第5章 その2
ついにここまで来たかという感慨にふける暇もなく、防衛隊は多数の兵士に守られた大きな天幕へと引っ張られた。
ひと目で天帝専用と知れる、入口の飾り布から豪奢な幕屋だ。害意はないと示すために所持した武器は没収される前に預けた。背中を強く押されるままにルディアは室内に踏み込む。
フェルトの壁を朱金の絹で覆ったそこは遊牧民の小宮殿という感があった。かつて訪ねた天帝宮の幕屋が思い起こされる。状況は、バオゾのときとはもうまるで違ったが。
「もっと中へ詰めろ」
言われて少し奥へと進む。続々と人は増えていった。最初に連れられたのはルディア、レイモンド、バジル、モモ、アイリーンにアンバーだ。ダレエンとウァーリの両名に見張られながらハイランバオス、ラオタオ、コナーも入ってくる。その後すぐに古龍の姿のブルーノと、何が始まるかわかっていなさそうなアルフレッドがアニークに伴われて入室した。彼らの足元には猫のタルバも見受けられる。
迎えるのは玉座のごとく据えられた長椅子に腰かけるヘウンバオス。彼の脇を固める七名の男たち。バオゾの宴で見た顔も何人か混じっていたので彼らがジーアン十将かという憶測はたやすかった。そうそうたる顔ぶれだ。あちらもそれだけ必死ということだろう。
足音が止むと内部には冷たい温度の緊張が満ちる。玄関布が下ろされるや、長椅子の奥に立つ大男の声が静寂を切り裂いた。
「ハイランバオス、コナー、王女ルディア、天帝陛下の御前へ」
呼ばれたのは喋らせる必要があると見なされた三人だけだ。絨毯の上に跪く仲間を残し、ルディアは天帝の前へ出る。
真ん中にハイランバオスが両膝を、右にコナーが片膝をついたので己も左に片膝をついた。場が整うとほぼ同時、ヘウンバオスが「大体の話は聞いた」と切り出してくる。
「お前たちは結託してファンスウとウェイシャンの本体を強奪したそうだな。それで一体どういうつもりで私の前に顔を出した?」
鮮血の透ける双眸は彼の片割れだけを強く睨んでいた。溢れんばかりの怒りに他者が口を挟む隙はない。ゆえに彼への返答はハイランバオスが行った。
「うーん。最初は人質を使って楽しいことをしようかなと画策していたのですが……」
あっけらかんと詩人は悪意を白状する。聞かされた天帝がいっそう苛立ちを募らせるのを気に留めた風もなく。
「アークが見つかったようなので、取り急ぎお祝いに駆けつけました!」
ハイランバオスは悪びれもせずにっこりと指を組んだ。敬虔な祈りと祝福のポーズにヘウンバオスの眉間のしわが深くなる。彼の腰の曲刀が見えていないはずがないのに詩人は囀りをやめなかった。
「おや? お喜びになってくださらないのです? せっかくこうしてあなたのもとにコナーまで連れて戻りましたのに」
なんとも恩着せがましい台詞だ。味方のはずのルディアでさえ煽りすぎではないのかと不安になる。しかしさすがはエセ預言者と九百年も連れ添ってきた男である。ヘウンバオスは不快に思考を乱すことなく本題だけを推し進めた。
「その男はアークのなんだ?」
問いかけられてハイランバオスがすぐ隣の画家を見やる。片膝立ちのままでコナーは「では改めて自己紹介でも」と微笑んだ。
「私はアレイアのアーク管理者です。聖櫃から生み出され、聖櫃を守るために生きる特別な蟲でございます。レンムレン湖のアークが発見されたと聞き及び、是非ともお目にかかりたいと馳せ参じた次第です」
師は大仰に、舞台の上で挨拶をする役者のように恭しく頭を垂れる。
己なら古いアークがどんな状態にあるかわかると豪語する画家に対し、天帝は胡散臭げな一瞥で返した。
「どうして見つかったなどと思う?」
と、次なる問いが重ねられる。まるでこちらを試すように。
「だってほかに十将を一堂に会させるほど重要極まりない案件は考えられないではないですか!」
陶酔に浸りきった目をきらきらと輝かせ、答えたのは詩人だった。今度は彼が夢心地のまま問い返す。
「あなたには限られた情報しか伝わっていなかったはずです。一体どうやってアークを探し当てることができたのです?」
深々と溜め息が吐き返される。普段の調子を崩さないハイランバオスに天帝は眉をしかめる一方だ。詩人に付き合ってこれ以上疲労したくないということだろう。諦めたように目を逸らし、ヘウンバオスは問いに応じた。
「蟲を生むクリスタル。そんなものレンムレン湖から出てきたことはなかったから、砂漠に続く水源を探させた。テイアンスアンの洞窟に入った鷹はひと目でこれがアークと知れたと言っていた。不思議に懐かしい気がしたと」
見るからに喜ばしげにハイランバオスが「ご聡明な」と頬を染める。
「本当に、あなたには不可能などないようです。うふふふふ、もちろん我々もアークのもとへ連れて行ってくださるのでしょう? あなたの千年の集大成、最高の大団円をともに味わわせてください!」
乞われた天帝はひときわ大きく嘆息した。当然と言えば当然の、冷たい声が返される。
「その前に首を刎ねられると思わなかったのか?」
牙を突き立てられたのに詩人は驚きもしなかった。それどころか「刎ねたいですか? ではどうぞ」と自ら首を差し出してみせる。あまりにも平然とした彼の態度にヘウンバオスが喉を詰めた。短い沈黙。ややあって、狂人の相手をやめた天帝がルディアのほうに目を向ける。
「貴様はなぜここへ来た。裏切り者と通じ合った分際で」
威圧する声に顔を上げた。視線が合う。突き刺さる。
ためらわずに口を開き、ルディアは交渉を持ちかけた。表向きの──相手の油断を誘うための。
「ハイランバオスと結託したのは事実だが、私は私の祖国を取り戻したいだけだ。サルアルカには話し合うために来た。もしそちらがアクアレイアの返還を約束してくれるなら、私には延命の秘密を明かす用意がある」
提示した取引の内容は天帝の気を引いたらしい。ぴくりと彼の耳が跳ねる。互いに利のある契約だと思い込ませられるようにルディアは説得を続けた。
「この男はアークが見つかったならジーアンに帰るのもいいなどとほざくし、直接やり取りしたほうが早いと思った。捕虜にした蟲たちも望みが叶えば帝国にお返ししよう。悪い条件ではないだろう? アクアレイアがジーアンの蟲にとって紛い物だったなら領有にこだわる必要はないはずだ」
ヘウンバオスが目を眇める。答えはすぐには示されなかった。
「必要かそうでないかを決めるのは私であってお前ではない」
撥ねつけられ、不興を買ったかなと惑う。だがそう的外れな話を持ちかけたのではなかったようだ。値踏みする目でルディアを見やると天帝はひとまずの留保を告げた。
「返答はアークの現物を見てから行う。それまではくれぐれもファンスウたちを丁重に扱え」
是ではないが否でもないその言葉。魚が針にかかったことを確信し、よしと内心ほくそ笑む。だがこれで終わりというわけにはいかなかった。ルディアの意気を挫くかのようにヘウンバオスは詰問じみた追及を始める。
「ところで延命が成ったとして、我々はどうやって我々の命が長らえたことを知ればいいのだ?」
至極もっともな質問だ。「おめでとう、あなたはこれからもう百年生きることができますよ!」などと言われても百年経ってみなければ真実はわからない。取引検討にあたってヘウンバオスがその確認をしたがるのは当然の話だった。
「そもそもどうやって延命が可能な措置かを証明するつもりだ? ないものをあると言って騙すほうがずっと簡単なのだぞ?」
疑いに満ちた眼差しがルディアの目論見を暴こうと絡む。下手に嘘をつけばたちどころに見抜かれそうだった。少し考え、状況証拠だけ口にする。
「物理的に証明する手立てはない。しかしこちらの弓兵が弟子のために延命を行ったのは紛れもない事実だ。真に不可能な措置だとしたらそんなことは最初から起きなかった。そうだろう?」
「…………」
ルディアの言に天帝が押し黙る。帝国側に一連の件が露見した後、防衛隊が何をもって清算することになったかはヘウンバオスも聞き及んでいるはずだ。痛手はあまりに大きかった。今はそれを証の代わりとするほかない。
「……では延命は実際に可能であるとしよう。お前たちが本当に我々にそれを施す気があるかはどうすれば信じられる?」
遠慮ない問いかけが続く。少しの矛盾も見逃すまいとするように。
だが目を逸らすわけにはいかない。この質問には交易で国を盛り立ててきたアクアレイアの王女として率直な意見を返した。
「寿命を迎えた蟲たちはある日一斉に死ぬと聞いた。東方を支配するジーアンで、突然ごっそり上層部が倒れれば未曽有の大混乱になる。交易国で内乱など困るのだ。一世紀先送りにできるならそうしたい」
回答に不自然な点はなかったと思う。述べた言葉に一つ嘘があるとすれば、だから今のうちに帝国を乗っ取りたいということだけだった。
「なるほどな」
現実を見据えたルディアの説明にヘウンバオスは一応納得してくれたようである。それ以上のことはもう何も聞かれなかった。
しばし沈黙が訪れる。一秒一秒が異様に長く感じられる。
張りつめた空気を最初に破り、天帝に尋ねたのはコナーだった。
「一つだけお伺いしたいのですが、洞窟で発見されたという聖櫃はどういった状態でしたか?」
話す許可も与えられていないのにと不躾を咎められてもおかしくない場面である。だが天帝も十将も画家の無礼を看過した。
「どういう意味だ?」
ヘウンバオスがコナーに問う。「破損などは?」と師が続けると天帝は後ろに控えた熊のような大男に顎で何かの合図を送った。
「発見者に描かせた絵がある。それを見ろ」
間もなく男が寄ってきて、コナーに小さな紙筒が手渡される。画家は丁寧に丸められたそれを開いた。
「ほお……!」
聞くからに興奮した声。どうやら彼にとってかなり喜ばしいものが描かれていたらしい。
「折れても抉れても削れてもいない! 完璧な保存状態だ! 本当にこの形でアークが残っているとしたら、ひょっとして『核』が生きているかも……!」
色めきだった師に「核?」と天帝が問いかける。
「我々が人格の核と呼んでいるものか?」
ヘウンバオスの推察には「いいえ」とすぐさま首が振られた。
「人格形成に使用される宿主の残留思念とは違います。もっと別の、アークの心臓部たる──あ、いや」
画家は途中で語るのをやめてしまう。彼はふむ、と指に手を当てて考え込むとこう続けた。
「私と、あなたと、ルディア王女と、ラオタオ殿と、ハイランバオス殿の五人でならアークのもとで詳しくお話しいたしましょう。現物を眺めながら聞いたほうがあなたにとってもきっと良いかと思います」
なんにせよ現地には専門家を連れて行くべきだと説くコナーに対し、天帝は長く考え込んだ。却下されるかと思ったが「わかった」と了承が返る。
ルディアはおお、と胸中で歓声を上げた。これは嬉しい支援である。兵士や将とは隔絶された状況で、四対一なら天帝の首を絞めるのも簡単だ。師の協力に心から感謝した。
「発見地は険しい山中だ。鳥の姿でなければ辿り着けなかった。今新しい道を敷設している。完成まで今少し待て」
ヘウンバオス曰く、工事は既に最終段階に入っており、数日中に道は通じるだろうとのことである。そう聞いてハイランバオスが「わあ!」と笑顔を弾けさせた。
「楽しみですねえ。五人で仲良くアークのもとへ! ああ、今から胸が高鳴ります!」
天帝は片割れになんの反応も示さない。代わりのように全員幕屋を退出せよとの命が下った。十将も、女帝も、画家も、防衛隊も全員だと。最低限の確認は済んだということだろう。顎先で出入口が示される。
「客人に幕屋を用意してやれ」
指示を受け、大熊に似た将がいち早く玄関布を捲って外へ出て行った。接見はこれで終了らしい。もたもたせずにルディアたちも立ち上がる。
「お前はまだここにいろ。聞きたいことが山ほどある」
と、天帝がハイランバオスだけを引き留めた。なんの尋問をする気だと額に汗が滲んだが、難癖をつけて連れ出すのも難しい。結局ルディアは部隊とともにそのまま辞去する運びとなった。
(まああいつなら上手くやり過ごすか。アークのもとに、五人で辿り着きさえすれば我々の勝利は確定だ)
背後を気にしつつ敷居を跨ぐ。一歩幕屋から出れば冷たい風が草を揺らして吹き抜けた。
いよいよ最終局面だ。最初に頭さえ押さえれば後のことはどうとでもなる。ダレエンのような手強い者は後回しに、一人ずつ入れ替わっていけばいい。
ルディアは無言で仲間の背中を盗み見た。これが終わればやっと自由にしてやれる。今まで本当によく耐えてくれたと。
──あと少し、ほんの少しだ。悲しみを呼び込むばかりの不甲斐ない主君に仕えさせるのも。




