第5章 その3
ふう、とレイモンドは胸を撫で下ろす。ルディアが危険に晒されることなく天帝との話が済んで良かったと。とにかく一歩前進だ。障害はまだあれこれと残っているが、最初の関門はすり抜けた。
(姫様もちょっとほっとした顔してるな)
恋人の横顔を見れば緊張がいくらか解けているのがわかる。とは言え気楽にお喋りできる雰囲気でもなかったが。
天幕を出た防衛隊に毛むくじゃらの大男が「少し待て」と言いつけて去る。武装したジーアン兵がうろうろする草むらに部隊はしばし留め置かれた。
(早くこいつらどっか行ってくんねーかな)
じろじろと見張られていては仲間内での会話すら憚られる。余計な話は一切せずにレイモンドたちは表面上大人しく待った。胸中に秘した計画を悟られることのないように。
しばらくすると熊男が戻ってきて「お前たちの幕屋を車から下ろしたぞ」と告げられる。寝床は今までと変わりないらしい。防衛隊は防衛隊の、コナーはコナーの、ブルーノたちはブルーノたちの元いた幕屋へと促された。
「それでは寛がせていただこうかな。次に君たちに会うのはテイアンスアンを登るときになりそうだね」
「え、ええと。じゃあ僕たちも……」
上機嫌に鼻歌なぞ口ずさみ、画家は手を振って去っていく。名残惜しそうな騎士の手を引き、ブルーノも女帝の幕屋へ歩いていった。その後ろを灰色猫とアニークが衛兵に守られながらついていく。
「俺は先生と同じとこ使えばいいよね? ハイちゃんが出てきたら戻るから、皆は先にゆっくりしててー」
まだ残ると言うラオタオにルディアが「わかった」と頷いた。なら遠慮なく引き揚げることにしよう。そうレイモンドたちが歩き出したときである。「貴様はこっちだ!」と大熊が狐の首根っこを掴んだのは。
「ほええ!? ちょっ、首絞まっ! ちょっ!」
ろくな抵抗もできぬままラオタオは別の大きな幕屋へずるずる引きずられていった。「やだやだ!」と全力で嫌がる声が喜劇のごとく虚空に響く。
取り調べでも始まるのだろうか。いささか不安ではあるが、ラオタオにせよハイランバオスにせよ助け舟の出しようがない。レイモンドは心の中で二人の健闘を祈った。まあおそらく、心配せずとも口八丁で出てくるだろう。それにこれはなんというか、彼らの自業自得だった。
この隙にこちらは最終確認ができそうである。粛々と歩むルディアに続き、防衛隊は防衛隊の幕屋に戻った。玄関布を下ろしきり、誰の監視もないことを速やかに確認する。王女はレイモンド、モモ、バジル、アイリーン、アンバーの五人を側に集めて小さく囁いた。
「いいな。テイアンスアンに入山するまでは普段通りにしていろ」
それで全部伝わった。やはりルディアはアークのもとで天帝を毒牙にかけるつもりなのだと。
もうじき大きな仕事が終わる。彼女はきっといくつもの大国を統べる君主に生まれ変わるだろう。そうなればルディアの考えや性向とは関係なく防衛隊は形を変えるか解散になるはずだ。
これまでの行動でレイモンドは「もしも部隊がなくなるとしても彼女の隣に居続けたい」という意志は示したつもりである。誰とも問題を起こさなかったし、アルフレッドにも親切にしてやった。この先ルディアが何を言い出しても反論できる材料を用意するために。
彼女はきっと好きなところへ行けと言う。つらいならアルフレッドやモモやバジルと一緒にいなくてもいいと。だから己は、つらくなどないという証拠をもっとたくさん作っておかねばならなかった。いつでもルディアを納得させ、急にどこかへいなくなったりさせないように。
(姫様がいなくちゃ俺は──)
今考えるべきことではない。まだ天帝との入れ替わりすら行っていない状況で。わかっていても胸に居座る憂慮を締め出すのは困難だった。
早く何もかも落ち着けばいい。ルディアは思いつめすぎる。手にしたはずの幸福さえ彼女は置き去りにしてしまう。
離れ離れになりたくなかった。その気持ちが強すぎた。
──だから多分、彼女以外のすべてのことに頭が回らなかったのだと思う。
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胃がむずむずと違和感を訴える。明らかに消化不良だった。ほとんどなんの申し開きもさせないで、ヘウンバオスが裏切り者への追及をやめてしまって。
「いったー! そんな乱暴に扱うことないだろー!?」
軍議用の幕屋の中、絨毯の上に放られた狐を見やってウァーリはきつく眉をしかめる。室内にはファンスウを除く十将の全員が再び集まっていた。皆同じ気持ちなのだ。ルディアもコナーも今はどうだっていい。ふざけきった二人の態度が許せない。
「この大嘘つき!」
「やっぱりハイランバオスと繋がっていたんじゃないか!」
「何がなんにも知らないだ!」
引き倒した狐を囲んで皆で詰め寄る。事と次第では天帝に措置を考え直してもらわねばならなかった。認められるはずないのだ。今更仲間に戻ろうなんて虫のいい考えは。
「貴様、どう落とし前をつける気だ?」
大熊がずいと迫る。厳しく眼光を尖らせて。温厚な彼がここまで怒気を露わにするなど百年に一度あるかどうかだ。だがラオタオは、さもおかしげに吹き出しただけだった。
「ぷぷぷ! あははははっ!」
一体何が面白いのか狐は手を叩いて笑い転がる。甲高い声が響くたび臓腑が冷えていくようだった。
なんて嫌な温度差だろう。指先を握り込み、ウァーリはこの侮辱に耐える。
「馬鹿じゃない? 延命したって長らえるのは百年ぽっちなんだよ。どうせ皆死ぬんだし、やりたいことやったほうが楽しいでしょ」
出てきた言葉に絶句する。自分が何をしでかしたか、事の重大さを理解していないとしか思えなかった。青筋を立てた大熊が胸ぐらを掴んでもラオタオは不遜な言動を改めない。「ところでいつまで人のこと転がしてるつもりなの?」と舐めきった台詞が発される。
「貴様どこまで……ッ!」
わななく声は哄笑に遮断された。人質を使って脅しにかかるかと思ったが、狐はそれよりもっと信じがたい言葉をのたまう。
「天帝陛下は俺になんにも言わなかったよ? じゃあさ、今のところお前らにこんな扱い受ける謂われもないよね?」
またもや声を失わされる。絶句するウァーリの横で殺気を纏ったダレエンが立ち上がった。狼も理性を手離す寸前だ。
「お前たち、本当にこのまま戻ってくる気なのか?」
問いかけに狐はにんまり口角を上げた。
「俺たちもさあ、まさかアークが見つかるとは夢にも思ってなかったんだわ。だから今までのはぜーんぶなし! お前らだってハイちゃんのおかげで故郷が見つかったようなもんなんだし、別にいいっしょ? 聖櫃の話持ち込んだのも、天帝陛下がここまで必死になったのも、みーんなハイちゃんの功績だろ?」
開いた口が塞がらない。彼が何を言っているのか少しも理解できなかった。
ラオタオはのそのそと勝手に一人で起き上がると欠伸をしながら幕屋の出口へと向かう。たいしたことは何もなかったと言わんばかりに。
「本気で言っているのか……?」
大熊の震える声にはくすりと微笑が返された。
「あの人は俺たちをお許しくださると思うよ?」
玄関布を捲る音。光が入って影が揺らぐ。
悠々と出て行く足音に、誰も何もできなかった。




