第4章 その2
大事なものほど急に遠くへやろうとする。自分が関わらなくても平気だと、むしろそのほうがいいのだと思い込んで安心したがる。彼女にそういう傾向があることはわかっていた。今までずっと先回りして不信の種を除いてきたのにどうして芽など出させてしまったのだろう。一度根づけば容易には枯らせないのは知っていたのに。
レイモンドは身を起こし、移動生活に即した小さな寝台から下りた。軍服風に仕立てた一着ではなくてジーアン風の立襟装束に腕を通す。この先は厳しい寒さが待っている。遊牧民に倣って防寒する必要がある。
同じ黒でもフェルト地はもこもことして温かだった。昨日までとは違う己になる儀式を静かに終える。朝食はいつも夕飯の残りを適当に摘まむだけなので顔を洗えば支度はすぐに整った。あの騎士のもとへ出向く準備は。
深く、深く、息を吐く。
なんだってやってやる。ルディアの側にいるためなら。
「レイモンド、本当に行くのか?」
朝の薄闇に小さく声が響いたのはそのときだった。振り向けば気遣わしげな恋人が衝立に区切られた小空間に立っている。探るような眼差しを受け止め、安心させるべく笑いかけた。
「ああ、出発した後じゃなかなか声かけられないだろ? 今のうちに俺たちも外に出ちまおう」
覚悟ならもう決めた。あれを幼馴染として扱えなければきっとまたルディアは「もういいんだぞ」と言い出す。そして二度目は本当の別れ話になる。
天帝との入れ替わりに成功すれば彼女がレイモンドを遠ざけるのは簡単なのだ。権力の壁に阻まれて手が届かなくなる未来は目に見えた。だから彼女にはどうしても「防衛隊は大丈夫だ」と思わせなければならなかった。「無理をして一緒にいるわけじゃない」と。
「おーい皆、行くぞー」
呼びかけると衝立の奥からモモやバジルがぞろぞろ出てくる。アイリーンもアンバーも、今日から全員揃いの冬着だ。どんな服でも一番高貴に見えるのはやはりルディアで、彼女を先頭に一行は湿原に降り立った。
風が吹く。──強く、強く、髪を乱して。
目当ての男はのろのろ歩きの馬たちの向こうにすぐ見つかった。彼の傍らのブルーノは朝早くから連れ立って現れた部隊に驚きを隠せぬ様子だ。騎士はというとルディアに気づくや目を輝かせ、さっそく嬉しげに寄ってきた。
「ひめさま!」
それはアレイア語なのだなと舌打ちしたい気分に駆られる。アルフレッドは主君の前に足を止めると「おはよう、みんな」と挨拶し、集まった面々を順に眺めてニコニコ顔で名を呼んだ。
「モモ、アンバー、アイリーン」
順調だった羅列はそこでぴたりと止まり、おまえはだれだと言わんばかりに騎士が首を傾ける。真正面から見つめられ、居心地悪そうに弓兵が「ぼ、僕はバジル、です……」と芯のない声で名を名乗った。
「ぼ……? バジ……?」
母国語なのに彼には語句の切れ目がわからないらしい。気を回したブルーノがジーアン語でアルフレッドにぼそぼそと耳打ちする。ようやく意味が通じたか、にこりと笑んだアルフレッドは友好的に握手を求めた。
「はじめまして。バジル、よろしく」
響いたのはジーアン語。それで弓兵はたちまち委縮してしまう。
うつむいたままなんとか手は握り返していたが、傍目にもわかるほどバジルの肩は震えていた。
当然だ。長年親しくしていた男に「はじめまして」なんて言われたら誰でもそうなる。それが半分自分のせいならなおのこと。
表面上はにこやかに二人を眺めつつ、胸の温度に冷めきっている己を知る。バジルを気の毒に思う気持ちは露ほども湧かなかった。だがもう怒りは捨ててしまわねばならない。ルディアを怯えさせるものは。
「このひとは?」
と、無垢な双眸がこちらを向いた。黙っていれば「アルフレッド」そのままの、赤く燃え立つような瞳が。生真面目そうな太眉も、くっきりした鼻筋も、七つの頃からすぐ横にあった顔だ。
ずっと見てきた。ときに励まされながら、ときに羨望を覚えながら、ずっと隣で。
──もう構わないでくれ、レイモンド。
──お前といると、何も手にできなかった自分が惨めで仕方なくなる……。
瞬間、レイモンドは息を飲んで立ち尽くした。目の前の男の顔と、苦しげに吐き出した幼馴染の表情が重なって。何があっても笑って応じると決めていたのにそんなこと吹き飛びそうになる。
──良かったな。お前は望むものすべて手に入れた。
耳の奥で甦る声のせいで上手く舌が回らない。だがルディアの見ている前で失敗はできなかった。笑わなくては。受け入れるふりをしなくては。でないとまた大切なものを失ってしまう。
「俺は、レイモンド・オルブライト……」
レイモンドだ、とジーアン語で返答した。静かに頷いた赤髪の騎士が、ややぎこちない発音で復唱する。
「レイモンド?」
馴染んだ声に、よく知った眼差しに、締めつけられた胸が痛んだ。だが彼はこちらの変調に気づいた風もなく笑顔で握手を求めてくる。
「はじめまして、レイモンド。よろしく」
覚えたての言葉を使いたがる幼子のようだった。「アルフレッド」そっくりの顔を見て、やり直したかったのはこいつじゃないと叫びたくなる。
幼馴染に似た何か。震えているのを隠すために力をこめて手を握った。
「こっちこそ、よろしくな」
名を呼び返すことはできなかった。こいつにアルと呼びかけたくなかったし、呼びかけられない己にも勘付かれたくなかったから。
本当はアルと呼ぶべきなのだろう。ルディアに不仲を疑わせたくないのなら。だがどうしてもできなかった。頑張っても声が喉につっかえて音が音になってくれない。上手くやろうとする精神に肉体が反発するかのように。
「ひめさまも、うま、のるといい」
騎士の関心がルディアにしかないことが不幸中の幸いだった。アルフレッドは主君の手を引き、小柄なジーアン馬に上げる。騎乗訓練をしていれば無理に会話を保たせる必要も生じなかった。
その日は結局一度も彼の名を口にすることなく終わった。ルディアがそれに気づいていたかどうかは知らない。




