第4章 その3
わかっていたことじゃないの。
そのうち彼は姫君のもとに帰るのだって。
部隊の仲間に囲まれて笑っているアルフレッドをアニークは車の陰に隠れて見つめる。一ヶ月以上ほとんど放っていたくせに、一日あれば元の鞘に収まるのねと軽蔑せずにいられなかった。
主君が側にいるからか、しがらみをことごとく忘れたからか、騎士の表情は朗らかだ。笑顔は己にも向けてくれるがそこまで上機嫌ではない。いつだって彼の目は別のプリンセスを探している。
(もう私の恋が叶う日は来ないわね)
もともと期待もしていなかったが、彼からルディア以外のすべてが欠落した今となってはかける望みも見当たらなかった。それなのになぜまだ自分は彼に執着するのだろう。いくら己の「核」がそういうものなのだとは言え、本当に馬鹿みたいだ。
アニークは騎士との乗馬を諦めて幕屋に戻ることにした。乗ろうとしていた馬を放し、荷台に上がるべく歩を踏み出す。「ニャッ」と足元で悲鳴がしたのは直後だった。
「きゃあ!?」
つまづいたのは温かな何か。崩れたバランスを立て直し、なんだなんだと下を向く。するとそこには猫の器に入れてやったタルバがいた。
彼もまた隠れてこそこそ防衛隊を見ていたらしい。あの緑髪のガラス職人が気がかりで仕方ないのだろう。鳩尾を蹴ってしまったのに、灰色猫は鳴き声を漏らさぬように健気に痛みに耐えていた。
「……あなたも難儀な立場よねえ」
ぽつり呟く。敵と味方の板挟み。彼さえ黙してくれていれば「アルフレッド」は生き延びていたのではと思わなくないけれど、さすがの己も身内を責める気になれなかった。
延命は必要な情報だった。タルバの判断もウァーリの判断もダレエンの判断も間違ってはいなかった。間違っていないならそれは正しいはずなのに、なぜこんなにも虚しいのだろう。
喪失感はまだ心臓を止めるほどではない。息絶えた彼の首を確かにこの手に抱いたのに、おかしなくらい実感が伴っていなかった。何もかも遠い日の夢のようで。
思い出は他人の記憶じみていた。彼なりの罪ほろぼしか「アルフレッド」は随分長く最後の時間をアニークと過ごしてくれたけれど、もう何を話したかもおぼろげにしか思い出せない。「誰のせいでもないんです」と説く落ち着いた声をかすかに覚えているだけだ。
(あなたさえいてくれれば私はなんでも良かったのにね)
ぼんやり物思いにふける間、灰色猫は無言でアニークを見上げていた。己がここに陣取ったままでは彼が居づらいかもしれない。そう思い、そっと猫の脇を追い越す。
「出発前には戻ってくるのよ」
ひと言だけ声をかけ、今度こそ荷台に上がった。
玄関布を捲る前にもう一度アルフレッドを振り返る。主君を見つめ、温和に笑っている彼を。
(……あの調子じゃ私のことなんかきっとすぐに忘れてしまうわ)
どうしようもない寂しさを振り切るように幕屋へ逃げ込む。魔除けのために正面の壁に飾られた黄金馬像がひとりぼっちのアニークを迎えた。
早く、早く、埋めてしまおう。恋心なんてものは。伴侶なら己には最高の人がいる。想いはもはや届かぬものとなったのだ。命尽きるまで消えない炎だとしても、せめて土を被せなければ。
(ヘウンバオス様──)
半ば無理やりほかの男を脳裏に浮かべる。あの人はこれからどうするつもりなのだろう。本当にアークが見つかったならその後は。アクアレイアから手を引くのか、レンムレン国を再建するのか。なんにせよ状況が大きく変わるのは間違いない。
己はこれからあの人を側で支えていかなくては。妻として、彼の最後の分身として。
心を決めておきたいのに、アニークにはどうしてもそれが現実味のある未来には思えないのだった。
******
聖櫃が何かを突き止めるのがあなたの試練ではないですか。そう言い残して片割れが去り、およそ二年の時が過ぎた。まだ二年。たった二年だ。だがその二年が決定的に自分たちを変えてしまった。
ヘウンバオスは上座に据えた長椅子から立ち上がり、壁に飾った一対の黄金馬像を振り仰いだ。訪れた客が最初に目にする正面奥には各天幕の最上の品を置くのが遊牧民の習わしだ。ジーアン族がジーアン帝国として名乗りを上げたそのときから、ここの飾りは黄金を塗った牡馬に統一させていた。十将の耳につけさせたのも、弟の耳につけさせたのも、皆同じものである。
ハイランバオスもラオタオもまだ耳飾りを外してはいまい。直感はほとんど確信に近かった。
だから惑いが胸に湧く。己は彼らをどう迎えるべきなのか。
アークを探せ。求められたそれは果たした。問題はそうして得られるものがなんなのかということだ。延命の方法は未だ明らかでないものの、可能らしいのは判明している。聖櫃は蟲に永遠をもたらしてくれるのか。再び郷里が手に入るのか。そういった一切を片割れは示唆しないままだった。
黄金馬像に背を向けてヘウンバオスは幕屋を出た。サルアルカ近郊に築いた一大冬営地では馬や羊が囲いの中で干し草を食んでいる。
放牧は季節ごとに決まった土地を巡るのが基本だ。家畜が草を食い尽くさぬよう、何度も恵みを望めるように。羊たちはあてどなくさまよい歩くわけではない。しばし離れた大地にも時が過ぎればまた戻る。
──あれも戻ってくる気だろうか。ヘウンバオスは吹き抜ける冷たい風に目を伏せた。わかりやすい手土産まで携えて、何を企んでいるのだか。
防衛隊とコナーさえ始末すればジーアンの秘密を知る者はいなくなる。そういう意図で連れてくるのだと考えることもできる。あの男の真意など、こうと断定できたものではないけれど。
だが少なくともアークを見つけた次に待つものがなんなのか語る気くらいはあるのだろう。当人が直接ここへ向かっているということは。なら己は、彼のもたらす答えの先を考えておかねばならない。
曲刀の柄を握って力をこめた。「さすがは我が君」と喜ぶに違いない片割れを脳裏に浮かべて。嬉しげに笑う詩人の顔は容易に想像することができる。だが彼を前にした己の姿は微塵も思い描けなかった。
これは迷いだ。
わかっている。
(三月にはハイランバオスがここへ来る──)
振り返ればどこまでも緑の草原が広がった。ずっと、ずっと、ともに駆けてきた蟲たちの第二の故郷。
あれは今どのあたりにいるのだろう。
首を落とす気になれるかどうか、自問の答えは出なかった。
******
少し離れていただけなのに随分遠ざかっていたように思う景色を一望する。地を埋める背の高い草々と天蓋を覆う青。風が吹くたびにざざあと音を立てて波打ち、地平線まで見通せる野はどこか海を彷彿とさせる。あらゆる生命の母であるあの雄大な水辺に。
ウァーリには引っ込んでいろと言われたが、ここまで来て暗い屋内でじっとしてなどいられない。ハイランバオスは馬を駆り、コナーやラオタオと平原へ出ていた。好奇心旺盛な画家は早くも付近の地勢や植生に関心を奪われていたけれど、狐は栗毛の一頭に乗って同じくこの大草原を眺めている。
「帰ってきたって感じするねー」
軽やかな声とともに細い目が三日月型に緩められた。足を止めた自分たちを多数の馬が追い越していくが気にせず道に留まり続ける。
「寒くない?」
問いかけに首を振った。隙間風が入り込むと凍えて動けなくなるので遊牧民の装束は手元も首元もぴったりしている。開けっ放しだったラオタオの立襟も小都市を発って以降は一番上までしっかりと締められていた。
確かに冷えるがこの寒気がハイランバオスは嫌いでなかった。厳しい環境を克服するには知恵がいる。困難はいつだって眼前に美しい詩を見せてくれた。ジーアン族に入り込んで初めて遭った災害の年も。
ネブラを過ぎてもまだ吹雪らしい吹雪に見舞われないからか、極端に降雪の少なかったあの冬が思い出される。
草原は脆弱だ。雪が降りすぎても降らなさすぎても冬を越すのが難しくなる。ほとんどの土地で森林が育つほどの雨量がなく、農耕に適さない。羊を飼って暮らすしかないが、それも安泰とは言いがたかった。雪が積もれば家畜の食す草は埋もれ、雪が降らねば草そのものが枯れてしまう。大雪は白いゾド、植物の枯死は黒いゾドと呼ばれて恐れられてきた。
あれは楽しい日々だった。悩み苦しむあの人を側で見つめられて。
一面の緑にハイランバオスは微笑を浮かべる。五世紀も昔のことでも記憶はこんなにも鮮やかだ。
「ね、ハイちゃん、あのときのこと考えてる?」
すぐ隣につけた狐が楽しげにこちらを仰ぐ。「ええ」と返してハイランバオスは目を閉じた。道はしばらく分岐もないし、再度馬を駆る気になるまで思い出に浸るのもいいだろう。
遠い日の詩を呼び起こした。
映る景色と重ねるように。




