第1章 その4
夏の陽光はすべてに平等に照りつける。威容溢れるガレー船にも、透き通る青い海にも、廃墟同然の小都市にも。
人の住まなくなった家はすぐ傷む。そんな言葉を思い出した。ドナにおいてそれは家でなく港だったが。
「これが港町……なのか……?」
呆然と尋ねたルディアに答えてくれる者はいない。ジーアン軍に占拠される前のドナを知る防衛隊員らは衝撃に黙り込んだままだった。
石造りの堤防に囲われた船着場にはうず高い瓦礫の山。割れたレンガや切石はどれも港だったものの一部だ。二年前まで商人と水夫と荷運び人で盛況していただろう波止場は崩れかけており、無人の灯台が虚しく海を見つめている。
港は完全に放棄されていた。入江には藻が溜まり、門も税関も焦げついて、桟橋などフナクイムシの恰好の餌食になっている。ジーアン軍に破壊されたのか大きな船は一隻も残っていなかった。どこもかしこもボロボロで、夜は幽霊でも出そうである。晴れやかな空との対比に背筋が冷えた。
「船がないのは逃げるときに使ったからだと思いますけど……」
バジルの呟きに「ああ、そうだった」と思い出す。ジーアンの攻撃を受けたアレイア海東岸の民が街に残って戦う者と逃げ出す者に分かれたこと。
難民のほとんどはアクアレイアが引き受けていた。ドナやヴラシィは王国の第二の故郷と呼んでいい友好国だったから。
元々ドナは女傑アリアドネの本拠地だ。この辺りは海岸線が入り組んでおり、連なる大小の島々が船の風避けに適している。海賊たちが身を隠しつつ仕事をするにはうってつけの漁場だった。
ドナはアクアレイア王国成立後、都市国家として発展した。彼らもまた悪行から足を洗い、王国に忠実で優秀な水夫を提供するようになったのである。
だが今は昔日の賑わいなど見る影もなかった。何十隻と出入りできそうな港の広さもかえって哀れを誘う始末だ。
「とにかく投錨しなくてはな」
あまりの荒れようにブラッドリーがどこに船を着けるべきか迷っていると街と港を隔てる壁の向こうから馬の蹄と人々の足音が響いてきた。ほどなくしてジーアン兵に連れられたドナの女たちが現れる。
「失礼! ハイランバオス様の船ですね? ラオタオ将軍の命により、食料と水の積み込みを開始します! ――おい、早くしろ!」
ドナの監督を任されていると思しき高帽子の騎馬兵は、痩せた老人を小舟に向かって蹴り飛ばした。老人はよろけながらも櫂を握り、よたよたとこちらの船に近づいてくる。
「おいおい、あんなじーちゃんに先導なんかやらせんなよ」
船縁でレイモンドが顔をしかめて小舟を見下ろす。老船頭はロープを渡してガレー船を導こうと奮闘するがなかなか前に進まない。
見かねたアルフレッドがブラッドリーに目配せした。ひらりと跳ねて小舟に乗り込んだ騎士に続き、ルディアも老人のもとへ向かう。
「大丈夫ですか? 少々足が悪いようにお見受けしますが」
「え、ええ、年なもので。ありがとうございます」
「ほかの連中は何をやっているんです? あなた一人では舟を漕ぐのも危ないでしょう」
「そ、それがせがれどもは……」
老人曰く、ドナには彼以外の水夫が一人も残っていないらしい。壮健な男は労働力としてジーアン帝国に根こそぎ連れ去られたそうだ。
「えっ!? もしかしてそれで積み込み作業に女性が駆り出されて?」
声を大にして驚くアルフレッドに「シッ!」と人差し指を立て、ルディアは港のジーアン騎馬兵を盗み見た。幸い「余計なことを聞くんじゃない!」との警告は飛んでこない。彼らにとってはドナ人もアクアレイア人もたいした脅威ではないのだろう。
「ドナはもうおしまいです。船に乗る者も、船を作る者も、誰もいなくなってしまいました。幼子らはどうして生きていけばいいのでしょう……」
嘆く老人は力を失くし、それ以上語らなかった。もう少し現地住民から情報収集したかったのだが仕方ない。
ガレー船が錨を下ろすと無言の女たちが水瓶と豆と固いパンを運んできた。皆一様に暗くうつむき、時折助けを求めるようにルディアたちを見上げてくる。だが今は彼女らにしてやれることは何もなかった。
一晩停泊する間、防衛隊とハイランバオスには船を降りる許可が出された。ぐるりと一周してみた街は港と同じく寂れ果てており、騎馬民族が海洋民族を支配する無益さを痛感するばかりだった。そうしてそれは、三日後に寄港したヴラシィでも大差なかったのである。
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「ハイちゃーん! こっちこっちー!」
白波を越え、甲板まで届く明るい声にグレッグは重い頭を上げた。どうやら次の街に到着したらしい。舗装が剥がれて石棺じみた港の突端に目をやれば、すらりとした細身の青年が馬上で手を振っていた。
男の耳元で黄金が光る。同じものが呼びかけに応じるハイランバオスの耳元でも揺れていた。天帝の直臣である証の馬形のイヤリング。あんな若造どもが政治や軍事、果ては宗教の中枢まで担っているのだからへんてこな国だ。
「へっ、そんでまた歓迎されるのは身内だけってか? 俺たちゃいつになれば土を踏ませてもらえるのかねえ」
グレッグは厭味ったらしく悪態をついた。叶うなら板梯子を伝って下船する聖預言者やその護衛たちに唾を吐きかけたいくらいだ。
街に降りられなければ胃に優しい食べ物を買ってくることもできやしない。あのレイモンドとかいうアクアレイア人をまだ頼りにしなくてはならないのかとどうにも鼻持ちならなかった。
「仮に滞在許可が出されたとして、防衛隊以外の者をガレー船から降ろす気はないぞ。ここはジーアン帝国領だ。いつ誰がどんな理由で不当に拘束されるか知れない。船に留まるほうがずっと安全だということを忘れないでくれ」
そのとき隣にいたブラッドリーが石造りの港の奥へ消えていく聖預言者一行を見守りながら呟いた。ムッと眉を寄せたグレッグに提督は続ける。
「うちの若いのが強情ですまないな。食べすぎにさえ気をつければそうきつい酔い方はしないはずだ。レモンをかじっていればなんとか耐えられるだろう」
こうあっさり詫びられるとは思いもよらず、グレッグは少々たじろぐ。つい「いや、あんたは何もしてねえだろ」と答えかけてグレッグはぶんぶんかぶりを振った。
「まったくだぜ! 統率がなってねえんじゃねえか? 見舞い品かと思ったら果物は金取るし、噂に違わぬ強欲ぶりだな!」
「何? そんなに値段をふっかけられたのか?」
「そうだ! 一つ五十ウェルスもしやがる!」
「なんだ、それなら市場価格の範囲内だぞ。むしろうと思えば一つ百ウェルスにしてもむしれるところを随分良心的ではないか」
「苦しんでる病人を前に良心的ィ!? あんたどうかしてんじゃねーのか!? 大体あんな酸っぱいだけの食い物が本当に五十ウェルスもするのかよ?」
「諸君らに必要だろうとレモンを買い込みに走ったせいで彼は減俸を食らったらしいがね。規律違反はいただけないが、私は親切だと思うぞ」
「えっ?」
「レモンを買わずに苦しむ病人を見捨てる選択肢もあったということだ。まあチャド王子にマルゴー兵のことを頼まれていたそうだから、値を抑えたのかもしれないが」
「チャ、チャド王子に?」
「防衛隊はルディア姫の直属兵だ。知らなかったか? ああそうだ、ついでにもう一つ言っておこう。諸君らが船酔いにならなければ彼は準備したレモン代をまるまる損していたわけだ。そう敵視せずとも良いのではないかな?」
諭す言葉に反論できず、グレッグは船縁を掴んで沈黙した。レモンを売って給料を下げられたのでは元も子もないではないか。しかもチャドに自分たちのことを頼まれているなんて、あの男からはひと言も聞いていないぞ。
(くそ、なんだよ! 恩着せがましいアクアレイア人のくせに! くそっ! くそくそくそ!)
「そうそう、レモンの原価ならイオナーヴァ島に着けばわかるからな」
立ち去り際、口髭を撫でつつブラッドリーがついでのように呟いた。
いやいやいや、そんなことでアクアレイア人なんか信用しないっつーの!
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ヴラシィの荒廃ぶりはドナの比ではなかった。元々が堅牢な城壁に囲まれた岩礁上の要塞都市である。破壊の限りを尽くされた街は女子供と老人だけでは到底復旧できそうになかった。
見張り塔は無残に崩れ、野晒しにされている。ジーアン軍に焼かれた城壁はあちこち黒く煤けていた。街の中心部でさえ屋根の落ちた家、外壁のない家が珍しくない。小広場の噴水は枯れ果て、守護精霊の石像は頭と身体をばらばらの方向に横たえている。
(なんだこれは……。ヴラシィが落ちてもう二年だぞ? それなのについ最近襲撃を受けたような有様ではないか)
ルディアはぐっと奥歯を噛み、土の被さった道を歩いた。ヴラシィの男たちは最後までジーアン軍に抵抗し、武器が尽きても剥がした石畳をぶつけて戦い続けたという。「アクアレイアが必ず援軍を送ってくれる」と励まし合って。
あの頃はまだマルゴー公国との同盟が刷新されていなかった。傭兵を雇おうにも彼らは敗北の見えている戦闘に赴こうとはしなかった。
パトリア古王国も反応は似たり寄ったりで。東岸が落ちればジーアン騎馬軍が船で乗りつけてくる可能性もあると説いたがまったく聞き入れようとせず、そればかりか寝ぼけた王侯貴族どもは。
――アクアレイアは正義ではなく国益のためにドナやヴラシィの救援を要請しているだけでしょう? 彼らがいなくてはアクアレイア商船の船乗りは人員不足になりますからな。
あの慇懃無礼な宰相の冷笑は思い出しても腸が煮える。そっちこそパトリア古王国から東パトリア帝国に乗り換えたアクアレイア憎しで兵を貸したくないだけではないか。そう言い返してやりたくて堪らなかった。
(偉い人には睨まれたくない……か)
レイモンドの言うことにも一理ある。外交面でのアクアレイアの苦労は大抵そういった「偉い国」に睨まれているために生じるのだ。
ドナやヴラシィには申し訳ないことをした。彼らとは確かに利得で繋がっていたが、少なからぬ義もあったのに。
「もうじき一番いい館に着くぜ! ハイちゃん、足痛くないか? アイリーンちゃんは疲れてない?」
と、高台に続く急な坂道を上りつつラオタオが短い列を振り返る。なんでも彼は今夜から三日間、ヴラシィ共和国の元市庁舎で聖預言者一行を大いに歓待してくれるらしい。
「ハイちゃんは可愛い女の子侍らせても喜ばないと思ったけどー、俺が楽しいからたくさん集めちゃったー!」
聞くからに頭の悪そうな宴である。最初から薄かった興味がただのひと言で消え失せる。
このラオタオという男、ひょっとするといわゆる「仲良し枠」での十将登用かもしれない。でなければアレイア海東岸をせしめておいて西パトリアを攻めあぐねるなど説明がつかなかった。
少なくともラオタオの海に対する関心の低さは窺える。将の愛馬が人間以上の金銀で飾り立てられているのがその証拠だ。
(船の使い道を学ぶ気がないならそこに突破口があるかもしれないな)
そうルディアが思考を巡らせていたときだった。坂道を上りきった先でそれが視界に飛び込んできたのは。
「っ……」
漏れかけた声を喉奥に封じ込める。港と違い、相応に修復された赤レンガの市庁舎の、トネリコの木々に囲まれた明るい庭に彼らはいた。――錆びた鎖に吊るされた、かつては議会で活発に意見を戦わせたのだろう議員たちは。
「ヒエッ……!」
幾体もの白骨死体に息を飲む男たちの横でアイリーンが真っ青になる。眉をしかめたモモが「趣味わっる……」と呟くのをアンバーが無言で諫めた。
「あれね、俺が仕留めたの。案外しぶとかったから、敬意を表して五年くらいぶら下げとこうかなって」
原始的すぎて頭が痛くなってくる。ジーアンの実力は認めるが、精神的にはまるで蛮族だ。
「弓の腕は健在ですか。一、二、三、四……ふむ、数字が良くありませんね。次の満月には埋めてしまったほうがいいでしょう」
「えーっマジで!? でもハイちゃんが言うならそうするかなー」
「代わりに花を植えると運気が上昇しますよ。ラッキーカラーは白です」
「ふんふん、白ね! 白は男を高貴に見せるよね!」
上手いこと言いくるめてくれたアンバーに感謝しつつルディアは敗軍の勇士たちに祈った。
忘れぬように胸に刻む。一歩間違えばアクアレイアも同じ運命を辿るのだと。
想像通り、その夜催された宴は享楽的で刹那的な、毒にも薬にもならぬ代物だった。薄い衣装で踊らされ、飲みかけの酒を引っかけられる娘たちに心から同情する。
ルディアたちは全員黙って胸糞悪い時間に耐えた。性悪狐がハイランバオスの従者には無関心だったのが不幸中の幸いだ。
長い三日が過ぎた後、ドナと同じくヴラシィでも地元の男を目にしないまま防衛隊は再びガレー船に乗り込んだ。




