスアンでアークを見たら防衛隊はアクアレイアに帰るでしょう?」と尋ねられた。
「身体を換えればあなただって帰国できなくはないものね」
私は天帝陛下のもとに残らなきゃいけないから、とアニークが続ける。その顔がなんだか泣き出しそうに見えてアルフレッドはうろたえた。
思わずポケットのハンカチを掴む。だが別にアニークは涙しているわけではない。握りしめたコットン生地の出番は回らなさそうだった。
「あなたも随分しゃんと動けるようになったし、アレイア語も上手になったし、私がついてなきゃダメなんてこともうないわ」
褒め言葉のはずなのになぜかあまり嬉しくない。
そうか、ルディアと一緒になるとアニークとはお別れになってしまうのか。だから彼女は自分が主君のもとへ行くと複雑そうにしていたのか。今更ながらその心情に思い至る。
アニークはアルフレッドが目覚めたときからずっと親身でいてくれた。何もできない、右も左もわからない己を優しく見守ってくれた。
礼を言わなくてはならない。ありがとうの言い方だって、教えてくれたのは彼女なのだ。
(もしすぐに姫様のほうに行くことになれば何も伝えられなくなる)
離れ離れになる前に今言おう。そう思ったのに紡ごうとした言葉は呆気なく遮られた。
「いらっしゃい」
長椅子から立ち上がり、アニークが手招きする。アルフレッドはそろそろと彼女の向かった幕屋の奥へと踏み入った。
「これがあなたの騎士の剣」
褐色の細い指が示すのは、黄金馬像のすぐ横に飾られたひと振りの剣。柄に大きく鷹の意匠が施された。
「返すわね」
彼女は言うが、預けた覚えは一切ない。これが自分の持ち物だという実感もほぼなかった。ただなんとなく惹きつけられるものがあり、静かに指が伸びていく。
「……ありがとう」
壁から剣を取り外し、腰に帯びるや言葉は自然に溢れていた。だがアニークは感謝など必要ないと言いたげに首を振る。
「ヘウンバオス様が客人だって仰ったから、もう武器を持っていいと思うの。鍛錬も遠慮なくやってね。きっとダレエンが付き合ってくれるわ」
彼女の顔はやはりどこか寂しげだ。
何か言うべきことがあるのではなかろうか。そんな気持ちが湧いてくるが、それが何かはわからない。わからないのでアルフレッドは黙るしかなかった。
(そろそろお別れ──)
心の奥で名残惜しさ、離れがたさを感じているのに胸を苛む悲しみはついに言葉にならなかった。
腰の剣は不思議なほど己にしっくり馴染んでいる。
アニークは諦めたように笑っている。
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なんて嬉しい誤算だろう。まさかアジア側のアークがほぼ完全と言えそうな形で残っているなんて!
跳ねるように己の幕屋に戻ってからもコナーの興奮は続いた。
まだ絵をちらと見ただけなのでぬか喜びになる可能性は否めないが「核」が無事ならこちらのアークにデータを移行・統合できる。これまで不明瞭な点のあったアジア側の研究成果をものにすることができるのだ。どうして喜ばずにいられようか!
どれほど文明の発展を望めるか考えただけで胸が躍る。人類がいよいよ聖櫃を利用する段階にまでなったとき、サルアルカで得たこの一歩は大いに科学に貢献してくれるだろう。
それにジーアン帝国も、ルディアが統治することになれば広大な領域で長く平和が保たれるに違いない。天帝には気の毒だが皇帝の座は彼女に明け渡してもらったほうがいいのである。争いは確かにある種の技術革新をもたらすが、それ以上に取り返しのつかぬ破壊をもたらすものだ。人類を正しく進歩に導くことができるなら平和のほうが実りは大きい。
(レンムレン湖のアークか。位置と近辺の使用言語から考えておそらく中国のものだな。中央アジア諸国の協力もあっただろうか?)
手帳を広げ、コナーは先程ヘウンバオスに見せてもらった聖櫃の様子を自分でもスケッチした。
透き通る六角柱。それを斜めにスライスした棺桶サイズのクリスタル。破損がなければ「核」は確実に保存されている。早くアルタルーペの隠れ里に持ち帰りたくてうずうずした。
ジーアンはまだ接合についてほとんど何もわかっていない。ハイランバオスが天帝につく気でもなければ計略は成功するだろう。だがあの詩人と接合し、古い記憶を覗き見たコナーには、詩人が半身への嫌がらせをやめないことには揺るぎない確信があった。末端の蟲たちはいつだって最初の宿主の残りかすに突き動かされるものなのだ。
(アークから『核』を抜けばいよいよハイランバオスたちに里心がつく心配はなくなるし、アクアレイアにとっては万事追い風だな)
幕屋には間もなく狐が戻ってきて、楽しげにほかの将とのやり取りを語ってくれた。しばらくすると詩人も玄関布を捲って五体満足な姿を見せる。
彼の腰に長い曲刀が差してあるのに気付いてコナーはやはりと口角を上げた。哀れな王をからかってきたハイランバオスは幸せそうだ。
「我々もしばらくゆっくりすることにいたしましょう。テイアンスアンに発つ日まで」
頷き合ってコナーたちは思い思いに室内に散った。
見上げれば天窓から降りてくる光が温かく柔らかい。
ああ、じきに春が来るのだ。




