第4章 その1
その衝立を越えてくるのはアイリーンだけのはずだった。食事の入った器を抱え、心配そうに、もう少し食べなきゃ駄目よと説きながら。それなのになぜ今夜に限って彼が呼び出しにくるのだろう。「お前も冷めないうちに来いって」なんて、まるでまだアクアレイアで平和にやっていた頃のように。
「おーい、バジル? 聞こえてるか?」
なんでもないようにレイモンドがこちらを覗き込んでくる。幕屋の中はもう暗く、槍兵の掲げるランタンなしには何も見ることができない。普段の夕食はもっと早い時間に済むのだが、今日は彼とモモの間で激しい衝突があったからこんなに遅くにずれ込んだのだ。
だと言うのにレイモンドの表情は本当に何事もなかったようで、己は夢でも見ていたのかと訝った。皆が外に出てきたために逃げ込んだ暗がりで、確かに二人の争う声を耳にしたと思ったのに。
「とにかく今日はお前も皆と飯食えよ! 俺たちと顔合わせづらいとか、もうそういうの考えなくていーからさ」
平静な声に拒絶的な響きはなかった。目を見ようともしてくれなかったのが嘘のようだ。
けれど許されたなどと甘い考えを持つことはできなかった。だってどうしてレイモンドが急に態度を軟化させたのかわからない。そして彼に本心を尋ねる資格のない己には頷く以外していいことなどないのだった。
「よし、じゃあ行こう! ネブラで買った一級ワインもあるんだ」
年上の友人はぐいとこちらの手を引いて幕屋の中央のかまどへ向かう。謝罪のタイミングすら掴めず、逆に宙吊りにされた気がした。
どうしても声が出てこない。ごめんなさいと頭を下げねばならないのに。
「バジル!」
主君の声が己を呼ぶ。卓袱台を囲む面々は皆一様にほっとした顔でこちらを見つめた。アイリーンも、アンバーも、モモも。
促され、席に着いてもどうしていいかはわからないままだった。今は笑顔を浮かべている少女の目には涙の跡。やはりあれは己の見ていた幻などではないのだと知れる。
──モモが悪かったの?
──モモがちゃんとアル兄を説得できてたら良かった?
──モモがちゃんと……説得できてたらぁ……っ!
自分のせいでめちゃくちゃになってしまったものが、なぜまだ崩れ落ちずにそこにあるのだろう。日常に戻ろうとする皆に、立ち直ろうと努力する皆に、置いて行かれた気分になる。
盛りつけられたスープが己の前に置かれた。ルディアが食事の開始を告げる。卓に満ちるのは歓談の声。なんだか酷く遠い響きの。
(いいのかな。僕がここに混ざっても……)
激しく強い不安に駆られ、バジルは身を縮こまらせた。顔を伏せていることでしか申し訳なさを示せない。
自分なんかが。ろくに罰さえ受けていないのに。自己非難の思いはむくむくと膨らんだ。だがバジルには、皆の意向に背いてまで己の居た堪れなさを優先することはできなかった。レイモンドが一緒に居ろと言ったのだ。断るなんて有り得ない。己の判断というものをあんなに大きく間違えた後で。
(どうして誰も僕を追い出さないんだろう……)
スープに映る顔は虚ろに歪んでいる。それすら見るに堪えなくて、バジルは視線を床に落とした。
もうずっと、この先も、放っておかれるだけなのだと思っていた。もう一度仲間に戻るなど不可能に違いないと。
レイモンドは何を考えて声をかけに来たのだろう? 彼のあの強固な怒りが自然に解けたはずがないのに。
(モモ以外の誰かとも何かあった……?)
ちらと仰ぎ見た槍兵は陽気な顔でお喋りしている。そうする以外仕方ないとでも言うように。
ただ歪な、はまりきらない輪だけがある。食事の味も、彼の胸中も、バジルには何一つわからなかった。
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一体どういう心境の変化なのだろう。激怒して出て行ったと思ったら今度は全員揃って食事にしようだなんて。
「さっきは言いすぎてごめんな」と詫びてきた槍兵の顔を思い出しつつモモはスープをズズと啜る。ルディアに何か言われたのは間違いないと思うけれど、何を言われてこうなったのかは定かでない。つい先程まで「防衛隊もおしまいかな」と悲壮な心持ちでいたのに。
「皆、料理の味薄くないか? 香辛料手に入ったから使いたかったら遠慮なく使えよ! ほらアイリーン、もっとドバっといけって!」
「え、ええ」
困惑を示しているのはモモだけではなかった。アイリーンも、アンバーも、以前の賑やかな彼に戻った槍兵を眺めてぱちくり瞬きしている。烈火のごとき悲憤を彼はどこにしまい込んだのだろう? にこにこ笑いかけられてもとてもそれが本物の笑顔には思えない。厚みを増した仮面をむやみに引き剥がそうという気にもならなかったが。
(一緒にやっていくつもりはまだあるってことだよね……?)
部隊のためか、ルディアのためか、はたまた自分自身のためか。真意は知る由もないけれど、留まってくれるならひとまずはそれでいい。本当に駄目ならレイモンドは自分から見切りをつける。そうしないということは彼も彼なりに危機感を持っているのだ。となれば後は残る二人の問題だった。
「バジル、もう食べないの?」
そのうちの一人にそっと声をかける。斜め向かいに肩を丸めて腰かけた弓兵はびくりと肩を跳ねさせた。
「あ、いえ……」
スープの嵩がいくらか減っているだけでほとんど手つかずの夕食。緑の目を泳がせてバジルは声を詰まらせる。食べるのか食べないのかはハッキリしない。弓兵の手にした匙はどの皿に下りるでもなく空中をさまようばかりだ。
返答らしい返答もないので「栄養取らなきゃ倒れるよ?」と苦言して会話を終えた。優しくしても、厳しくしても、ぽっきり折れてしまいそうで。
止まれたくせに止まらなかった兄が悪い。その考えは変わっていない。だがバジルに非がなかったかと言われるとそれも否である。諜報活動を行う部隊の兵として彼は最悪の選択をした。ミスなら庇いようもあるが、意図して機密を流したことは本来どう処罰されてもおかしくない。悪くて抹殺、良くて除隊と国外追放だ。
だが今はルディアの取れる対応も限られていた。バジルの身柄をジーアンに拘束されても厄介だし、追放処分にはまずできない。しばしすべての作戦から彼を外すくらいしか懲罰的な命は下せないだろう。謹慎処分程度ではバジルのほうもいつまでも罪を清算した気分になどなれまいが。
(埋められないよね。人の死んだ穴なんて……)
ふう、と小さく息を吐く。
難しい問題だ。悪意でも我欲のためでもなかったと知っているから叱り方がわからなくなる。実行する前に相談しろと言うのも何か違う気がした。友人の生死がかかった状況で、やめておけと諭されるのを承知で、相談なんてする気になれるものだろうか? そこまで敵に心を許すなという話だが。
そう、そもそもそれがモモには理解できなかった。場合によっては美談なのかもしれないが、兵には兵の引くべき線があるはずだ。それともいつか己にも判断に迷う瞬間が来るのだろうか。
(バジルのことはちょっと長い目で見なきゃかなあ……)
硬質チーズの小塊を口に放り、味わうでもなく適当に噛んで飲み下す。斜め向かいの弓兵の食は一向に進んでいない。もっと食べても誰も目くじら立てやしないのに。
(まあ手をつける気にならないか……)
また溜め息を繰り返す。唯一の安心材料は、これ以上バジルが妙な暴走する心配はないということだけだった。彼はタルバの延命という目的を一応にせよ果たしたのだ。しばらくは大人しくしていてくれるはずである。
「そう言えばあの猫って今どこにいるの?」
ふと思い出した灰色猫の所在を問う。するとバジルはびくつきながら視線をこちらに返してきた。
「ええと……タルバさんなら女帝の車かと……」
弓兵曰く、馬で移動するときは一緒だったが、さすがに彼をこちらの幕屋に入れるわけにはいかないので放してきたということだ。最後に見たのは十将のウァーリに抱かれて荷台に上がる姿だったという。
「ああそっか、あいつもまだいるんだっけ」
延命を受けた男の名にレイモンドの目つきがにわかに険しくなる。だが彼はすぐ笑顔に戻ると「そっかそっか、女帝陛下のところか」と変わりない口調で続けた。
「明日は俺らもあっちに顔出しに行ってみるか? ブルーノ一人に任せっきりになってるしな」
この発言には皆揃って息を飲んだ。まさかレイモンドが進んで騎士のもとを訪ねようとは考えもしなかったからだ。
「レッ、レイモンド君? 大丈夫なの?」
思わずといった様子でアイリーンが問いかける。槍兵は「平気、平気!」と笑って取り合わなかったが。
ルディアを仰げば心配そうに細い眉を歪めている。しかし彼女も強く止める理由は浮かばなかったらしく「無理するなよ」と言うだけに留まった。
「よし、そんじゃ今夜は皆さっさと寝るんだぞ? 明日は馬に乗せられるかもしんねーからな!」
本当にレイモンドに何が起きたというのだろう。この短時間でここまで彼が行動を変えてしまうなんて。
(聞いても教えてくれないんだろうなあ)
和解は求めてきたくせに理解は拒んでいる彼を見やってモモは肩をすくめた。当たり前に諦めている自分に気づいて辟易する。
気軽になぜと問えないのは罪の意識があるからだ。向けられた敵意に怯んでしまったから。
続けていれば、一緒にいれば、前みたいに戻れるだろうか。
今はこれが──こんな程度が、自分たちの及第点だとわかるだけだ。




