第4章 その6
どこに身を置けばいいのかもうわからない。わかるのは自分がここにいてはならないという焦燥に似た思いだけだ。
レイモンドはあれから毎日バジルを食事に誘いに来る。まるで一人でも仲間が欠けては意味がないとでも言うように。
アルフレッドらと合流する日も頻繁だった。集まれば昼の間はずっと一緒で疲れてしまう。こうして緩やかな輪に紛れても自分から彼らに話しかけるわけではないが。
(僕、何やってるんだろう……)
馬の蹄が規則正しく音を立てる。整列もせず移動するジーアン兵の波の中で主君と騎士の背中はいくらか遠く映った。二人に続いてレイモンド、ブルーノ、アイリーン、アンバーの乗る馬が行く。己の傍らには帽子を被ったピンク色の後ろ頭。時折こちらを振り返り、後続がはぐれていないのを確かめるとモモはまた進行方向に向き直った。
心臓を針で刺される心地がする。明確な気遣いを感じるたびに。
毎日毎日、己のしでかしたことの重さに狼狽するばかりだ。嘆息を零す資格さえありはしなかった。だから息も言葉も飲み込む。存在を希釈するように。
「バジル君!」
背後で声が響いたのはそのときだった。びくりと肩を跳ねさせるとバジルはおずおず声の主を振り仰ぐ。隣に馬を寄せてきたのはひらひら手を振るコナーだった。直接話をするのは天帝宮で出し物をした日以来だ。
聖櫃の管理者だという画家の親しげな眼差しについ身構える。一体なんの用だろう。
「やあ、久しぶりだね。調子はどうだい? サルアルカに着く前に君とは一度話をしておきたかったんだ」
アクアレイアの重要人物を無下にするわけにいかない。潜めた声でバジルは小さく「お久しぶりです」と応じる。なるべく手短に済ませてくれと祈りつつ見つめ返した。今は誰の側にいても罪悪感が募るだけだから。
「あの、僕にお話って……?」
よほど卑屈な顔で問いかけたのだろう。尋ねた途端にコナーがふふっと笑い出す。「事情は人伝に聞いたがね、別に君を叱りつけようと言うのじゃないよ」と落ち着いた声にたしなめられた。だがそんなことを言われたら余計に口などきけやしない。うつむいて黙り込んでしまったバジルに黒髪を揺らした画家がふうと小さく肩をすくめた。
「もう少し元気を出したまえ。今にも消え入りそうじゃないか。落ち込んでも時間は前にしか進まないよ。君の才能はこの先も世界の前進に必要だ。失態に囚われるより今から何を成せるかを考えたほうが建設的だと思うがね」
励ましの言葉に更に身が縮こまる。成せることなど到底あるとは思えない。部隊の皆を危険に晒し、アルフレッドを死なせてしまった。己にはそんな粗末な頭が一つあるだけだ。
「ドナで出発を待つ間、君の作った鏡を見せてもらったよ」
返事も待たずにコナーが褒める。素晴らしい出来だったと。
「あれだけクリアな鏡ならどこの富裕層も欲しがる。事によってはパトリア圏の貴族のステータスになるかもしれない。印刷業以上にアクアレイアの財政を立て直せる好カードなのは間違いないね」
「…………」
もうやめてほしかった。これ以上聞きたくなかった。いくら称賛されたって心苦しいだけである。そんなことで、そんな程度で、己がまだ皆と一緒にいていいなんて思えないのに。
「まあそういうわけだから、君の次なる発明にも期待しているよ。忘れないでくれたまえ。科学を発展させるのは君のような人間だということを!」
言いたいことを言い終えるとコナーは騎乗したまま道の端へずれていった。どうやら彼は一団を離れて草地の様子を観察するつもりらしい。広大な草原は意外にでこぼことしており、大量の人馬と車に均された範囲を出ると相当進みづらくなるのに。
ともあれ画家の関心がよそへ移ってほっとした。バジルは項垂れていた顔を上げる。
と、少しだけ前に向けた視線がこちらを見つめる少女を捉えた。余分な同情は感じない、しかし無情に見捨てもしない眼差しを。
「──」
モモはやはりすぐ前に向き直った。言葉はないが、もうずっとつかず離れずいてくれる。以前の己ならどんなに喜んだことだろう。だが今は彼女の親切に申し訳なさしか感じなかった。
(……旅が終わったら出て行こう。姫様の許可を貰えたら)
日ごとに自責の念は強まる。相応しくない。こんな自分ではあまりにも。
昔みたいになんて願えなかった。優しさに甘え、裁きも受けずにうやむやに済まそうなんて。
だからもう、自分から消えるしかないのだ。
******
遮るもののない草原に風が強く吹きつける。刃のごとく研ぎ澄まされた冷気は地上に生きるすべてのものから体熱を奪い尽くそうとするようだ。
ようやく温もった鞍の上、前後に軽く揺さぶられつつルディアは晴れた空を見上げた。
頭がおかしくなりそうだ。地上はこんなに吹雪いているのに。
前触れなく降り出した雪は前触れなく止むのが草原の常だった。会話をすると肺が痛むので雪の間は何も喋らないことにしている。ただ強く手綱を握り、ほかの馬と衝突しないようにだけ気をつける。
この雪は雲から降ってくるのではないらしい。遠くの高峰に積もったものが溶けることなく風で運ばれてくるのだとハイランバオスが教えてくれた。髪が濡れたら凍りますよとご丁寧に帽子に隠す仕草までして。
ドナを出たのが新年を迎えてすぐだったから、あれから一月経った今が一番寒い時期だという。なるほどと言わざるを得ない極寒だった。カロとの決着をつけるために向かった岬も酷く凍えた覚えがあるが、草原はその比ではない。疲労が即生命に関わるため馬は走らせられないし、幕屋を曳かせているものも一区間ごとに交代した。
立っているだけで弱るのだ。遊牧民が冬になると少しでも暖かな地に移り、家畜を守るに徹する理由が理解できた。サルアルカ到着は三月末の予定なので今より気候はやわらいでいるはずである。風や雪に行動を阻害されるおそれはないと信じたい。
(しかし冷えるな)
閉口しつつルディアは周囲を見渡した。
アルフレッドもレイモンドも無言で吹雪に耐えている。虚弱なアイリーンと老体のブルーノは早くも幕屋に避難していた。モモはやや遅れがちなバジルを案じて後方にいるようだ。アンバーも斧兵にくっついているのか姿が確認できなかった。この突発的な降雪がまだ続くなら自分たちも屋内に引っ込んだほうがいいかもしれない。
(できればなるべく外にいて視察を行いたいのだが……)
こうも視界が悪くては目にすべきものも目にできない。風は強まる一方だし、今日はもう色々と諦めたほうが良さそうだった。己が戻ると言わなければ誰もそうしようとは言い出さない。それに車を運搬する退役兵らも息を抜きづらいだろう。
「…………」
ちらとルディアは防衛隊用の幕屋を囲む二十余名の兵士を振り向く。ウヤ(マルコム)にゴジャ(オーベド)、第一グループの脳蟲たちは身を切る寒さに文句も言わず黙々と荷馬を歩かせていた。
早く彼らと心置きなく言葉を交わせる環境も用意しなければ。
ジーアン兵の目がありすぎて今は迂闊にねぎらうことすらできそうにない。ハイランバオスやラオタオとも世間話の域を出ない無難なやり取りがあるのみだった。
(やるべきことは皆わかってくれている。二言三言伝えられればそれでいい。最終的な打ち合わせでは……)
何もかもサルアルカに至ってからかと息をついた。
焦る思いを消しきれないのは協力者である二人がいまいち信用ならないせいだろうか。エセ預言者らの言を鵜呑みにするなよとは口酸っぱく言い聞かせてから旅立ったが。
「レイモンド、次の休憩で一旦幕屋に入ろう」
斜め後ろの恋人に告げると彼はほっとしたように頷いた。隣のアルフレッドには寂しげに見つめられたが致し方ない。まだどこが人体の限界ラインか推し量れない彼もさっさと保護者のもとへ帰さねば。
アクアレイアが一定距離ごとに補給のできる寄港地を確保して短い航行日数と旅の安全を維持していたように、ジーアンもまた草原という海原に一定距離ごとに駅と呼ばれる厩舎を設けている。騎馬民族の小さな拠点の周辺には必ず冬営中の遊牧民がいて、疲れた馬を交換し、食物を差し出してくれた。
道を重視するジーアンの統治はどこか自分たちと似ている。冬の旅、それも酷寒を行く旅だとは思えないほどここまでずっと安定した道のりだった。残り二ヶ月の旅程もきっと同じように過ぎていくのだろう。すべてを凍りつかせたまま。
(ヘウンバオスとの接合を果たせば難事には片が付く──)
対処すべき問題から目を背けていることは知っていた。だがサルアルカでの入れ替わりは、部隊よりむしろ退役兵(脳蟲)の手を借りて実行することになる。なら今は皆をそっとしておきたかった。表面上は以前の彼らに戻っていてもバジルは小さくなったままだし、レイモンドも無理をしているのは否めない。とてもではないが作戦行動をともにするなど不可能だった。
楽にしてやりたいと思う。たとえ自分が皆と離れ離れになっても。そう願うことの間違いは指摘されたはずなのに。
風が吹く。灰色じみた白が視界を埋め尽くす。
──どうしても誰も信じられない。
きっと変わらないのだろう。この先も己は永遠に。そのことがまた心苦しく、彼らを尊重できないなら側にいるべきではないと内なる思いは強まった。
冷気を吸った胸が痛い。だが目は前から逸らさなかった。
両隣も、すぐ後ろも、振り返ることはできなかったが。
******
「また詩を作っているのか」
鼻歌を口ずさむ片割れの後ろ姿に呼びかける。すると彼はくるりと振り向き、丸い頬を上気させつつ悪びれもせず微笑んだ。
「熱い戦いでしたから」
断言されて眉をしかめる。彼の詩人的センスではそうなるのかもしれないが、自分にとって負けは負けでしかなかったから。
春になり、家畜たちは子を産んだ。ゾドの冬を越えるという当初の目的だけならば見事に完遂したと言える。だが胸にあるのは一抹の虚しさのみだった。己がしくじりさえしなければまだ見ぬ塩湖に手を伸ばせたかもしれないのだ。この悔しさは簡単には消えはしまい。
「血の団結は崩れても、我らの絆は深まれり……」
歌う男に「おい」と思わず声を荒らげた。
「遠慮をしない奴だな。敗北までそんな詳細に詩にするか?」
氏族が冷淡に去っていったことを思うとまだ歯痒い。あれからすぐに有力な別の男に身体を換えたが、姿が違えば印象までも変わるのかジーアンの血族はほとんど残ろうとしなかった。よく知りもせぬ西方に戦いながら進むより、踵を返して豊かな草地を押さえたほうが得だと彼らは踏んだのだ。
この点に関しては反省すべき点が多々ある。今度大きな戦いを起こす際には血縁に頼るのではなく組織立った軍を編成せねばならない。征服地の住人も、追い出すのでなく力として組み込むべきだ。でなければ強大かつ巨大な国など作れるはずもないのだから。
「あはっ」
と、片割れが楽しげに笑みを零す。なんだと見れば「あなたもめげないお方ですね」と輝く瞳を細められた。
「敗北などではありませんよ。挫折はいつだって大いなる勝利の先触れです。レンムレン湖が見つかったそのときは、この冬の出来事すべてあなたの栄光を飾る黄金となりましょう」
若緑と小花が揺れる草原で詩人が告げる。「スー」と短い名を呼んだ。言葉にならない思いを込めて。
職人に紛れて知恵をつけるのが好きだった彼は障害の残った器を捨てた後、黒髪碧眼の文士に身を移していた。
サルアルカ風に戻った名が示すのは何百年と過ぎても探すのをやめられない生まれ故郷のあの「水」だ。
青く澄んだ目に戻らぬオアシスを幻視する。彼は希望の象徴だった。小さな水溜まりと成り果てたレンムレン湖が潰えたとき、ただ一つ、天の星のごとく降ってきた。
「きっとお祝いしましょうね。これ以上ないほど盛大な宴を開いて。あなたのために私は最高の詩を捧げます。めでたしめでたしで終わる詩を」
春の柔らかな日が照る中を、親愛を示して両手が握られる。
心というものに特別な何かを掲げ置く場所があるとすれば、そこにあったのはいつも同じ夢だった。
一対の黄金の馬。世界の果てまで駆けていく。隣に彼という半身が在れば、荒唐無稽な考えもいつか実現できると強く信じられた。
歌うようにスーが続ける。「鉄山の鉄は採り尽くしてしまいましたが、我々の進撃の余波で亡びた国から鉄銭が流出しているようです」と。
鉄鉱石には無駄が多い。あんなに重いのに苦労して溶かしてみれば使える量は半分以下だ。だが鉄銭くらい純度の高い鉄ならば簡素な鍛冶場で十分に加工可能である。遊牧民が家畜を追っての移動生活をしながらでも──。なんとも滑らかに片割れは言い切った。
「血の結束は弱いので、心などない鉄を使って確たる力を持ちましょう」
そう囁かれ、似た者同士だなと笑った。何百年と過ぎようと立ち止まることを知らない自分たちは。
五世紀もの時を費やし、ジーアンは大きくなった。その功績の半分は片割れのものだった。
いつも、いつも、支えてくれたのは同じ腕。振り切って一人で立ち上がったのに、なぜまだ心はあの半身を求めるのだろう。
詩の終わりを待っている。
祝福されるべき千年の果てを。
そこに己の望んだすべてが揃っていて、永遠に欠けないことを。




